第四章 禍邪開闢 -わざわいをはじめる-

第一話 漂着物 ~アワシマ~

 夜半になって降り出した雨は、いつのまにか叩きつけるような豪雨と化していた。

 空では凄まじい早さで暗雲が東へと流れてとぐろを巻き、幾度となく稲光が瞬いている。

 海は白波を高く舞いあげて時化しけり、轟々と吹き荒ぶ風の威力は、砂浜の潮水を含んだ重たい粒子を巻き上げるほどだった。


 伊賦夜島の南にある船引場、そして唯一の砂浜である寄ヶ浜には、いまや黒山の人だかりができあがっている。

 島民のほとんどが、ここに集まっているのだろう。

 蛭井女史や、思慕くんの姿もあった。

 ただ、昨晩ついぞ帰らなかった萌花くんと、神主の兄妹だけは見当たらない。


 ひときわ大きな雷鳴。

 照らし出されたのは、異形の物体だった。


 漂着物。

 あるいは、寄り神。

 この場に居合わせた全員が見ているものは、そのそれ。


和邇ワニだ……」


 蒙昧な言葉が、自分の口をついて出たことが意外ですらあった。


 この高波で、海底から引きずり出されたのだろうか?

 悠久の年月、深海の堆積物にうずもれ、朽ち果て、海を漂ったであろう〝それ〟の全身は、肉が爛れており、原形というものを残していない。

 だが、長い口吻と腐り落ちた骨肉が作る牙のような造詣は、まるで御伽噺──因幡いなばの白兎に登場する、大顎を持つ鰐鮫のようでもあった。


 或いは、もっと怪奇的な存在だろうか?

 長崎には、無数のトゲを持つ尻尾で、人を船から振り落とす〝磯撫いそなで〟という怪異がいる。

 この怪異は、島根の〝影鰐かげわに〟と同一視されており、影鰐は船乗りの影を飲み込み殺してしまうと伝えられている。

 そんなぼくの知識が抱かせる先入観からか、〝それ〟は、融け落ちた影とも、暗黒の鰐とも呼べる気がした。


「それにしても、大きい……」


 全長は十メートル近い。

 どうやら生物の遺骸らしいのだが、こんな姿をした生き物を、ぼくは寡聞にして知らない。

 想像することは出来るし、推測することも出来るだろう。だが、知らないのだ。

 あたかもそれは、この星の生態系とはまったく異なる場所から浮上してきた、常識外の異形であるようにすら思えてならなかった。


「アワシマ……」


 誰かが、そんなうめき声を上げた。

 怯えたような、恐怖の滲む声音。

 不安が伝播するように、その言葉は次々に島民たちの間に広がっていく。

 昨日、彼らが浮かべていた温和な笑顔は、そこには一片もなく。

 無表情に近い恐怖が蔓延していた。


「アワシマだ……」

「アワシマが出た……」

堕歳児おとしごのアワシマが……」


 アワシマ……?

 それが、この異様な代物の名前なのだろうか?

 いや、だが、その名は──


「みな、静まりなさい」


 凄烈な声が響くのと同時に、水を打ったように島民達が静まりかえった。

 轟々と吹き荒ぶ風の音と。

 潮が岩肌に叩きつける音だけが響く中、ゆっくりと人混みが割れる。


 歩み出てきたのは、紫の袴を身につけた神主姿の美丈夫──赫千勇魚さんだった。

 彼は胸元の十字架を弄びながら、数人の島人を取り巻きとして従えていた。

 そうして、取り巻きらの背後には、


「萌花くん!」

「先生……」


 なんだか弱った様子の、教え子がいて。


 彼女に駆け寄ろうとするぼくを、そっと袖を掲げて勇魚さんが遮った。

 目を丸くするも、彼はこちらを見ていない。

 そのどこか濁りを秘めた瞳は、アワシマと呼ばれた漂流物のみ見据えており、やがて小さく息を吐く。

 彼は十字架を握り、祈るような所作をしたのち、ようやくこちらを向いた。


「貝木教授。あなたはあれを、なんだと考えますか」

「……あなた方は、なんだと思っているんですか。アワシマとか、オトシゴとか言っていたようですが──」

「質問しているのはこちらです」


 ぴしゃりと、有無を言わせぬ調子に鼻白む。

 期待できそうにもない返答を飲み込んで、ぼくは訥々と答えた。


「ウバザメの……一種ではないかと、考えます」


 ホオジロザメともときおり間違われるこのサメは、ジンベエザメに次いで大きく成長する種類だ。

 大陸棚に近いこちらの海域にも生息しており、死骸が漂着するというのはあり得なくはない。


「なにより……このサメのユニークな特徴として、腐敗したものがUMAであると誤認されることが、しばしばあるのです」

「ほう」


 相づちを打ち、続きを促す勇魚さん。

 ぼくは苦々しい表情で説明を続ける。

 まるで、むりやり怪異性を否定させられている気分だった。


「UMA──いわゆる未確認生命体のことですが。ウバザメは腐敗すると下顎が脱落することが多く、また全身が爛れ、まったく別の生命体のようにも見えます。一九七七年ニュージーランドで発見されたニューネッシーは、このウバザメの変種──腐敗した姿だったと言われています」


 また、近年漂着しメディアで取り上げられる首長竜の遺骸だとか、シーサーペントだとか呼ばれるUMAも、ウバザメが原形もとどめないほど変型した結果ではないかと多くの学者が結論づけている。


「この辺りの海域は、鯨が座礁するほどの難所だと聞き及んでいます。であれば、どこかで死んだウバザメが、海流に運ばれて浜辺まで打ち上げられたとしても、不思議ではないでしょう」

「……と、いうことだそうだよ」


 ぼくが説明を終えると、勇魚さんは肩をすくめ。

 それから一同を見渡して告げた。


「この学者先生が証明してくれたとおり、これは単なる海洋生物の死骸だ。恐れる必要はない。みな、日常に戻って欲しい。もちろんこのまま放置することは出来ないから、自分たちが浜に埋めておくことにする。さあ、解散だ!」


 柔和な微笑みで彼が告げると、島の人々は少しばかり困惑した様子になって。

 しかし、指示されたとおりにその場から立ち去りはじめた。


 またも揺るぎないパワーバランスを見せつけられ、ぼくは唸ることになる。

 そうして、三々五々島民たちが散っていくなか、彼と彼が連れてきた数人の男手は〝アワシマ〟──ウバザメの方へと向かっていく。


 彼らとすれ違ったぼくは、ようやく教え子と話をする機会を得た。

 一晩ぶりに顔を合わせた萌花くんは、なんだか消耗しているようで。


「萌花くん。心配したよ、電話も通じなかったからね。疲れているようだけど……何かあったかい?」

「えっと、先生、じつは……」


 彼女は確かに、なにかを訴えようとした。

 けれど、それは、


「ぎゃああああ!?」


 寄ヶ浜に響き渡った短い悲鳴に、かき消されてしまった。

 反射的に振りかえれば、そこには腰を抜かしている勇魚さんの取り巻きたちがいて。

 そして──


「そんな──ばかな──」


 ぼくは、文字通りに言葉を失うことになる。

 ズルリと崩れ落ちたウバザメの腐肉、そこから露出した内側。

 そこに。


 胸元を真っ赤に塗らした赫千菊璃の、この島唯一の巫女の死体が、埋まっていたからである。

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