祭りの夜に

yurihana

第1話

東京の武蔵野という場所に一人の男が住んでいた。髪に緩く癖のついている、三十路をこえた山田智也やまだともやという男である。

山田智也は山田家の三男として生まれた。

優秀な長男と、堕落した次男を兄として持ち、幼少の頃から親に期待を持たれなかった。これは智也が親に嫌われていたのではない。全ては兄達の影響である。

長男の晴樹はるきは幼い頃から常に優秀な男であった。何においても一番を取り、親は大層な期待を息子に抱いた。そして晴樹は親の期待通り、有名な大学へ行き、世間に名の知れた、大きい会社に入社した。これに両親は大きな満足を覚えたが、問題なのは次男の方だった。

次男である直人なおとは、晴樹と年が近く、何においても比べられていた。最初こそ、闘争心を燃やしていたが、次第に何事においても無気力になっていった。つまり拗ねたのである。親がなんと言っても努力をしない。今、直人は怠惰にまみれた生活を送っている。

さて、この時両親は性格が真反対の息子の面倒で、疲れていた。三男まで丁寧に育てる余裕がなかったのである。子育てがマンネリ化してきたものあるのだろう。智也は親に特に興味を持たれずに育てられた。

智也は兄達との扱いの違いに最初こそ困惑していたが、次第に親に縛られないことの利点を感じ、自由気ままに遊んだ。勉強は中間くらいの順位をキープし、進学先は普通のレベルの所を選び、就職先も家に近いからという理由で、別に興味のなかった卸売業を担う会社へ入社した。

智也はしばらく自宅から出社していたが、友達が一人暮らしを始めたと聞くと、流されるように会社の近くのアパートに暮らし始めた。


智也は今の生活を嫌ってはいなかった。

かといって好んでいるわけでもない。

毎日同じような生活をしていくにつれて、智也が自室でため息をつく回数も増えていったように感じる。

味気ない生活。いや、味気ない人生というべきか。

智也は他人に流されるまま、テキトウに暮らしてきた。強い信念など持ったことはなく、挫折を感じたことがない代わりに心からの達成感も得たことがない。

(なんのために、俺は生きているんだろう……)

子供の時は、小学校、中学校と移るにつれて生活に変化があったから良かったものの、大人になり、生活の様子がある程度一定になってくると、今さら、自分の人生はこれで良かったのかと問い始めた。

智也はいつも答えを出す前に考えるのを止める。考えても仕方のないことだと分かっていた。これからも同じような生活を続けていくのだと智也は確信していた。

しかしそうは言っても、心にはモヤモヤとした影が始終存在していた。あのときこうしていたら……。あの時もっとああしておけば……。

やるせない思いで智也は酒を買い込んだ。

思い悩めば思い悩むほど、酒が恋しくなる。

智也は仕事から帰るとまずビール缶を開けた。

そして一気に飲み干すと、小さくため息をついて顎の無精髭を撫でた。


さて、秋の少し涼しいなった頃、仕事が休みだったため昼食後に家で寝ていた智也は、外が騒がしいのに気がついた。

何事かと思い窓を開けると、すっかり暗くなった外を、着物を着た少年が目の前を駆けてゆくのが見える。

そこで智也は今日が武蔵野八幡宮の祭りの日であることを思い出した。

このまま家にいてもつまらない。智也は軽い気持ちで祭りへ向かった。右手には安いビールが握られている。

酒を飲みながら道を歩いていると、周りから酒飲みへの軽蔑した視線が飛んでくる。

智也はその視線に何の注意も払わなかった。

さらに酒をあおり、よろけて左脇のポールにぶつかりそうになる。

周囲の人は関わらないように智也から避けた。

(どうせこんなに酒を飲んでちゃあ、長生きはできない。誰にどう思われたって……)

そんなことを思いながら、智也は千鳥足で祭りの会場へ向かった。


武蔵野八幡宮はいつもの落ち着いた雰囲気と一変して、大いに賑わっていた。

橙色の明かりが夜の暗さと交わって、幻想的な空間を醸し出している。

ハキハキと客引きをする声はやけに輝いて聞こえた。

智也はしばらく屋台を見て回ったが、いよいよ酒がまわってきたのだろうか、歩いているのが苦しくなり、それでもビールを一本買ってから、光の届かない木々の隙間でしゃがみこんだ。

木にもたれかかると、屋台の並ぶ場所がまるで異世界のように感じる。

自分には入ることができない世界。

頭がぼーっとし、智也は長い間同じ姿勢でいた。

それからどのくらい経っただろうか。顔を涼しく心地よい風が撫でた。

目を少し開き、辺りを見渡すと、すぐ右に少女が座っている。

智也はぎょっとして、体が左に傾いた。

「うおぁ!いつからいたんだよ!?」

少女は今では珍しいおかっぱの黒髪を揺らして、智也を見上げた。

正面から見る少女の顔は、白く、美しい。

おっとりとした垂れ目に純粋な光を灯らせて、少女は小さな唇を開いた。

「ずっと」

「ずっとぉ!?」

叫んでから、智也はしゃっくりをした。なぜ気がつかなかったのだろうか。酔いがまわっていたせいに違いない。智也は自分の醜態をこんな小学生くらいの少女に見られたことを恥ずかしく思った。しかし同時に、どうせ早死にするのだし、関係ない、といった自暴自棄の考えも浮かんだ。

「お兄さん、お酒飲んでるの?」

「ああ」

「なんで飲んでるの?」

この少女の質問に智也が答えてやる義理はなかったが、「お兄さん」と呼ばれたことで、智也は気持ちが寛大になっていた。

「気持ち良くなるからだよ。酒を飲めば辛いこともすぐにどうでもよくなれるんだ」

「ふーん」

少女の言葉には、嘲りや軽蔑の意味は込められていなかった。

「お兄さんは、今辛いの?」

「……まあ、辛いのかもな」

「何が辛いの?」

「なんでそんなこと、お前に教えなきゃならねんだよ……」

智也は首をそっぽに向けた。ちらりと少女の方を見ると、少女は以前と同じく、他意のない顔で智也の答えを待っている。

(こいつは、酒呑みの俺の話を馬鹿にしないで聞いてくれるかもしれない)

智也は少女に向き直った。

「俺はさ、今までなんとなくで生きてきたんだよ」

「なんとなく?」

「そ。大した夢も目標も持たずにな。

だから俺はあまり思い悩んだり、傷ついたりせずに、暮らしてこれたんだ。

そんで、今、そこそこの会社に入ってその日暮らしの生活をしてる。

今の生活を嫌っているわけじゃない。

友達と遊ぶ時は楽しいし、好きな映画を見るときはワクワクする。

ただ、その時は楽しいんだけどよ……なんていうか、生活に充実感がそんなにないっていうか……」

少女は黙って智也の話を聞いている。

「暮らしていくなかで、俺はご飯を食べることができる。風呂にも入れる。お金も、必要な分はある。

俺は恵まれているはずだ。

それなのに……」

そこまで話して智也は自分の話がまだ幼い子供に聞かせる話ではなかったことに気がついた。

「すまねぇ。子供に言うもんじゃなかっ」

「お兄さんはきっと」

智也が言い終わる前に、少女は話した。智也は息が止まるように、話をやめた。

少女は智也の顔を見つめた。そして先程と変わらないあどけない顔をして、話を続けた。

「お兄さんはきっと還りたいのよ」

「どういう意味だ?」

今度は智也が質問をする方だった。

「木や草達は繰り返しているの。

季節によって姿を変えながら」

「あー、葉っぱが落ちたり、紅葉したりする感じのやつ?」

少女はコクリと頷いた。

「若芽が出たときは嬉しいし、葉が散るときは悲しいわ。でもみんな満足してるのよ」

「へぇ……木の気持ちが分かんのか」

智也はからかうように言った。智也は少女が子供ならではの冗談を言っているのだと思った。少女は智也にニコリと笑いかけてから、少しうつむいた。

「でも人は還れないわ。前に進んでいくしかない」

「そいつぁ……大変だな」

智也は出店で買ったビールを開けて、グビッと一口飲んだ。

「そう。前だけ見なきゃいけないなんて、きっと不安で仕方ないわ。

だから人はいつも、必死なのね」

智也は少女の口調が、少し大人びているように感じた。

「人は、自分の過去を未来に残そうとするの。自分が二度と還れない姿を他の誰かに覚えておいて欲しくて」

「不安になって、自分の姿を追い求める……だから人は、生きる意味を探すのよ」

智也は眉を寄せた。少女の声には、外見の幼さとは比例しない、美しい強さがあった。

「なんでそんなことが分かる?」

智也はビールを飲むのをめ、少女の目を見る。

「分かるわ。ずっと見てきたもの」

「ずっと……?」

少女は慈愛がこもった笑みをフッと浮かべる。

「先は長いわよ」

優しい声が響き、その時風がサアッと吹いた。空気中を葉が舞う。

智也が瞬きをすると、目の前から少女は消えていた。

「これは一体……」

辺りをグルリと見て、そこで智也は祭りが終わることに気がついた。明かりはほとんどが消えており、夢が覚めるような心地がした。智也が慌てて時計を見ると、訪れた時から数時間も経過しているが分かった。

あの少女は何者だったのだろうか。

急に現れて急に消えた……。人間ではないのかもしれない。

神様?幽霊?妖精?

いくら考えても答えは出ない。

ただあの少女は人間をこよなく愛しているようだった。

フワフワとした不思議な感覚のまま、智也は出口へ向かった。

八幡宮から出る直前、智也は酒をあおろうとビール缶を傾けた。するとなぜか、あの少女の言葉が思い出された。

「……先は長い………か」

智也はビール缶を口から離すと、まだ少しふらつく足で、八幡宮の鳥居をくぐった。



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