第二章 怪奇学一行、西へ

第一話 漁師たちは呼んだ、松枯島と

「おはようございます! 先生、論文は読んでくれましたか──って、ええええええええええええええええ!?」


 いきなり響き渡った絶叫で、ぼくは目を覚ました。

 ブラインドの隙間から射し込む朝日が目にしみる。

 どうやら、寝落ちしていたらしい。


 昨日ことは、夢だったのだろうか?

 起き抜け特有の巡りが悪い頭で考えながら、萌花くんに挨拶をする。


「ああ、おはよう。萌花くん」

「な、ななななななな」


 な?


「な、何をふしだらなことをやってるんですか、先生は!?」


 真っ赤な顔で大声をあげながら、彼女はぼくの胸のあたりを指差す。

 言われるがまま視線を落とすと、そこには夢の結晶が眠っていた。

 歩き巫女を名乗った少女。

 妣根思慕が、かすかな寝息を立てていたのである。


 軽い。

 見かけ通り、彼女は酷く軽かった。

 本当に、夢か幻のように。


「ああ、この子は思慕くんと言ってね。昨日の夜から一緒に論文を」

「い、一緒に!? そんな薄着の女の子と一晩を明かして!? だいの大人が爛れた関係を……! 私には手も出してくれないのにぃ!」


 なんだ、その語弊のある言い方は。

 ぼくは教え子を落ち着かせようと、言葉を探す。

 そうしていると、もぞもぞと腕の中で少女が動き始め。


 やがて、片方だけの目を開いた。


「…………」


 思慕くんはしばらく、寝ぼけ眼を擦っていたが、やがて研究室の中を見回し、ぼくと萌花くんに気がついた。


 少女が、ニタァっと、笑う。

 猛烈に嫌な予感がして黙らせようとしたときには、既に遅く。


「おう、一目で解ったぜ。あんたがあのへっぽこ論文の著者だな?」

「へっぽこ!? い、いえ、そもそも、誰なんですか、あなた!」

「おれは妣根思慕。そしていま決めたぜ。おれはあんたたちについていく」


 は?


「伊賦夜島へ調査に行くんだろ? おれも同行するって、そう言ったのさ」


「「はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──っ!?」」


§§


 そんなあれこれから時間が経って。

 初夏の暑い日差しが降り注ぐ中、ぼくたちは船上の人となっていた。


「見えた……!」


 思わず声が漏れる。

 ぼくの呟きに反応して、萌花くんたちも一斉に顔を上げた。


 眼前に広がる大海原。

 そこに芽生える、かすかな影。


 長崎本土から、西の沖合へ約三十一キロメートル。

 船旅にして、約二時間半。

 高速船と漁船を乗り継いだ先に、その島はあった。


 青天の海に浮かぶ、約六平方キロメートルの島。

 ──伊賦夜いぶや島。

 五島列島とも本土とも等しく距離を離す、まさしく絶海の孤島だった。


「こっからは、ちくっと揺れるぞ」


 親切でここまで連れてきてくれた船長さんが、険しい表情で言った。

 次の瞬間、言葉の通りに船体が跳ねる。


「うへぇ……船酔いしちまいそうだ」

「無理矢理ついてきたことへの天罰ですね!」


 やつれた様子の思慕くんが舌を出し、萌花くんが勝ち誇った様子でガッツポーズをとる。なんだこのふたり?


 ちなみに歩き巫女は、ボディバックを肩から提げていた。

 中身が何かと問えば、


「そりゃあ……商売道具が、いろいろと」


 などという答えが返ってきたので、件の御霊箱も、そこにはおさめられているのだろう。


「ところで船長さん。揺れるってのは、何か理由があってですか」

「……海流の関係ぞ。見れば解るとおり、こん辺りは岩礁だらけでな」


 なるほど、と頷く。

 今朝確認した気象予報によると、西南西の海上には熱帯低気圧が発生しているらしく、その影響からか、空こそ晴天だが波は高い。


 また、黒々とした岩肌をさらす岩礁が、一帯には無数の存在していて、これに打ち付けることで白波が立っている。

 海流は目に見えるほどに渦を巻き、その所為か、船長さんは操舵に細心の注意を払っているようだった。


 ……だが、どうやら彼の苦心は、それだけではないらしい。

 あまり歓迎すべきではない感情が、船長さんの顔には浮かんでいて。


「あそこは、松枯島しょうごじまやけん」


 忌むべきものを遠ざけるかのように、彼は吐き捨てた。

 岩礁と海流の先で、島は既に明確な像を結んでいる。


 切り立った奇岩断崖で構築された、いびつな島。

 中央には小高い山がそびえ、その側面にはやはり奇妙な形状の巨岩が突き出している。島の中央から少し外れたところに見えるのが、灯台だろう。民家はどこか、窮屈な壁面にへばりつくようにして密集している。


 なるほど、松枯島か。

 案内を頼んだ漁師たちが、一様に顔をしかめ、ぼくらに渡航をやめるよう苦言を呈した理由がわかったような気がした。


「どういう事ですか?」


 素直に疑問を口にする萌花くん。

 それを、今度は逆に思慕くんが嘲笑する。


「やっぱりへっぽこだな、あんたは」

「なんですってー!」

「人が住むところではない、という意味だよ、萌花くん」


 歩き巫女に噛みつくのをやめ、こちらを向いた教え子へ、ぼくは簡単なレクチャーを行った。

 民俗学というのは、どうにも他分野の知識が必要なものなのだ。


「松には、厳しい環境でも生育できるという俗説がある。遷移せんいというのを知っているかな? うつすという意味の言葉を二つ重ねて遷移。遷には島流しなんて意味もあるけど」

「先生、脱線してます」

「あ、ごめん。植物の種類──植生は、土地の成長段階に応じて不定期に入れ替わるというものだ。わかるかい?」

「えっと、一応は」

「うん、しっかり講義を受けているようだね。これからはフィールドワークのとき、植物や土、水の性質なんかにも着目してみるといい。きっと思わぬ発見があるだろう」


 いや、これも脱線か。

 話を戻そう。


「この遷移の初期の段階、第一次植生において、松は、岩の隙間から芽吹き生長する。厳密に言えば、競争相手のいない太陽光を一手に受けられる状態でしか成長できないということなんだが……」


 その話をすると、遷移論が提唱する極相クライマックスの真偽から確かめなくてはならない。これは、かなり面倒な証明だ。


「では、閑話休題をお願いします」

「うん、つまり松は、岩だけしかないような苛酷な土地でも生育すると信じられていた」

「じゃあ、松枯島というのは」

「端的に言えば、松すら枯れるような苛酷な土地だった、ということだろうね」


 もちろん、それは島が発見された当時のことだろう。


「船長さん、あの島はどうやって栄えてきたのですか?」

「知っていて訊いちょるのか?」

「え?」

「……鯨だ。余所者どもが勝手に鯨ば取り始めて、江戸時代から明治ぐらいまでの間に栄えたんだ」


 それならば理由は明確だ。

 岩礁が多く、潮流が複雑なこの海域では、鯨が迷い、座礁することも多かったのだろう。

 ここに流れるは対馬海流。

 いろいろなものが本土から流れてくることは、十分に考えられる。


 鯨寄れば、七浦潤す。

 一頭の鯨が流れ着けば、七つの共同体が冬を越せるという意味の言葉だが、この座礁鯨を〝寄り神〟と呼ぶ場合もある。

 それは恵比寿を表す言葉であり、外からやってくる恵み──すなわち来訪神を指している。


「だから、あるいはヨギホトさまっていうのも、この鯨から芽生えた概念じゃないかと、ぼくは睨んでいる。漂着神の鯨じゃないかと」

「そういうことなんですか? 私、あの島にいたころはとても小さくて、何も覚えていないんですけど。いま二十二才なので、ちょうど半分ぐらいの歳までは島にいたんですが……」


 幼少期の思い出というのは、場合によってはまったく記憶に残らないものだ。

 不自然にいろいろと覚えているぼくのような奴の方が、稀なケースだと言えるだろう。


「だから、そんな顔はしなくていいよ、萌花くん。これから確かめればいいんだから」

「──先生は、無自覚ですよね」


 なにが?


「頬紅を差すまでもねェってことだよ、朴念仁」

「ほんとそうですよ」


 こんなときだけは、何故か一致団結する彼女たちなのだった。

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