第二話 祭りの支度

「はっ、はっ、はっ──」


 息を切らして、ぼくは山道を駆け上がる。

 依然雨脚は強く、足下はぬかるんでいる。

 降り続ける雨は、小流川を泥色の濁流に染め上げている。

 昨晩は酷い天気で落雷があり、また地震までもがあった。

 それで地盤が緩んで、土砂が流れ出しているのかもしれない。


「はっ、はっ、っと!?」


 足が縺れ、地面に倒れ込みそうになるのを、必死でこらえる。

 なんとか体勢を立て直して、地を蹴った。


 前後不覚なぐらい、ぼくは急いでいた。

 屋敷を飛び出したとき、軒下に吊られていた包丁にぶつかって、顔を切りかけたぐらいの焦り。

 あるいはあの包丁にも別の意味があるのかと疑問がよぎったが、それを考える暇すら惜しかった。

 鬼灯屋敷を出て、藻採山を登り、そして──


「──そんな」


 ぼくは、言葉を失った。

 その場には既に、幾人かの島のひとたちが集まっていた。

 勇魚宮司、鬼灯翁、田所駐在、萌花くん……


「どうして、こんなことに」


 荒い息の中で、ぼくは正体不明の怒りとともに、その言葉を吐き出した。


「なぜ、十郎太さんが死んでいるんだ!」


 そう、そこで笄十郎太は死んでいた。

 巨大な船型の岩──転落してきたカジロブネによって半身を押しつぶされ、内臓を口から吐き出した無惨な死体が、雨のなか転がっていて。


「アワシマの祟りだ……」


 十郎太さんが昨日口にした言葉が。

 ぼくの脳裏では無意味に残響をはじめていた。


§§


 ポケットの中の携帯端末が震動する。

 取り出してみれば、差出人が『乙』となっている添付ファイル。

 どうやら難解な調べ物を、あの天才は終えてしまったらしいと、ぼんやり考える。


 田所巡査がカジロブネ周囲の現場保持を行っているので、あまり近づくことは出来ない。

 今回も協力的な蛭井女史が、現場の撮影を行ってくれていて、やはり近づくのは憚られる。

 だから遠巻きに眺めるしかないぼくは、それでもいくつかのことを考える。


「だから! ただの岩じゃなか! 全幅七メートル半! しかもこいつは、ひとば下敷きにしちょる!」


 巡査は本土の同僚に向かって、そのように喚いているが、おそらく調査が来るのはまだ先になるだろう。

 波浪、依然として高く、船、いまだ運行できず。

 なにより。


「刑事どん。こいは事件ではなか。ただの事故やよ」


 鬼灯翁が、泰然とした調子で、そんなことを宣う。


「事故って……ひとが死んじょるとば、そげん扱いにはできん! どうみても不審死の類いたい!」

「じゃっどん。だいがどがんやって十郎太ば殺したってうとね。誰が、こがん巨石ば動かせると?」


 翁の言うことは、正しくもあった。

 あの岩、カジロブネは、到底人の力で動かせる質量ではない。

 実際に触った人物から聞き取りもしたが、全力で押しても揺らすことがせいぜいで、決して落ちることはなかったという。


 昨晩、落雷があったと思っていた。

 しかし、あれはもしかすると落石の音だったのかもしれない。


「けれど」


 仮に、この岩を貌無岩の上から落とせたとしよう。

 どうやって、十郎太さんに直撃させるというのか。


 貌無岩は山の中腹から突出している岩だ。

 そこから前に向かって岩を押せば──というか人力では足場の関係で前に押すしかない──見当違いの方向へと落下するだろう。


 カジロブネは、手前に転がって、山肌を伝い落下し、ちょうど十郎太さんを押しつぶしたところで停止しているのである。

 引っ張って落としたとでもいうのなら、それはクレーン車に匹敵する怪力だ。

 どう考えたって、人間の仕業ではない。

 まだ地震で自然に落下したと考える方が適切だ。


「と、おまえは考えている。けれど一方で、違和感を探している」


 囁くように、追いついてきた思慕くんが言った。

 彼女の言うとおりだった。ぼくは思考を止められないでいる。

 探す、観察する、目をこらす。


 ……カジロブネには、奇妙な穴が開いていた。


 指──それも人より二回りも大きな五指を突き入れたような、そう、ボーリングの球に開いているような穴だ。

 これはなにか、人工的なものであるような気がした。


 また、この岩は貌無岩と同じものだと考えていた。

 しかし、間近に見たことで、少しばかり石の形質が違うことも見えてきた。これは堆積岩だ。この島でよく見られる、あの黒い火成岩の類いではない。


 考える、考える、考える。


 答えは出ない、結論は見えない。

 ただ、怒りがふつふつと湧いてくる。


 気がつけば、ぼくは萌花くんに向かって歩き始めていた。

 彼女の隣に、勇魚さんとその取り巻きがいることなど、目もくれなかった。


「萌花くん」

「あ、先生。えっと、私」

「もう、やめよう」


 ぼくは教え子の肩を掴み、これ以上なく真剣に告げた。


「こんな危険な祭りに、キミが参加する理由なんてない」


 ざわりと、周囲の空気が変化する。

 けれど、構うものか。

 大事なのは教え子の身の安全だ。人死ばかり出る祭りの研究など、また別の機会にすればいいじゃないか。


「帰ろう、萌花くん。いや、帰れないのなら、安全な場所に避難するだけでもいい。これ以上、この件に関わるのはやめるんだ」

「貝木教授、余計な口出しこそをやめていただこうか」


 勇魚宮司がぼくの肩に手を置いた。

 グッと、強く押し込まれる。

 しかし、ぼくはそれを払いのける。


「余計? なにが余計なものか! ひとが、ふたりも! そうだ、ふたりも死んでいるんだぞ!? そんな状況でも、あなたたちは祭りを続けるというのか?」

「ああ、その通りだよ。自分たちは、祭祀を行う」

「正気じゃない……!」


 心底そう思った。

 このひとたちは、狂っていると。


「……ぼくは部外者だ。やめろとは言えない。けれど、教え子をこんなものに参加させるほど道徳心を捨ててもいない」


 だから、萌花くん。


「もう、巫女なんてやらなくていい。だってぼくらは、無関係じゃないか」


 心から真っ直ぐに。

 彼女を慮ったつもりで口にした言葉は。

 しかし。


「先生、聞いてくれますか?」


 同じように真っ直ぐに、真っ正面から否定された。


「私が──額月萌花が、どうしてこんなに必死でいるのか。それは、先生の所為なんですよ?」


 彼女は。

 萌花くんはどうしてだか、酷く穏やかな表情で、笑った。

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