第10話 姫様と走る
羊男。
モリス君を襲った悲劇とその後の必死の逃走劇がまざまざと思い起こされる。
あのとき、やつは羊をけしかけてくるだけで自分では追ってこなかった。だから、もし出くわすとしても街の遺構に着いてからだろうと思い込んでいた。
しかも今回は騎士たちもいる。姫様を守る意思はなくても、自身の身に危険が迫れば必死に戦うだろう。戦いを生業にしている彼らが集団で当たればどうにかなる、と楽観視していた。
気配を殺す、というより単純に身動き一つできない。
俺たちに気づいていないのか、あるいは見逃されているのか。羊は不気味な雨をざあざあと降らせ続けている。
やがて如雨露が空になったのか、羊男は縄梯子をするすると上り始め、闇の中に消えた。
◇
縄梯子を踏む音がだんだんと小さくなり、消える。
無音になってからさらにしばらく時間をおいたのち、大きく息を吐き出したテオが尋ねてくる。
「どうする?」
騎士連中はともかく、先輩方は助けたい。問題は、今なお石畳に溜まる赤い液体。モリス君が浴びたものと同じだとすると、無策で近づくわけにはいかない。
…そもそも、彼らにまだ息があるのかも不明だ。
「姫様もいらっしゃる。少し相談しよう」
◇
瓦礫の手前で待っていた二人に状況を説明する。
「気に食わない人たちでしたが、叶うことなら助けたいです」
先行していた集団が全員倒れ伏していると聞いて、姫様が少しの迷いも見せずにおっしゃった。教会関係者らしく、治療術の腕には自信があるそうだ。
アリサは、ひとまず自分の目で見てみる、と瓦礫の隙間に潜っていった。
まったく、どう考えても駆け出し冒険者の手には余る状況だ。昨晩、冗談交じりに俺がリーダーに任命されたせいか、テオも姫様も俺に判断を仰ぐような目を向けている。先輩方に泣きつきたい。
「ねぇ、生きてるわ!」
アリサの声を聴いて、慌てて俺も確認に向かう。
身体が密着するのを少し気にしながら、再度狭い空間に身体をねじ込む。腕を伸ばしてランタンを瓦礫の向こう側に向けると、一人また一人と身を起こすのが見えた。まだ意識がはっきりとしないのか、ぼうっとした表情をしているが、誰も目立った怪我などは負っていないようだ。
よかった、先輩方も生きていた。
瓦礫の隙間から声をかけようとして…思いとどまる。
魂の抜けたような瞳が、こちらを向くなり獰猛な色を浮かべた。
◇
アリサと手足を絡ませそうになりながら、狭い隙間を引き返す。
困惑するテオと姫様に手振りで合図、全員で瓦礫の山から離れたところに移動した。ざりざりと瓦礫と鎧がこすれる音を聞きながら、固唾を飲んで瓦礫の穴を見守る。
まず、穴から這い出てきたのは代表の騎士だった。肩で息をし、血走った目で姫様をにらみつける。自分たちが危険な状況に陥ったのに、姫様は関係ないだろうに…
「…大丈夫ですか?」
アリサが警戒しつつ、数歩近づき声をかける。
間違いなく大丈夫ではないだろうが、他に適切な言葉も思い浮かばない。
返答は、怒声でも罵倒でもなく、剣。
アリサが咄嗟に受け止めて鍔迫り合いに持ち込むが、一気に押し込まれる。体格差があるとはいえ、雷術で筋力を上乗せするアリサを大きく上回る、明らかに異常な膂力だ。
テオが横から騎士の鎧を蹴り飛ばす。通路の壁にぶち当たるほど吹き飛んだ騎士だったが、何の痛痒も感じていないかのように立ち上がった。
「ひぃ!」
姫様が引きつったような悲鳴を上げる。
よだれを垂れ流しながら、アリサと姫様を見比べる騎士。衣装がみだれて露わになった下半身が視界に入る。
彼を暴走させているのは、戦意でもなく憎悪でもなく、劣情だ。
俺たちが絶句する中、ざりざりと土砂を掻く音が幾重にも響く。…瓦礫の向こう側は、全員この状態なのか?
姫様のそばから飛び出し、若干の恨みも込めて騎士の太腿に農具の歯を突き立てる。ざっくりと脚を切り裂かれた騎士はうつ伏せに倒れるが、醜悪に歪んだ顔だけは女性ふたりに向けたままだ。
もはや救出どうこうではない。こいつだけじゃなく、あと何人もの騎士と…ベテラン冒険者が二人。そんなの相手に出来るか。
「逃げるぞ!」
かくして、昨夜話したとおりに、みんなでさっさと逃げることになった。
◇
ただひたすら、石畳の通路を走る。
来た時とは逆に、俺が先頭、その後ろに姫様。テオとアリサが後尾で追手に備える。俺は風術を行使し、前方を最大限警戒している。この状況で挟み撃ちになったら、どうにもならない。
…もし羊顔が見えたら、たぶん泣いてしまうだろう。
こちらを追う足音が徐々に増えている。最初の騎士には手傷を負わせてきたが、残りの面々も順次、穴から這い出てきているらしい。
引きつった笑みを浮かべ、必死に足を動かす姫様。敵意どころかあんなものまで向けられて、さぞかし怖かっただろう。背負って差し上げたいところだが、俺たちの動きが封じられるのはよろしくないので、限界までは頑張っていただくより他ない。
命がけの追いかけっこが続く。
◇
当然、最初に限界を迎えるのは姫様。足がもつれ始めている。
覚悟を決めて、次の広間で迎撃にうつろうかと考え始めたとき、俺が以前床に穴を開いた広間に戻りついた。
「なぁ、二手に分かれねぇか?」
珍しくテオからの作戦提案。
「分かれるって、片方は下の水路?!」
アリサが驚くが、一考の余地はあるかもしれない。
下の水路を流れる水も…たぶんあまりよろしくないモノだが、羊男が振りまく原液に比べれば随分と薄まっているはず。
「…それで行くか。それで、どう二手に分かれる?」
相手が女性を狙っている以上、アリサと姫様は別の組にするのは確実。もはや走れないであろう姫様は一番体力が残っているテオに背負わせ、俺とアリサで下の水路を行くべきか…
具体的な策を練り始めたところに、アリサが意外な提案をする。
「私は、イネスと姫様が下の水路を使うべきだと思う」
姫様を下の水路に行かせる選択肢は考えていなかったので、驚いて理由を問う。
「下は魔力が濃いんでしょ?魔術の得意な二人なら、強みを活かせるんじゃないかしら」
水深は膝ほどまでだから、姫様を背負えば水に触れさせることもない、と付け足す。
姫様に使える魔術を問うと、治療術の他に光術と火術も得意とのこと。さらに、身を守る不可視の障壁を纏う魔術具も持っているらしい。
追手の状態、水の影響、水路の行きつく先。考える要素が多過ぎて決断できない。そもそも一番実力の劣る俺が姫様に付いていいのか?
石畳を打つブーツの音が近づいてくる。
なおも悩む俺に向かって、姫様が決然と言い放つ。
「それで行きましょう。わたくしもみんなと一緒に戦います」
◇
穴の縁の石のでっぱりにしっかりとロープを結び付け、垂らす。相変わらず、穴からは濃い魔力が立ち上っている。不気味さに怯みそうになるが、一度決めた以上は頑張らなければならない。
一応、残った荷物をテオに預けておくが、別に捨ててもいいと言い置く。
「姫様を頼むぜ!騎士殿」
前後に背嚢を抱えたテオが、俺の胸を叩いた。
騎士どころか、兵士にもなりそこねたというのに。国からの禄で安定した将来どころか、遺跡の奥で命がけの大冒険だ。思わず乾いた笑いがこぼれる。
初めて会った日のように三つの拳を合わせ、互いの武運を祈る。
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