第4話 棺桶
意識が浮上し、ざばりと身を起こす。口と鼻を満たす液体に噎せ返りながらも自身の状態を確認し、がっくりと肩を落とした。
「…警告されたばっかりなんだけどな」
俺が目を覚ましたのは棺桶のような容器の中。もはや見慣れた赤黒い液体に沈められていたらしい。殆ど致命傷だった怪我もすっかり治っている。
いそいそと棺桶から這い出して辺りを見回す。
「何だろな、ここ…」
俺が気を失っている間に運ばれたのは、全面金属張りの殺風景な小部屋。棺桶のほかには簡素なサイドテーブルと蓋のついた壺があるのみ。…もしかして、この壺が便所なのか。
まるで牢屋のような部屋だが、どの壁にも鉄格子はない。どこから逃げるか以前に、どうやってここに入れられたのかもわからない。
「さて、どうするか」
とりあえずずぶ濡れの身体を乾かそうと風術を行使するが…何も起こらない。魔力自体はすっかり回復しているのだが、何かの機構に妨害されているようだ。
仕方がないので、着ているものを全部べちゃりと脱ぎ捨てた。
サイドテーブルを見る。その上には一枚の真珠色のカード。孤島の遺跡で手に入れた腕輪と同じ素材だ。
表には金色の精緻な文様と100の文字。裏には大きな丸が一つと小さな丸が五つ刻印されている。他にも胡麻のような大きさの文字で何やら書かれている。生憎とペトゥラさんの手帳は虎男に襲われた時に落としてしまったので、読むことはできない。
棺桶の縁に裸の尻を下ろして途方に暮れる。あのあと、ペトゥラさんも虎男に襲われたのだろうか。あの人なら撃退できそうな気もするが、もしかしたら同じように別の部屋に捕らえられているかもしれない。
アリサはどうなっただろうか?騎士の私怨の矛先は俺のほうに向いていたので無事だとは思うが…
唯一の装備品である腕輪にカードをぶつけてみるが、ちぃんと澄んだ音が鳴るのみ。
この腕輪も頑丈そうなので防具に加工してもらおうと思ったのだが、呆れた顔のチャーリーに断られてしまった。何やら「鍵」としての機能があるみたいなので、加工するのはまずいということなのだろう。
「…そうか、鍵だ」
孤島の遺跡の専用品だと思い込んでいたが、ここでも使えるかもしれない。
腰を上げ、何もない壁に向かい合う。継ぎ目一つ見当たらない、つるりとした壁。腕輪をはめた腕でぺたぺたと探り回る。
…しかし、何も起こらない。
壁に手を当ててため息をつくと、唐突に手のひらが沈み込んだ。慌てて身を引いてみれば、その壁がすこんと横に滑る。
目の前に現れた虎顔の男。
身構える間も無く、麦袋のように担ぎ上げられる。今度は痛めつけるつもりはないらしく、さほどの力は込められていない。
この体勢では抵抗のしようもない。揺れる尻尾を大人しく眺める。
小部屋の外に連れ出された俺は、毛深い肩の上から必死に周囲を観察する。小部屋と同じく金属張りの廊下には、いくつも扉のようなものが並んでいる。その突き当たりには、上階に向かう階段。
階段が遠ざかっていく。虎男の目的地は反対側らしい。…厨房かどこかで美味しく料理されてしまうのだろうか。
「なぁ、どこに行くんだ?」
返答はなく、歩みに淀みもない。
◇
「痛っ!」
乱暴に投げ捨てられたのは土の上。何のつもりかと見上げる俺と虎男との間に、がしゃんと格子が降りた。虎男は無言のまま廊下を引き返していく。
尻をさすりながら辺りを見回す。足元の地面は土だが、側面の壁と天井は金属張り。いささか天井は低いものの、走り回れる程度の広さはある。どこか王国軍の訓練場に似た空間だ。
向かい側の壁には、背後のものと同じ格子が一つ。
「だらだらしてないで身体を動かせ、ってことか…?」
俺の下らない冗談を合図にするかのように、正面の格子が上がった。通路の暗がりに人影が見える。
「おい!あんたも虎男に捕まったのか?」
丸腰どころか全部丸出しだが、気にしている状況ではない。言葉を変えて何度も問いかけてみるが、返答はない。
やがて、人影はゆっくりと歩み寄ってきた。その姿を捉えた俺は口を噤む。
人影と思ったものは、影そのもの。のっぺりとした黒色で全身が塗りたくられている。体格は俺と同程度だが…この変なのも魔獣なのか?
諦め悪く身振りで意思疎通を図ろうとする俺の顔面に、影人間の拳が叩き込まれた。鼻血を拭って苦笑い。
「まぁ、そうだよな」
全裸の締まらない格好だが、闘争の構えをとった。
◇
同じく構えをとった影人間と睨み合う。正体不明の生物だが、膂力自体は人間の範疇だ。
果敢に踏み込んだ俺を鋭い左拳が迎え撃つ。浅くもらってしまったが、続く右拳の追撃は首を捩って何とか躱した。
大きく後退して体勢を立て直す。
じっく訓練を受けたかのような動き。素手格闘においては素人の俺では分が悪い。…虎男よりは与し易いと思って攻めてみたが、甘かった。
距離をとったまま側面に回り込もうとしてみるが、影人間は身体の向きをこちらに帰るのみ。どっしりと構えて隙を見せない。
旋回する動きから一転、影人間に向かって真正面から突っ込む。先ほどと同様に左拳が俺を狙い澄ます。それに合わせるように俺も拳を打ち出す…と見せてから下段への蹴りを放った。
しかし小細工はあっけなく看破され、足裏で受け止められる。肘での一撃をこめかみに受けた俺はもんどりを打って倒れた。
揺れる視界を片手で支えながら、歯をくいしばって立ち上がる。…手強い。
◇
その後も手を替え品を替え挑みかかるが、影人間は教本のごとく正確に対処する。そのたびに手痛い反撃を受けた俺は、すっかりずたぼろだ。
腫れ上がった両瞼。打つ手が尽きた俺は破れかぶれの体当たり。俺の低い姿勢に合わせて腰を落とした影人間は、がっちりと受け止めた。そのまま押しつぶされるようにのしかかってくる。
何とか跳ね除けようと力を込めるが、それを利用するかのようにごろりと仰向けにされた。馬乗りになった影人間の両手が俺の首をぎりぎりと締め上げる。
何とか拘束を逃れようと影人間の顔に指を突きつけて魔力を込めるが…火は灯らない。だらりと腕が落ちる。
「参った…」
情けない声を絞り出すとともに、意識を失った。
◇
意識が浮上し、ざばりと身を起こす。口と鼻を満たす液体に噎せ返りながらも自身の状態を確認し、がっくりと肩を落とした。
「…またこれか」
幸いなことに、降参の宣言は受け入れられたらしい。すっかり元通りの身体を持ち上げて、棺桶から這い出す。
先ほど脱ぎ捨てた服は乾いているようだが、着直す気にもならず床に尻を下ろした。
しばらくそのままぼうっとしていたが、よろよろと立ち上がる。また棺桶の縁に腰掛けようとして、サイドテーブルの上に置きっぱなしだったカードが目に入った。
「減ってるな…」
表の数字が100から50に変わっている。数字の意味はわからないが、敗北のあとだ。良いことではないのだろう。
裏面のほうには変化はなく、大きな丸一つと小さな丸が五つ。
ぼんやりとしたまま首を傾げていると、また壁の一面がすこんと開いた。またも現れた虎男。つかつかと歩み寄ってくる。
目覚めた直後に勘弁してくれ…
虎男は身構える俺からカードを取り上げた。代わってサイドテーブルに置かれた盆には、桃色の粥のようなものが入った大きな椀。孤島の遺跡で見たイモリの餌のようだが、これは無臭だ。
虎男はこちらをじっと見つめており、立ち去る気配はない。食えということなんだろが…
意を決して椀を手にする。匙もないので直接口をつけて流し込んだ。苦悶する覚悟をしていたが、口に広がるのは穀物のような味。温くて美味くもないが、食えないほどではない。
時間をかけて謎粥を全部流し込むと、空の椀と引き換えにカードが返された。
表には40の文字。
椀と盆を回収して出て行く虎男を見送る。つるりと閉じた壁を眺めながらため息をついた。
カードの数字の意味を何となく察する。おそらく俺の寿命に等しいのだろう。0になったらどうなるのかは不明だが、ろくなことにはなるまい。
数字を増やす心当たりは、あの決闘しかない。
やたらと重くなった腹を抱えながら、再戦に備えて未だ鈍い思考を巡らせた。
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