人形 ※マーサ視点

 あの女が旅立って清々した。執務室に積み上がった書に目を通してふとそう思う。凛様まで一緒に行かれたことはだったけれど、あの女の姿を見なくて済むだけで精神的に幾分マシだ。


「本当に学がない奴らには辟易する」


 数多く寄せられた嘆願書には時折おかしなものも混じっている。今右手にあるこれについては井戸の水が足りないと言うもの。

 元々これを送ってきた村のあたりには小さいながら森があり、その森が地下に水を貯めていた。しかし、材木が売れると言う噂を信じて伐採を繰り返した結果、水が干上がってしまったのだ。当然すぐには無くならなくても、何年も続けていればやがて枯れる。枯れた時に気付いても遅いのに。


「理屈を理解させ、植樹と同時に直近の問題を解決する必要があるな。この辺りにでも作るか。……いや、まずは学校を作らなくては」


 労働力の確保も重要になってくるだろう。けれども学校建設は骨が折れる。の例を見ても、学校の重要性が理解されるには根気と努力が必要なのだ。この国にも文字があり数字がある。しかし、それを書く事ができるのは貴族と貴族に寄生する商人だけ。そのせいで安く買い叩かれたり、逆に高値で売りつけられたりと苦労しているのだから、そこを突くのが手っ取り早いだろう。

 しかし、子供の労働力と損を天秤にかけ、損を選ぶ者も少なくはない。手始めにある程度余裕のある者をまず引き込み、学校に通わせる事が得であると見せつけるのが良いだろうか?

 これについてはまた議題として出そう。

 書類が片付き、私は久しぶりに部屋に戻って休む事にした。いまだ見慣れぬ天井に、凛様が恋しくなる。私の不安を取り除くように部屋に戻れる日はいつも寝るまで側に居てくれたから。


「……皮肉だな」


 この世界に来て、あの人が凛と言う名前を与えられたと知った時、神はなんと残酷なのだろうと思った。あれほどを嫌っていたあの人に、凛と言う名前を与えるなんて。

 それでもせめて、この世界でだけは解放されてほしい。そんな願いを込めて、私はあの人に贈り物をする事にした。


「マーサ様、私です」


 女性にしては低い声。音もなく入ってきたのは、私が生まれた時から裏で仕事をしてくれている叔母だ。亜麻色の柔らかい髪が揺れて、私と同じ瞳を虚ろな様子で鈍く光らせていた。

 彼女にはコウシン草を乾燥させた物を吸わせてから一年経つ。そろそろ限界だろう。同じようにして父や母、祖父母を失った。それでも後悔はしていない。私はあの人を助けるために生まれた存在だから。そのためなら、何だって差し出せる。


「順調か?」


「はい、全て手筈通りに」


「よし、下がれ」


「はっ」


 彼女はかつて、私の養母だった。私達の家はかつて王の手から逃れ無事だったが、そのせいで凛様の命令をこなす暗部として働くことになった。だから、両親から愛情を注がれたことはない。その代わりに、叔母である彼女が私を育ててくれたのだ。だからこそ、彼女を最後まで関わらせたくなかった。けれどもう使える駒が無い。どうせ今回で終わるのだからもう必要も無いが、出来ることなら彼女は守りたかった。


「非情になりきれないな」


 そういうところはが羨ましい。あの人を散々苦しませたはいつだって残酷な決断をあの人に代わってしてきた。

 もう眠ろうと目を閉じて、瞼裏に焼きついた両親や祖父母の最期を思い出し、目を開く。静かな夜、虫の声が聞こえてきそうなほどの静寂は記憶の底に仕舞い込んだ断末魔を掘り起こす。額には脂汗が滲み、不安から歯を食いしばった。

 きっと今夜も眠れない。

 凛様、早く帰ってきてください——。

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鳥籠 彩亜也 @irodoll

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