第二話 当代巫女殺人事件
「……警察が来ない? どういうことですか」
提供された鬼灯屋敷の客室で、ぼくは濡れた髪を拭きながら首を傾げた。
無論、当惑にである。
赫千菊璃の遺体──そう、それは確かに生命活動を停止していた──を、現場に放置することは出来なかった。
現場保存の原則というのは理解している。
しかし、あのままではまた、いつ高潮に飲まれて彼女の遺体が流されてしまうかわかったものではない。
だから、遺体発見の報を聞いて駆けつけた、駐在の
結論から言えば、彼はこれを了承してくれた。
また、ぼくは蛭井女史に協力を求め、現場の状況をあらゆる角度からカメラに収めてもらった。
いずれこれが証拠になるだろうと考えたからだ。
彼女は想定よりも遙かに快く承諾してくれたが。
ただ、いざ遺体を搬送しようとなったとき、問題が起きた。
島民の誰も、遺体を運ぶことに手を貸してくれなかったのである。
無論、死体に触れたくないという気持ちはわかる。
古くからこの国に──いや、世界中で見受けられるケガレの概念を理解しないほど、ぼくは感性を捨てていない。
だが、実の兄である勇魚さんまでも拒絶したのは、あまりにも意外だった。
結局、ぼくと田所巡査、そして蛭井女史に萌花くん、ついでに思慕くんが手伝ってくれて、なんとか遺体を駐在所まで運ぶことが出来た。
彼女の遺体を、一応安置して、ぼくらは今後のことを相談するため、鬼灯屋敷にとって返したのだが──
「……警察が来ない? どういうことですか」
一難去ってまた一難。再び問題に直面していた。
レインコートを脱いで制服姿の田所巡査が、こちらと同じように困惑した調子で頭を掻く。
「そいが、この天候でしょう? 海上保安庁ですら船は出せんというとですたい」
「人がひとり亡くなっているんですよ?」
「それをおいに言われても……もちろん署の方では、天候が回復次第すぐ応援を寄越すち言っちょるとですが」
「……それは! いえ……仕方がないですね」
確かに天候は悪化の一途をたどっている。
この状態で船を出すのは、自殺行為かもしれない。二次被害など、もってのほかだ。
だから、これ以上彼に言い募っても意味がない。
「菊璃巫女の死因は解りますか」
「そいは守秘義務に当たりますけん、なんとも」
……うん。このひとは信用できそうだ。
一目で解る死因を、それでも職務に忠実に黙してくれている。
「先生……」
気落ちした様子の萌花くんが、着替えを終えて部屋にやってきた。
あとには、思慕くんと蛭井女史も続く。
ぼくの姿を見るなり、蛭井女史は卑屈な笑顔を浮かべた。
「けひひ……貝木教授、たいへんなことになりやしたね。なにせ先代巫女の失踪に続いて今度は──殺人事件ですから」
§§
「殺人事件なんて、穏やかじゃないことをあなたは言う」
「おやぁ気分を害されましたか、そいつは失敬」
「……なにか、根拠があるんですか」
ぼくの問いかけに、彼女は口元をいびつに歪めた。
「先代巫女は蒸発しているんです。おまけに当代巫女は胸を一突き。これが関係ないわけがないでしょうよ」
「前も仰っていましたね、先代巫女の失踪について。たしか、十一年前の奇祭の時だとか」
言いながら、田所巡査を横目に見て、
「ご存じですか」
と訊ねれば、
「おいは、そのころ本土に勤め取った。もとよりこの島のもんでもなかけんか……」
と、暗に知らないとほのめかされる。
頷き、この話題の発端である蛭井女史に向き直る。
「それは、どんな話ですか」
「へぇ、消えたんでさ」
消えた?
「祭りの翌日、ヨギホトってのと同衾していたはずの巫女が、祭祀堂から忽然と消え失せた……そういう話なんですよ」
祭祀堂と言えば、論文にウロブネと書かれていた場所か。
そこから、巫女がひとり失踪していると。
「証拠……なにかの記録でもありますか」
「ええ、ここにありやす」
渡されたのはスクラップブックだった。
当時の新聞、週刊誌などの切り抜き、そのコピーと思われるものが貼り付けられている。
小さな記事だったが、確かにひとりの女性が島から忽然といなくなったという旨が書かれている。
祭りの最中に姿を消したこと、それが十一年前だったこと。
その女性には子どもがいたこと。
「こんな記述がありやすぜ──『巫女は他に入り口のないウロブネのなかから、確かに施錠された状態で蒸発した』と」
「そ、それじゃあまるで、密室からテレポーテーションでもしたようじゃあないですか! なんて怪奇的な!」
「先生!」
「あ、ごめん」
思わず高い声で叫んでしまい、教え子にたしなめられる。
これはどうにも不謹慎だった。つい、オカルト的な話題が出ると条件反射でテンションが上がってしまう。悪いクセだ。
「えっと……しかし蛭井さん。祭祀堂からいなくなった、というのは、あくまで一部の島民による証言で、しかも後日否定されているようじゃないですか」
「なにかやましいことでもあったんじゃありやせんか。それで前言を翻した」
「やましいとは?」
「例えば……この記事を見てくだせぇ。後に伊賦夜で大規模な食中毒が起き、島民の半数が命を落とした、というもんです。一次産業にとって食中毒は致命的ですからねぇ、その後この島の水揚げはほとんど無視されたとかなんとか」
「……密室からの消失と、それになんの関係が?」
「さあ? それを調べるのが、今回の目的でして」
……話にならない。
というよりも、現状ではこのことは保留にするしかない。
いくら好奇心を刺激されるからといって、無関係の事件まで追うことは出来ない。
「ですが、気がかりな点もあります。この話を持ち出してきたということは、蛭井さん、あなたは菊璃巫女の死と、先代巫女の失踪に関連性があるとみている──そういうことですね?」
「……さあ。どうでしょうねぇ」
ニヤニヤと笑う彼女は、これ以上何も教えてくれそうになかった。
ぼくはため息をつき、頭を切り替える。
「けど、だとしたらこれは、異常事態だ。あり得ないことだよ」
「どういうことですかい?」
ジャーナリストとしての嗅覚からか、蛭井女史が真っ先にぼくの呟きに反応した。
「菊璃巫女の遺体があった場所さ」
その場にいた全員が、首を傾げる。
いや、思慕くんだけが興味もなさそうにそっぽを向いていた。
「あの腐敗したウバザメの死骸の中に、菊璃巫女の遺体はあった」
「それが、あり得ないことですか?」
「萌花くん、キミはそれのなにが不思議か解らないという顔をしているけど、じゃあね、いったいいつ、菊璃巫女の遺体はウバザメの中に入ったんだい?」
「──あ」
そこで、はじめて彼女はいま起きている異常を理解したらしかった。
「ウバザメは、明らかに腐敗していた。昨日今日死んだのでは、あそこまで遺骸が損壊することなどあり得ない。しかし、菊璃巫女は昨日の夕方まで、少なくともぼくらと一緒にいたんだ」
「ちょ、ちょっとまちんしゃい!」
そこで、田所巡査が、悲鳴のような疑問を叫んだ。
「そいじゃあ、なんか? あの巫女さんは──サメの死体に飲み込まれたっちいうんか!?」
死してなおうかばれないウバザメの骸が、ゾンビとなって動き出し、巫女を喰らった。
「そんなオカルト、あり得ません」
もちろん、萌花くんの言うとおりあり得ない。
だとすれば、現実的な解釈はこうなるだろう。
「どこかで命を失った菊璃巫女は、なんらかの理由であの浜辺に辿り着いた。その後、大きく海が荒れたことで押し寄せたウバザメの遺骸が、その上に覆い被さった。結果として、まるで腐ったウバザメの中に、巫女は包まれていたように見えたというわけだ」
先に先代巫女の失踪の話が出てきてしまったから、まるで忽然と姿を消し、サメの体内に現れたかのような幻想を抱いたが、これで違うと証明できる。
「いまのところ、これが一番現実的な解釈だろう。少なくとも、殺人事件かどうかは、ぼくや蛭井さん。あなたが判断することじゃない。どれだけ怪奇的だとしても、これは司法に任せることだ」
「…………」
大げさに肩をすくめ沈黙する蛭井女史から目線を逸らし、ぼくは教え子の方を向く。
「しかし……残念だったね、萌花くん。こうなってしまっては、キミの論文の取材どころではない」
是非もないと、ぼくはそう告げたはずだった。
もう今回は、これで終わりだと。
だが、教え子が口にしたのは、まったく予想外の言葉で。
「そのことなんですけど……先生、じつは私、巫女の代わりをしないかと、誘われているんです」
──なんだって?
「島の人たちはまだ、祭りを続行するつもりなんですよ」
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