幕間
零れ落ちた未来
「……食事だけでも、摂りませんか?」
客室のベッド、その枕元の椅子に座る少女に声をかける。
実際にはわたくしとそう変わらない歳なのですが、消沈する彼女の身体は普段以上に小さく見えて、まるで幼い子供のように感じてしまう。
「……わかりました」
丸一日以上、食べも眠りもせずに椅子に座ったまま。自分でも、そろそろ限界だと思ったのでしょう。
少女は力無い笑顔をわたくしに向けて、客室から出て行きました。
後を追う前にベッドを一瞥すれば、皆の心配を他所に、気持ち良さそうに眠り続ける男の寝顔。
「……何をしているのですか」
そう呟いて、わたくしは扉を閉じた。
◇
王都の屋敷から届いた急な知らせ。
『温泉で覗きを試みた挙句、鼻血を流して昏倒した』という第一報を聞いたときには、さすがに椅子から転げ落ちました。
しかし、そのふざけた内容とは裏腹に、事態は極めて深刻。
馬鹿馬鹿しいとは思いながらも王都に帰還すると、男が眠る客室にはわざわざペトゥラ様がお越しになっていた。
「こうならないように、無理はするなと言っておいたんだけど……」
その男の症状は、ペトゥラ様が予見していた通りのもの。
遺跡に潜り過ぎた冒険者に見受けられる、致命的な異常でした。
「本当なら、とうに発狂するなり破裂するなりしているはずなのに……頑丈な坊やね」
本来なら、この症状を呈した冒険者は然程時間を置かずに狂を発し、血を撒き散らして死ぬのだそう。
そもそもの原因が不明だそうですし、眠ったまま状態が安定している理由も全く分からないとのこと。
「チャーリーちゃんと言ったかしら。あの子が作ってくれた血を抜く魔術具で、当分は保つと思うけど……それ以上は、手の施しようがないわ」
身体自体は健康過ぎるほどに健康で、むしろ定期的に血を抜かないと危険なほど。
そのくせ、重湯などを口に入れれば、眠ったままきちんと飲み下すという、訳の分からない状態。
「あの子には……」
もう知らせたのかと問う前に、首を横に振るペトゥラ様。
ペトゥラ様がいらしたのは、わたくしの帰還の少し前。男の診察も、今日が初めてとのこと。
……別室で待つ少女に伝える事を思うと、何もかも放り投げて逃げ出したくなる。
ですが……
「……わたくしから、伝えます」
二人から目を逸らすには、些か深く関わり過ぎました。
◇
先日のことを思い出すわたくしの前で、静かに粥をすする少女。
綺麗に整えていた髪も、すっかりぼさぼさになっています。
「……姫様は、あいつの事をどう思っているのですか?」
匙を止めた少女の問いかけに、少し考え込みます。
あの男との出会いは、『羊の街』。
今からは考えられないほどに気弱だったわたくしを気にかけて、何くれと世話を焼いてくれました。
そして、二人きりでの遺跡からの脱出。
身を呈して守ってもらえたことに、女性として感じるものがなかったわけではありません。
……その直後に、身を呈して守らされましたが。
「……まぁ、目覚めてほしいと願う程度には情が湧いていますよ」
そんな適当な答えをどう思ったのか、少女は残りの粥を平らげて、食堂から去って行きました。
何処に向かうのかは聞くまでもない事ですし、止めるつもりもありません。
「……どうぞ」
エルバートが淹れてくれたお茶、そのカップに映る自分の顔としばし見つめ合う。
それなりの力は手に入れたつもりでも、どうにもならない事は確かに存在する。
無駄な足掻きをし続けるよりも、心の傷を乗り越えて前を向くのが、本来あるべき姿。
「……ふふっ」
彼女が心配しているような感情など、断じて抱いてはいない。
……でも、あの二人の冒険がこんな結末で終わってしまうのは、どうにも我慢できそうにありません。
決意を固め、冷めてしまったお茶をぐいっと飲み干す。
少々はしたない振る舞いにも、エルバートは普段通りの笑顔を浮かべたまま。
がちゃんというカップの音のあとに、端的な指示を下す。
「テレンスを呼び戻してください」
……わたくしが力を求めたのは、思うがままに生きるため。
採算も効率も成功の可能性も、その行動の動機さえも。
何もかも、知ったものですか。
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