第11話 人獣
ごりごりと不気味な音を響かせながら骨格を変容させていく人獣。膨張する筋肉に着衣は弾け飛び、留め具が破損した黄金の手甲も地に落ちる。
猫のようにしなやかな背が撓められ、鋭く伸びた爪が土に食い込んだ。
……来る!
「グルァアッ!」
身を竦ませる吠え声と上げて突進。一跳ねごとに加速するおっさんの巨体、四つん這いでも凄まじい迫力だ。
ぎりぎりまで引きつけてから斜め前方に躱す。横っ腹に反撃の拳を叩き込もうとするも、死角から強烈な衝撃。打ちかかりかけの姿勢のまま宙を舞う。
…あの速度から真横に切り返したのかよ!羊や牛とは動きのキレが桁違いだ。
鉄柱に背を打ちつけて呼吸が止まった俺を人獣の追撃が襲う。跳躍しながら高く振り上げた前肢にひっかきを警戒するが、本命は噛みつきだった。
「うぉっ!」
身をよじって間一髪の回避。耳元で顎門がちりと音を立てる。考えなしに突っ込んできた人獣は、鉄柱で鼻を強打して悶絶し始める。
巨体の下からまろび出て、ポケットからフォークを引っ張り出す。
…すまん、おっさん。
心の中で詫びながら、柄を腰元に押し付けて身体ごと脇腹にぶつかる。
「おいおい…」
神代人謹製のカトラリーは、神代の技術で強化された筋肉の丸みに反らされて毛ほどの傷をつけたのみ。
…これはちょっとどうしようもないぞ。獣が顔面の痛みから立ち直る前に逃走した。
◇
腫れた瞼を少し切って血を抜く。魔術を使えないのがもどかしい。
離れた位置に立つ柱の陰から様子を伺うと、ぐるぐると地面を這い回る人獣の姿が見えた。幸いなことに嗅覚などは強化されていないらしい。
「さて、どうするか…」
あの手の変貌には見覚えがある。元に戻す手立てにも…まぁいくつか心当たりはある。
羊人間になったモリス君。彼が元に戻れた理由は、昏倒させたこと、象徴となる部位をもぎ取ったこと、…あるいは姫様の一撃のいずれか。今のところおっさんから剥ぎ取れる部位は見当たらないし、四足歩行の相手の局部を狙うのも難しい。最初に試すべきは意識を奪うことだろう。
しかし、問題はあの耐久性。多少腕が上がったところで素手では太刀打ち出来ない。武器が必要だ。
再度、柱の陰から顔を覗かせる。人獣を挟んで反対側、遥か遠方に転がる『力』の棒。この場にある武器はあれしかない。
見つからずにこっそり回収するというのは…無理だな。切り札なんて大層なものはないので、手持ちのカス札で道を切り拓くしかない。
身を潜めたまま策を練っていると、虎男が格子を刺又でがんがんと叩き始める。ちんたらするな、ということなのだろう。あまり待たせてはさらなる介入を招いてしまうかもしれない。
ともかく行動開始だ。
◇
鉄柱の裏に身を隠しながら少しずつ進む。真っ直ぐ棒に向かうのではなく、大きく迂回する経路だ。
何とか半分ほど距離を縮めたところで人獣が顔を上げる。ここまで近づけばさすがに気づかれるか。
一枚めの札を切る。人獣の眼前を掠めるように投擲した薄桃色の円盤。虎男への賄賂として一応持ち込んでいた謎肉だ。
食欲に支配されているおっさんにも効果はあるだろうと思ったが、どうだ?!
芸を仕込まれた動物のように空中で肉に食らいつくおっさん。世話になった人の見るに耐えない姿に心が痛むが、今はそんなことを言っている場合ではない。
柱の陰から飛び出して、棒に向かって一直線に走る。
小さい肉で注意を引けたのはほんの一瞬。ろくに咀嚼もせずに円盤を飲み込んだ人獣は、より大きな肉を求めて追走を開始する。
俺は鉄柱の傍ぎりぎりを通る走路を選んでいるので、飛びかかるのを躊躇しているようだが……みるみる内に互いの距離が狭まっていく。
二枚めの札、ぼろぼろの革靴。山なりの軌道で放ったそれに、涎を垂らしてかぶりつくおっさん。俺の血がたっぷり染み込んで美味そうに見えたのかもしれないが…カトラリーがぎっしり詰まっているぞ!
子供騙しの一手だったが、理性を無くした相手には意外と有効だった。歯茎にでも刺さったのか苦しみ始める。頑丈だが痛みには弱いようだ。
この機に何とか距離を稼ぐ!
目指す棒が目前となったとき、背後すぐ側に獰猛な気配が迫って来た。もうカス札すら残っていないし、近くに鉄柱もない。
「うぉおっ!」
直感を信じて跳躍。風術も使えないので全くの賭けだ。地面に滑り込む俺の横に並ぶように、土煙を巻き起こして着地する巨体。
獣面がこちらを向くのに合わせて、握った土をぶつけて取り決め破りの目潰しを敢行する。血走った目にまともに入り、ごつい手でがしがしと顔を擦る人獣。…結局これが俺の必殺技(笑)かもしれない。
這いずるように残りの距離を進み、『力』の棒に指をかける。転がりながら拾い上げ、こちらの様子を伺う人獣と向かい合う。しょうもない小細工のおかげで随分と警戒してくれているようだ。
ようやく手にした得物で、先制の諸手突き。顔面を狙った一撃は肩の筋肉で防がれた。
続けて二度三度と打ち込むが、脅威はないと見て取ったのか防御もしないようになる。後肢で立ち上がり、両腕を掲げて涎を垂らす人獣。
のしかかりに合わせて放つ、首を狙った薙ぎ払い。同じように丸太のような首で受け止めようとするが……これは一味違うぞ!
振るった勢いそのままに、くるりと巻きつく『力』の棒。すかさず硬度を戻して首を締め上げる。さすが神代の魔術具、用途外の無茶な使い方にもしっかり耐えてくれる。
首筋に爪を立てて暴れ出す人獣。ここで得物を手放すわけには行かないので、必死に棒を掴む。振り回される勢いで両腕をがみしみしと悲鳴を上げる。…左は完全に折れたな。
俺が背中側に回ったとき、人獣は再び四つん這いになり疾走を開始した。 慌てて両脚で巨体を挟み込む。
全裸のおっさんとのお馬さんごっこの始まりだ。
◇
「うわぁ!」
試合場を駆け回る獣の背で悲鳴を上げる。締め上げが不十分なのか、まだまだ元気一杯だ。対する俺は、最悪の乗り心地で痛んだ全身が軋みを上げている。
…根比べでは分が悪いぞ。
必死に次の手を考えていたが、先に焦れたのは人獣のほうだった。これまでとは一転、鉄柱に向かって真っ正面から突っ込んでいく。俺ごとぶつかるつもりか?!
金属の手綱を支点にして身体を振る。鉄柱に足裏で着地し、何とかぺたんこにされるのは流れたが……これは片脚も逝ったぞ。
「おらぁっ!」
落下の勢いを利用して手綱を絞り上げる。事前に柔らかくしておいた金属棒は捩くれて人獣の首に食い込んでいく。もう十分だと思われたところで再度魔術具を起動。
しっかり首輪をつけてやったぞ!
そこまでやったところで暴走を続ける獣から振り落とされてしまう。いつの間にか試合場の端まで来ていたようで、格子にがしゃんと背をぶつけた。その衝撃はがたがたの骨格にまで響き渡り、痛みに耐えきれず崩れ落ちてしまう。
朦朧とする意識を何とか繋ぎ止めて前を見ると、顔色を赤黒く変えた人獣が止めを刺しに向かってくるところだった。
さすがに覚悟して目を閉じる俺に、止めの爪は……突き立てられない。
重たい瞼を何とか持ち上げれば、目前には白目を剥いてぶっ倒れている人獣。牙の間からはぶっとい舌がべろりとはみ出している。
いつの間にか傍に立っていた虎男を見上げて笑う。
「これで満足か…?」
虎男はこちらを見据えたまま動かない。…まだ足りないと言われても、もう出し物は何にも残ってないぞ。
返答の代わりに試合場に響き渡る不吉な破砕音。嫌な予感を押さえつけて、ぎりぎりと首を回す。生命の危機に瀕したせいか、人獣の巨体がさらに膨張して鈍色の首輪を引きちぎるところだった。
虎男たちめ、そんなに俺が食われるところが見たいのか。それとも…
「…なぁ、それ貸してくれよ」
駄目元で手を差し出してみると、あっさりと渡される刺又。一方的な蹂躙ではなく、最期まで足掻くのを見たいのか。
…馬鹿にしやがって。
刺又にすがるようにして立ち上がる。向かい合うおっさんは四つん這い…ではなく、きちんと二足で立っての半身構え。絞め落としたおかげで理性が戻ったのか?と一瞬期待するも、表情を見る限りそうではなさそうだ。
すっかり化け物じみてしまった肉体に熟達した戦士の技量が上乗せされる。…でたらめにもほどがある。
冒険者になった以上、死ぬことは常に覚悟している。…だが、こんな訳の分からない状況で死ぬのはさすがに我慢ならない。
王都でのんびりしていたら騎士に追い回され、街中で虎男に攫われたと思ったら闘犬のように毎日戦わされて、あげく世話になった人と血みどろの殺し合い。
…全裸の毛深いおっさんに食い殺されるなんて、考え得る限り最悪の死に様だ。
腹の奥に言葉に出来ない感情が渦巻く。
ふとペトゥラさんの言葉を思い出す。
「強い思いや思い入れが魔術に力を与える」というのなら、このどろどろした感情も何かしらの力に変えてやる!
「うらぁあっ!」
獣じみた咆哮を上げて刺又を構える。破れかぶれの勢いで身体を動かしてはいるが、もってあと一合。
長きに渡った死闘の最終幕が上がる。
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