第六話 怪異降臨 ーオトシゴー
雨の中、いつの間にか霧が立ちこめていた。
山の天気は変わりやすいというが、この荒天の中で風が凪ぐことなどあり得るだろうか?
いや、気にするべきはそんなことではなかった。
「ひっ、ひっ──」
尻餅をついた十郎太さんが、恐怖に引き攣った表情で、こちらへと手を伸ばしてくる。
その背後。
霧の中に──なにかがいた。
輪郭がぼやけているため判然とはしないが、四メートルはある。
でっぷりとした体つきのそれは、かすかに人型を残しており、身体を大きく左右に揺らす。
そのたびに。
びちゃ……びちゃ……
と、怖気のはしるような音が響く。
足を引きずり、歩いているのか? この粘着質で、鼓膜にへばりつくような耳障りな音は、足音なのか?
びちゃ……びちゃ……
びちゃり。
……違う。
滴り落ちているのだった。
それ自体が水気を帯びているのではない。
〝それ〟の肉体が腐敗し、とろとろと溶け落ちて地面に飛沫を作っているのだ。
『────』
音色が響く。
場違いなほど美しい音は、恐らく歌声。しかし、ただの一つも言語としては認識されない異常きわまりないモノで──
刹那、風が吹いた。
ブワリと鼻先に吹き付ける、潮と海藻と魚が淀みにて腐った臭い。
醜悪な悪臭が一帯に充満したとき、十郎太さんがたまらずに叫んでいた。
「あ、ああ、あああ──アワシマだあああああああああああああああああああああああ!」
アワシマ。
これが、アワシマ。
あの浜辺に打ち上げられたモノと同一の存在?
瞬時に脳裏を駆け抜ける無数の疑問。
けれど、それが象を結ぶよりも早く、霧の中から〝アワシマ〟が腕をこちらに伸ばして。
──視た。
それは水死体のようにぶよぶよとした青白い腐敗した巨大な腕。
滴り落ちるのは腐汁と海水と泥土と汚らしいリンパ液。
のっぺりとした、鼻も目も口もない無貌には、たるんだ肉の皺が模様を描き、おどろおどろしく長い黒髪が纏わり付いて。
〝ぬっぺふほふ〟。
きっとこれは、そう呼ぶべき怪異であり。
そして、こんなことを考えている間にも、ひとに数倍する太さの腕は、真っ直ぐに笄十郎太を目指して──
「まったく、世話が焼ける」
完全な異界と化した霧の中に、しゃがれた嗤笑が響き渡った。
錆び付いたヴァイオリンの音にも似た、こちらも歌のような、しかし人語として理解できる声。
十郎太さんのまえに、小さな影が滑り込む。
それは、やすっぽい巫女服の上に、パーカーを被った眼帯の少女。
歩き巫女……妣根思慕!
「仕損じたのか、なり損なったのか……嗤ってやるよ、世の無常を」
彼女は口元を皮肉げに歪めると、ボディバックを素早く開いた。
こぼれ落ちたのは、両の手のひらほどもある大きさの箱。
御霊箱。
思慕くんは御霊箱を掴むと、素早くその上を指で撫でた。
魔法のような指捌きが、箱根細工にも似た模様の上を滑るたび、開かずの箱に亀裂が入る。
それは隙間。
それは空漠。
それは虚無。
それは──
「
ギョロリと、目玉が覗いて。
「二度とは言わない。退け、この世在らざる神格よ。おれは同情しない、寛容しない、容赦しない。そして……貴様ら全てに与しない! いまここで日の降り注ぐ世界より立ち去らぬなら──」
歩き巫女は。
凜然たるシャーマンとしての声音で、怪異へと宣告する。
「おれは貴様を──〝密封〟する」
『────』
変化は。
劇的だった。
ずぞぞぞぞぞぞぞぞ、ぞ。
ブルリと全身を震わせたアワシマは、ポンプが水を吸い上げるような背筋が粟立つ音を立てると、波打ちながら霧の中に手を戻す。
そして、また、
ぐちゃ……ぐちゃ……
と、奇っ怪な音を立てながら
霧の濃い部分へと、そのまま消えてしまった。
「────」
その場に居合わせた全員が、息を止めていた。
あまりのことに言葉を失い、生唾を飲んだのさえ、ずっと時間が経ってのことだった。
霧が晴れはじめたころ、ようやくぼくらは正気に返る。
十郎太さんはただ、ぶつぶつと、
「アワシマの祟りだ……アワシマの祟りだ……」
と繰り返しているだけで、会話にもならず。
一方でぼくらの窮地を救った思慕くんは酷く不機嫌そうな表情で、
「愛を忘れたのか? それとも──」
そう呟くだけだった。
ぼくはといえば、ようやく頭が現実に追いついてきて、なんとも言えない胸中になっていた。
ついに怪異に遭遇したことを喜びたいような、それと相反するように原始的な恐怖に手足が痺れているような、奇妙な心地だった。
それでも学徒としての好奇心が足を動かせ、ぼくはアワシマがいたはずの場所へと進んでいく。
確かめたかった、あれが事実だったのかどうかを。
思慕くんは止めなかった。
怪物がいたはずの場所には、赤黒い汁の水たまりがあって、魚の内臓を一月も放置したような悪臭が立ち上っていた。
そして。
「……あれ?」
ぼくは、そのことに気がついた。
奇妙な、奇妙な碑(いしぶみ)に。
「津波境石……だって?」
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