第3話 最後の日常(2)
西山の手が窓枠に触れた時、不気味なアラーム音が鳴り響いた。不安を掻き立てるような甲高い音、緊急地震速報だ。
「えっ、地震!?」
西山は窓を施錠しようとした格好のまま動きを止める。窓は大きく開いており生徒会室は校舎の四階にある。もし大きな揺れがきたら転落する可能性はゼロではない。咄嗟に望は手にしていたバインダーを放り投げ、窓際に駆け寄った。
「西山!」
強引に西山の腕をつかむと床に引きずり倒す勢いで長机の下に押し込む。
「えっ、うわっ、なに」
「じっとしてて!」
長机の下で目を丸くする西山を置いて、望は生徒会室の扉に駆け寄り近くにあったパイプ椅子を挟み込んだ。地震で建物が歪んで扉が開かなくなる状況を避けるためだ。そして望も長机の下に潜り込む。四つん這いになって机の奥まで進むと床にちょこんと座った西山と目が合った。一連の出来事に驚き白黒させている。
そして、大きな振動が生徒会室を揺らした。窓のサッシが激しくぶつかり合い、キャビネットからファイルが床に落ち、無人のパイプ椅子が床の上を踊った。かなり大きな地震だ。揺れは数秒間で終わり、一呼吸置いて周囲が騒がしくなる。近くの教室で活動していた生徒たちが「驚いたー」「まじかよ!」など騒ぎ、遠くではどこかの部活の顧問が「怪我はないな」と叫んでいる。
望は部屋の床にガラスなどが飛び散っていないことを確認すると、ほっと息をつき西山に改めて目を向けた。
「怪我はない?」
「え、あ、うん。大丈夫。ちょっと驚いたけど」
「結構すごかったな。震度四くらいか」
「ほーんと、びっくりした。ふふふ」
なぜか西山が笑った。望は訝しく思い彼女の額と長机の間の空間を確認した。頭をぶつけるような距離ではない。
「本当に大丈夫か?」
「へーき、へーき。ちょっと驚いただけだから」
「まあ大きかったもんな」
「違う、違う。驚いたのは冠木に。案外男らしいところあるなーって。ますます冠木のことが、」
そう言うと西山は一度言葉を切り、少しだけ顔を赤らめた。
「えーと、さっきのは私を守ろうとしてくれたんだよね? それって、私だから?」
「別に変な意味はなくて、西山が危ないって思ったら自然に身体が動いて」
「ええー、違うの?」
西山がポニーテールを揺らしながら大袈裟に驚く。
「……違わない」
「よかった!」
机の下で自由に動けないからか、西山は手足を使う代わりに何度も大きく頷いた。望はしっかりと床に四つん這いで立っていたのだが、気持ちがふわふわとし、ヘリウム風船が百個結び付けられたようで地に足が付いた気がしない。
西山は楽しそうな笑顔を少し意地悪くした。
「そういえばさ、冠木、中学の時からずーっと私のこと見てたでしょ」
「あ、いや、それは」
「高校まで追いかけて来て、生徒会にまで入って。ストーカー?」
「違う! 高校は偶然だよ。家に近いところを選んだらたまたま西山がいたんだ」
「ふーん。じゃあ生徒会に入ったのも偶然?」
「それは……西山がいたから」
「ふふっ、知ってる!」
西山は望と同じ四つん這いになると、てくてくと望に近づいて来た。二人の顔の距離がわずか二十センチほどまで近づく。西山の吐息は熱く、どこか甘い香りがする。望は思わず唾を飲み込んだ。
「なんか、近いけど」
「これは知ってる? 私も冠木望のこと見てたよ。時々だけど」
「えっ?」
「昔から色々と助けてくれてたでしょ。そりゃー気にもなりますよ」
生徒会室の外では教師が被害状況の確認をしているらしく駆け回っている。本来なら生徒会役員として教師を手伝わなくてはいけないのだが、今の望に外の音は何一つ聞こえて来なかった。
「中学に入ったばっかりの時、駅で私にお金を貸してくれたでしょ」
「それは西山が財布を無くした小学生に全財産を渡して帰れなくなったって……」
望が西山を意識し始めた時期だ。勢い余って参考書を買うためのお金を全て渡してしまい、後で母親に呆れられた。
「合唱コンクールの時、男子がやる気なくて私が怒鳴っちゃって、クラスの雰囲気が悪くなったでしょ。あの時、冠木が一生懸命歌ってくれたから、他の男子も歌ってくれるようになった」
「ピアノをちょっと習ってたから、音楽は真面目にしたかっただけだよ」
ピアノを習っていたのは小学生の頃まで。本当は西山に注目されたかったからだ。
「生徒会長選挙の演説の前、廊下で頑張れって声をかけてくれたでしょ。あの時、みんなには隠してたけどすごい不安だったの。冠木の一言で気分が楽になった」
「それって、俺が噛みまくったから?」
「そうそう。頑張れの四文字を言うのに三回も言いなおすんだもん。もーおかしくって。そしてこんなに応援してくれる人がいるなら頑張れるって思った」
「俺はめちゃくちゃ失敗したって落ち込んだよ」
「別にかっこよくなくてもいいの。私は彼氏にそんな事求めてない。でも、さっきのは格好よかった」
西山はさらに一歩望に近づいた。二人の顔の距離は十センチほど、首を伸ばせば触れられる距離だ。
「ふふ、鼻息荒いよ。もうちょっと落ち着いて」
「俺をからかってるだろ。さっきから態度がコロコロ変わり過ぎだ」
「知ってるでしょう。私、後先考えず行動するタイプなの。それでよく失敗する。さっきもとっさに断っちゃって、後悔した。ねえ、さっきの続き、やり直そうよ。今度は私もちゃんと答えるから」
「続き?」
「そう。冠木は何になりたい?」
夏のある日、少し埃っぽい生徒会室の床の上で西山千明は冠木望に問いかけた。望は西山の目をまっすぐ見据え、はっきりと答えた。
「俺は、西山の彼氏になりたい」
「はい。よろしくお願いします。えいっ! ちゅっ!!」
「って⁉︎」
西山は首をくっと前に出し自分の唇を望の唇に重ねた。初めて知る柔らかな感触に望の全身に電撃が走った。唇が重なりあったのはほんの一瞬だったが経験したことのない喜びが湧き上がる。
西山は照れ臭そうに少しだけ視線を床に落とし自分の唇に手を当て恋人との初めてのキスの感触の余韻を味わっていた。
「なんか、キスってすごいね。ビリってきた。冠木は?」
「お、おう。俺も……」
「私、会長と副会長が関係を隠していた理由がわかった気がする。生徒会室で二人でこっそりこういう事するとすっごくドキドキする」
「西山って、思ったよりも、エロいのな」
「ふふ、そんな女は嫌い?」
「―!? まさか! 大好きだよ」
西山に負けじと、今度は望からキスしよう身を乗り出した時、天井に設置されたスピーカーからチャイムが鳴った。
『全校生徒の皆さんに緊急連絡です』
緊張した男性の声。この高校の教頭の声だ。
「あーあ、せっかくいい所だったのに」
西山が子供っぽく口をすぼめ、望もがくっと肩を落とした。だが緊急連絡と言われて聞かないわけにもいかない。
『みなさん大変な事になりました。本当に、大変です。ええ、たった今、富士山が噴火しました。屋外にいる生徒は直ちに校舎内に避難してください。屋内にいる生徒も、窓から離れて机の下に隠れるなどして身を守ってください。火山弾が飛んで来る恐れがあります。繰り返します。富士山が噴火しました……』
突拍子もない内容に望と西山の二人は揃って目を目を丸くし、顔を見合わせた。
「何それ、本当なの?」
「確かめてみよう」
望はスマホを取り出すとニュースサイトを開く。
「まじか」
サイトのトップには「ライブ映像」の赤文字と共に、無残に砕け散った山の頂から真っ白な噴煙を立ち上げる火山が映し出されていた。富士山だと言われなければわからないほど形が変わっている。スマホのミュートを解除すると、キャスターが震える声でニュースを読み上げていた。
『午前十時頃、富士山が噴火しました。非常に爆発的な噴火です。これから読み上げる地域にお住まいの方はただちに非難を開始してください。溶岩流が流れてくるおそれがあります。命を守る行動を直ちにとってください』
煙を上げる富士山の動画の上には「御殿場市に溶岩流が接近」や「火山弾により富士市で死者多数か」など被害情報を告げるテロップが次々と現れては消えていった。
「フェイクニュースじゃないよな」
望は別のニュースサイトを開いたが、結果は同じだった。富士山が噴火、至急屋内に避難、新幹線が緊急停止、死者多数、インターネットのページを更新する度に、次々と恐ろしいニュースが舞い込んできた。
「信じられない。こんなことが起こるなんて」
望と西山が机の下に避難したままニュースを見ていると、再び天井に設置されたスピーカーが鳴った。
『みなさん、さきほど地学の先生から東京まで火山弾が飛んでくる心配はないとお話がありました。ただ、校内にいる生徒は全ての活動を止め、指示があり次第下校できるよう準備をしておいてください。繰り返します、校内にいる生徒は……』
一通り放送を聞いた後、西山が長机の下から出て、パイプ椅子に座った。
「部活の活動確認どころじゃなくなったね」
まだ長机の下でスマホを見ていた望が顔を上げると西山の足が目の前にあった。やや筋肉質の細身の足がひざ丈のスカートからのびている。足が細いのでその向こうにある青い何かがちらりと見えてしまった。
「それ、減点対象」
「事故だよ!」
望は机の下から這い出ていつもの席に座った。その慌てた様子をみた西山は楽しそうにふふっと笑った。望は誤魔化すようにニュースサイトを確認しようとしたが、電波状況が悪くなったのか繋がらない。他の部活は活動をやめたようだが噴火に驚く生徒達で校内は騒がしかった。
「富士山の噴火、被害は大きいんでしょうね……」
「とんだ夏休みになりそうだな」
望と西山は窓から空を見上げた。空は真っ青で白い入道雲が遠くに浮かんでいる。東京のすぐ近くで大災害が発生したとは思えない平和な光景だった。
「さっきの続きは、落ち着いたらにしよっか」
気を取り直した西山がイタズラっぽい口調で言う。たぶん部活の活動確認ではない方の話だ。
「東京にも避難指示とかでないといいけれど。うちの近所に広域避難所があるから大変なことになりそう。お母さん、ボランティア好きだから」
「西山も手伝うんだ」
「まーね。お母さんに無理やり引っ張られるだろうし。それに、私にできること事があるならやりたいじゃん?」
「……俺も手伝いにいこうか?」
「東京に避難指示が出る状況で? 余裕があって安全が確保できるなら来てくれたら嬉しいかも。まあ、そんなことにはならないと思うけど。そうだ! 一応、住所教えてくね」
お互いの家の住所を交換してから、二人は他愛のない話をして三十分ほど校内で待機した。その後、学校の指示で下校する。富士山の噴火による影響はまだ東京にはほとんど現れておらず、多少の電車の遅延程度で済んでいた。
二人とも高校の最寄駅から電車で数駅の場所に住んでいたが、望は東側、西山は西側と方向は反対。望は地下鉄で西山はJRと使う路線も違った。
望はJRの改札まで西山を送った。二人は一瞬だけ手を繋いだが、周りに帰宅する他の生徒が大勢いたのですぐに離した。別れ際、望はポケットに入ったままの映画のチケットのことを思いす。
「そうだ、これ」
「ん? あ、あのハリウッド映画じゃん。私が見たかったやつだ!」
「落ち着いたら見に行かないか」
「お、さっそくデートのお誘いですか」
「お、おう。まあそんな感じだ」
望は目をそらして顔を真っ赤にした。
「うん。行こう、映画」
西山は嬉しそうに望からチケットを受け取る。嬉しそうに笑う西山を見て、望は彼女を抱きしめたくなった。だが事態が事態だ。今動いている電車もいつ止まるかわからない。お互い早めに帰宅した方がいい。別れる前にできることはないか、そう考える望はカバンの中にあるものを思い出した。
「これもやるよ。こういう災害の後ってスーパーやコンビニから物がなくなるから、飴でもあった方がいいと思うんだ」
「おお、ちょー酸っぱい塩飴か。うんうん、ありがたく頂戴します」
まるで卒業証書を受け取るように、西山は両手で銀色の飴の袋を受け取った。その瞬間、二人の手がわずかに触れる。西山の手は暖かく柔らかかった。望が名残惜しそうに手を離すと西山も少し残念そうにしながら飴を鞄に入れる。
「じゃあね」「おう」と短い別れの言葉を交わすと西山は改札をくぐった。しばらく進んでから一度振り返り、大きな目を輝かせながら右手をあげ大げさに振った。つられて身体も左右に動き、ワンテンポ遅れてポニーテールがゆらゆらと揺れる。
「それじゃあ、また。映画楽しみにしてる!」
望も西山に手を振り返す。やがて西山は望に背を向けると帰宅を急ぐ学生や会社員たちの中に消えていった。望はその背中が完全に見えなくなるまで見送った後、寂しさを感じながら地下鉄の駅に向かった。
ふと、遠く空の上から甲高い音がした。見上げると日の丸をつけた大きな飛行機が飛行機雲のようなものを引きながら頭上を通り過ぎて行くところだった。
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