幕間1 冠木タケミの不満

 二十一世紀のある年の八月三日。東京都杉並区の住宅街にある家のベランダで一人の女性が空を見上げていた。年齢は四十前後。高校生の息子と中学生の娘がいるにしてはやや若い。ちょうど洗濯物を干し終えたところで、少し汗ばんだ手をエプロンで拭った。


「はー、やっぱり二人分だと楽だわ」


 夫と娘が出張と合宿で家を開けているため、いつもより洗濯物が少ない。余裕のある物干し竿を見て、女性は満足そうに頷いた。

 甲高いジェットエンジンの音がした。空を見上げると日の丸をつけた大きな飛行機が飛行機雲のようなものを引きながら飛んでいる。女性は手でひさしを作り、目を凝らして飛んでいく航空機を眺めた。


「自衛隊の輸送機? この辺りを飛ぶなんて珍しい」


 しばらくしてジーンズのポケットでスマートフォンが振動する。通知を見ると夫からの電話だった。女性は一呼吸を置いてから通話ボタンを押し耳に当てる。


「もしもし、出張お疲れ様。どうしたの?」


 電話の向こうで女性の夫が早口で何かを怒鳴る。


「え、今? 洗濯物を干し終えたところ。富士山が噴火? それは大変ね。ああ、だから自衛隊の飛行機が飛んでいたんだ」


 電話の向こうで焦る夫とは対照的に、女性はのんびりと西の空、富士山がある方向を見ていた。富士山は天気がいい日なら東京からでも望めるが、残念ながら二階建ての女性の家では高さが足りない。


「避難? だから、私はいいって。もう噴火しちゃったんだし。大丈夫、ちゃんと準備はしてあるから。水も食料も二週間分はある。それで十分でしょう。あのまずい塩飴もリュックサック一杯に。ええ、希美は吹奏楽部の合宿で長野に行ってるからだ大丈夫。望? 学校に行ってる。流石に帰ってくるんじゃないかしら」


 電話の向こうで夫が女性に何かを懇願している。だが、女性にそれを聞く気はなかった。


「大袈裟ね。私は大丈夫だから。ほら、今だって東京にはなんの影響もない。あ、ちょっと前に地震はあったけどね。もう、心配性ね。まるで世界が終わるみたいなこと言って。あなた、桜島が年に何回噴火するか知ってる? 富士山の噴火だって長い歴史を見れば珍しいことじゃないし。その度に人は乗り越えてきたんだから」


 気楽に話す女性に、夫はついに諦めたらしく電話の向こうのトーンがだいぶ落ち着いてくる。


「ええそうよ。あなたはどうするの? そう、戻ってこれないのね。じゃあ、これから大変でしょうけど身体には気をつけて。うん、私も愛してる。それじゃあ、また」


 そう言って女性は通話を切った。スマートフォンの画面に現れた通話終了の文字を見て名残惜しそうにしてから干したばかりの洗濯物に手をかける。


「火山灰が飛んで来るなら取り込まなくちゃ。まったく迷惑な話だわ。お日様で乾かしたかったのに」


 女性はぱっぱと洗濯物を取り込む。その頭上では先ほど通り過ぎた自衛隊の航空機が残した一筋の白い飛行機雲が拡散しぼんやりとし始めていた。遠く西の空では灰色の煙のような物がまるで青いキャンパスに零れた薄墨の様に少しづつ空の色を変えていた。富士山の噴火によって吹き上げられた火山灰だろう。鹿児島市で生活していた経験もある女性には慣れた物だった。


「はあ……またやり直しか。これだから火山って嫌いなのよね」


 女性はもう一度空を見上げた後、取り込んだ洗濯物のカゴを手に屋内に戻っていった。しかし彼女が洗濯物を干し直す機会は二度と来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デッド・フロム・フジヤマ〜この絶望の地で〜 深草みどり @Fukakusa_Midori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ