とある画家の本懐
湊 善香
第1話 画家の過去
その画家は筆を握りながら眠る。
眠る時だけではない。食事をする時も、用を足す時も、セックスをする時も筆を握っている。
画家は30年以上売れない絵を描き続けている。彼の数少ない知人は彼に仕事を斡旋しようとするが、彼は「その必要はない」と彼らをはねつける。知人の一人は「貴方はよっぽど絵を描くことがお好きなのですね」と言うと、画家はぼそぼそと「そういうわけでもない」と言った。
実際のところ、画家自身もなぜ自分が画家になったのかを自覚していない。気付いたら筆を取っていて、かれこれ30年経ってしまったのだ。
彼の描くものは日常の「汚れたもの」ばかりである。画家の代表作(といってもそれは自己解釈に過ぎず、客観的に見て代表作といえるだけの作品などほんの一枚もない)は『雑巾』である。画家は使い古された雑巾を「美しい」ものとして描いた。埃や塵を自らの体に擦り付けることで部屋を綺麗にしていく雑巾を「美しい」と考えたのである。
画家にはかつて愛する人がいた。彼女は長い黒髪を垂らし、この世の穢れを何も知らないような澄んだ目をした女性であった。彼女は毎日のように画家の家に上がり込み、一夜を共にすることもあった。画家は彼女に会う度に、その美しさに新鮮な感動を覚えていた。
しかし、彼は彼女と時間を共にするにつれて、自己の中にある種の「虚しさ」を認めた。美しさに触れれば触れるほどに、自らの穢れを強く認識するようになった。そして彼女の澄んだ目で見つめられると、どうにも居心地が悪くなった。
ある朝、画家はコーヒーをすすりながら、「もう会わないようにしてくれないか」と彼女に懇願した。彼女は突然のことに驚きを隠せず、「どうして」とだけ言った。画家は「どうしてもだ」と応え、焦げたフレンチトーストを齧った。彼女は空いた皿を見つめながら「そう」と言い、家を出ていった。画家は一度も彼女を見なかった。
彼女が去ってから3年。画家は自らの穢れを自覚しなくなった。一方で、美しいものに対する興味を失っていた。美しいものを美しいと感じられなくなっていった。この世のあらゆるものは全て「穢れている」と考えた。
画家は食事やセックスへの興味を失っていった。とりわけセックスに対する嫌悪感は日々増大していった。この頃、画家の作品は専ら自画像であった。色黒で頰も痩せた顔を、様々な角度から描いた。その自画像は写実的というより、むしろ理想を投影したものとなっていた。良質な肉を毎日食べているような血色の良い肌に、程よく肉の付いた顔。眼光は鋭く、光が宿った若々しい眼球。程よく引き締まった口元。画家は自画像を描くうちに自分に対する自信を強めていった。
画家はしばらく家に引きこもっていたが、久々に外出しようという気になった。目的も持たぬまま街を歩いていると、画家はマスクにサングラスをした女性に遭遇した。彼女は「久しぶりね」と言った。画家はその声でその人物が誰であるかを知った。
その人物とは、かつて自分が追い出した女性である。
とある画家の本懐 湊 善香 @kawabatafun
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