第2話 最後の日常(1)
「登場人物みんな死ぬから」
その言葉に冠木望(かぶらきのぞむ)は唖然とした。
八月のある日、けたたましい蝉の声が響く高校の校舎の中、望は開けたばかりの生徒会室のドアを持ったまま固まってしまった。部屋の中にいたポニーテールの少女はそれを見て悪戯が成功した子供のように無邪気に笑う。
「ししっ、驚いたでしょ!」
その少女、西山千明(にしやまちあき)はパタパタと上履きを鳴らしながら望の方に駆けて来て、一冊の文庫本を手渡してきた。
「はい、これ。頼まれていた面白い本」
「……貸してくれるのは嬉しいけど、いきなりネタバレはひどくないか?」
「ふふん、表紙を開いてみなさい」
西山は人差し指で魔法をかけるように本を指差した。望が表紙を開いてみると本の帯が栞代わりに挟まっており、さきほど西山が言った言葉と同じ文句が書かれている。
「その本はSF物で、ある事件で主人公のヘルシィって女の子以外はみんな死んじゃうの。絶望的な今を変えるため、ヘルシィが時間を遡って過去をやり直すって話。面白さは私と私の妹が保証するよ!」
「そ、そうなんだ。ありがとな」
望は受け取った本を持ち直し、生徒会室の中に入った。
望と西山は生徒会の役員で夏休み中の今日も仕事で登校していた。望は書記で、目の前にいる西山は庶務だ。望はファイル棚から今日の仕事に必要な資料を取ると部屋の中央に置かれた六人掛けの長机にある自分の席に着く。西山は楽しそうに笑いながら望の反対側にある自分の席につく。いつもは校則通りに制服をかっちり着込んでいる西山だったが、今日は胸元のリボンは無く、右腕には髪を結んでいる物と同じ水色のヘアゴム、左腕には水色のGショックをつけていた。それに白いワイシャツが相まってどこか夏の空を連想させる格好をしていた。
西山を視線の端で追いながら、望はカバンから二枚のチケットを取り出しポケットに入れた。この夏に公開される映画で、西山が好きそうなサスペンス物のチケットだ。
「それにしてもでも珍しいね。冠木が本を貸してくれなんて」
西山がスマホを机の上に出しながら言った。
「夏休みで暇だったから。今年は特に予定がなくて……。とにかくサンキューな」
「どーいたしまして。読み終わったら感想きかせてね」
「おう。ところでお礼に、」
その時、机の上で西山のスマホが震えた。
「あ、会長達かな?」
西山はスマホを手に取ったがしばらくして首を傾げる。
「お母さんからのラインかあ。でもおかしいな。電波が悪いみたい」
座ったばかりのパイプ椅子から立ち上がった西山は、軽やかな足取りで窓の側に移動し、手にしたスマートフォンを空に向かって掲げた。
出鼻を挫かれた望は小さくため息をつく。西山はスマホの角度を変えながら、画像がダウンロードできないと嘆いている。一度何かを始めると終わるまで周りの話が耳に入らない、そんな西山の性格を知っている望は仕方なくポケットのチケットから手を離した。
(大丈夫。まだチャンスはあるさ)
そう自分に言い聞かせ、生徒会の仕事を始める。
今日、望はある決意をして学校に来ていた。もちろん所属する生徒会の仕事をしに来ているわけだが、もう一つ目的がある。それは、中学の時から片思いをしている西山千明をデートに誘う事だ。本を借りたのもお礼の名目で映画に誘うための作戦だった。その試みはいきなり失敗したのだが、まだ一日は始まったばかりだ。
(時間はまだ十分にある。よし、仕切り直しだ)
望は気持ちを切り替えるために何か口にすることにした。カバンを開き、中から銀色の袋を取り出す。それは熱中症対策のビタミン塩飴で、口に放り込むと強烈な酸味とわずかな塩味が暑さと緊張で汗をかいた身体に染みた。
「その銀色! 何か美味しい物?」
袋のガサガサ音に気が付いた西山がキラキラとした目を向けてくる。
「これは、」
言いかけて望はある事に気が付く。このビタミン塩飴は望の父親の会社が開発中の製品で、映画のチケットも父親が会社からもらってきた物だ。意図してはいなかったがこれも映画に誘う切っ掛けにできる。望は心の中でガッツポーズを取った。
「これは熱中症対策のビタミン塩飴。父さんの会社のサンプルなんだ」
「冠木のお父さんってお菓子屋さんだっけ?」
「いや製薬会社だよ。最近サプリとか健康食品も作り始めたらしくてさ、家にサンプルを持って帰ってくるんだ。身体に良いから毎日食べろって言われてて」
「ふーん。サプリとかってあんまり取りすぎると体に悪いんじゃなかったっけ? それ、美味しいの?」
「俺は好きな味かな。食べてみる?」
望と西山は六人掛けの長机の対面に座っている。手を伸ばし合えば届く距離だが、望は飴を一つ手に取ると「ほら」と言って放り投げた。西山はわざわざパイプ椅子から立ち上がりバスケのリバウンドをするように勢いをつけて小さな銀色の袋をキャッチした。それからワクワクと目を輝かせながら個包装を開き、飴を口の中に放り込む。その動きを目で追いながら望はポケットの中のチケットに再び手を伸ばした。
「そういえば、父さんが会社からもらって来たものは他にもあって、」
「んーん、酸っぱい!?」
突然、西山が大声を上げ、水シャワーを浴びさせられた猫のように身を縮めた。
「何これ、レモン十個分くらい酸っぱい!!」
「いや、ビタミンCじゃないんだから」
「これを毎日食べるの? 確かに身体には良さそうだけどさ」
「口に合わなかった?」
「うーん、どちらかと言えば好きな味だけど一般受けはしないかもね。会長達にも感想を聞いてみようよ。あ、そういえば、三年生が誰も来てない。今日って十時集合だよね。五分前なのに誰もいないっておかしくない?」
「あ、会長は急病で欠席。副会長は急用。会計は家族旅行だってさ」
望が所属する生徒会は三年生の会長、副会長、会計に二年生の望と西山の五人で構成されている。
「えー、何それ! 私聞いてない!!」
西山はバンっと机を叩き席を立った。感情表現が豊かなのは西山の魅力の一つだけれど時々大袈裟すぎる事がある。まあ望はそんな西山が好きなのだけれど。
「いや、会計の丸さん先輩の予定は夏休み前に知らされてたよ。針条会長やながさん副会長の連絡も今朝来てただろ?」
「そうだっけ。なんかスマホの調子が悪いみたい。でも、ながさん先輩はともかく、あの頑丈な会長が体調を崩すなんて珍しい。まさかサボリ!? あの二人、上級生だからって後輩に仕事を押し付けて」
「はは、そんなことないと思うけど……」
実は、望は会長と副会長が突然休んだ理由に心当たりがあった。夏休みに入る前、望が西山に片思いしていることが二人にバレた。頼れる兄貴肌の生徒会長は「夏休み中に冠木が西山に告白できるように協力するぞ」と力強く望の背中を叩き、しっかりものの長女ポジションの副会長も「まずはデートに誘ってみたらどうかしら」と笑いながら応援してくれた。会計が家族旅行で休むタイミングで会長と副会長の二人が休んだのはきっと望のためだ。せっかく作ってもらったこのチャンスを生かしたいがタイミングが合わずうまく話の糸口をつかめない。
「まったく。秋で引退だからってサボらなくてもいいのに」
西山は会長たちへの文句を言いながら窓際に移動し、開けっ放しの窓から外の様子を見る。
「ほら、サッカー部とか三年生もまだ練習してる」
「最後の大会が近いからな」
「ほんと、この暑いのにどの部活もがんばってるなあ。おかげで私達の仕事も増えるんだけど。ねえ、今日はいくつ回るんだっけ?」
西山は窓から少しだけ身を乗り出しグランドを見ていた。吹き込む風に髪が揺れ、白いうなじを撫でている。生徒会室は四階にあり身体を折り曲げて下を見ているので、ワイシャツがやや汗ばんだ背中に張付き水色の下着が透けていた。望は目をそらそうとしたが、一度外したはずの視線は一周回って西山の背中に戻って来てしまった。
(本当、水色が好きだな。もしプレゼントを買うならやっぱり水色系か……)
「ねえ、聞いてる?」
突然西山に振り向かれ、望は慌てて机の上のリストに視線を落とした。
「あ、悪い。ちょっと考え事してた。えっと何だっけ?」
「だから活動確認をする部活の数。今日は何団体が登校してるの?」
「ええと……」
望は手元の資料を確認する。生徒会長が事前に用意した今日活動している部活動のリストだ。リストは運動部と文化部で二枚綴りになっていた。二枚目には付箋が貼ってあり、生徒会長の字で「希望を捨てるな!」、その隣に副会長の字で「望君だけに(^ ^)」と書かれている。やはり二人は望のために生徒会をサボったらしい。失敗前提のメッセージに苦笑いしつつ、心の中で二人の先輩に感謝をした。それから資料を見直し今日の仕事を確認する。
「全部で二十四団体」
「うわ、ほとんど全部じゃない。まあ頑張れば昼過ぎには終わるかー」
「残念だけど夕方までかかると思うよ」
「なんで!? 二時間もあれば終わるでしょ?」
「一つ五分は相当なハイペースでも無理だと思うけど。今日は天文部が夕方から来るんだ。天体観測の合宿をするんだって。俺たちの仕事は部活が申請通り活動しているかの確認だろ。確認して、サインをもらう。だから天文部が登校する夕方までいないと」
「何それ。なんで合宿がある日に点検日が重なるのよ。ああっ、わかった! だから生徒会長や他の三年生がいないんだ。やっぱりサボりじゃない。ずるい! 私が生徒会長になったら絶対に後輩に仕事を押し付けたりしないんだから」
「はは、気が早いよ。まず次の選挙で勝たなくちゃ」
「そうね。夏休みが明けたら選挙活動が始まる。でも私は人気あるから大丈夫」
そう言って西山は腰に手を当てて胸を張った。自画自賛だが事実だ。西山は「学校を千倍明るくする西山千明」をキャッチフレーズに一年の時から全校生徒の前で将来は生徒会長になるとアピールをしていた。最初はガツガツし過ぎに思われていたが、その天然なキャラクターと実績を見せられた多くの生徒は肯定的に西山の事を見ていた。成績は常にトップテンに入り、学生離れしたリーダーシップを発揮していくつものイベントを成功させてきた。特に去年の文化祭では近所の商店や消防団、町内会や子供会を巻き込みちょっとした地域のお祭りイベントになり、新聞社が取材に来ていた。その中心となったのが当時一年だった西山だ。まあ、その裏で望や生徒会の他のメンバーが苦労したのだけれど、今ではいい思い出だ。
「で、冠木はどうするの?」
思い出に浸る望に西山が不意に質問を振った。その顔は、どこか真剣だ。
「え、何を?」
「秋からの生徒会。どうするの?」
その問いかけに望はすぐに答えられなかった。次期生徒会については今まで何度も考えていた。望は西山の近くにいられればいいので、彼女が会長になるのなら、副会長か会計になりたい。そう思っていた。そう言うべきなのだが、先ほどからデートに誘うことで頭が一杯の望は、この質問から映画のチケットにつなげるにはどうすればいいかを考えてしまった。その迷いを見た西山は別の解釈をし、不安そうに表情を曇らせる。
「もしかして冠木は生徒会を続ける気はないの? 受験対策?」
「あ、いや、俺は」
「まさか、生徒会長に立候補する気!? それはちょっと燃える展開だけど大丈夫? 私、もうほとんど根回し済みだから冠木に票を入れてくれる生徒あんまり残ってないと思うけど」
「なんか選挙の公平さを揺るがすような酷い話だな。違うよ。続ける、続けるよ。俺は生徒会を辞めたくないし、会長にも立候補しない」
全力で頭を振って西山の言葉を否定する。
「選挙は西山を応援する。応援演説でも裏方でもなんでもするよ」
「そっか。なら良かったー」
西山はほっと息をつき肩の力を抜き、頬を緩めた。力が抜けたらしく、真っ直ぐ立っていた姿勢を崩し窓枠に身体を預ける。
「なんだかんだ私たち付き合い長いじゃん? 中学から一緒だし。私大雑把な所があるから細かい所に気が利く冠木がいると安心し仕事ができるの。よーしっ! そうとわかれば秋からも頑張りましょう!」
西山は手をくるくると回す。余程嬉しかったのか、あふれる気持ちを表現するのに言葉だけでは足りないらしい。子供っぽいとも思える仕草だったが、望はそんな西山に中学時代から憧れていた。同じ高校に進学できるとわかった時は家で大声をあげて喜び、遊びに来ていた妹の友達にドン引きされたものだ。高校で西山が生徒会に入ると知ると、すぐにその後を追いかけた。そして今、西山は望のことを相棒扱いしてくれている。まるで片思いが半分叶ったようだった。
「で、冠木は何になりたい?」
にこにこと笑いながら西山が同じ質問を投げかけてくる。
「どの役員がいい? 会長は譲れないけど、副会長と会計ならどっちがいい? やっぱり冠木のキャラ的に副会長かなー」
「俺は、」
副会長と言いかけて望は言葉を飲み込んだ。こんな風に西山と一緒に生徒会の仕事を続ける。それだけでも十分に幸せだ。欲張らなければ、あと一年はこの関係が続くし、もしかしたら自然にその先に発展できるかもしれない。でも、もっと欲しいと思った。なりたいのは西山の仕事仲間ではない。その先だ。
大きく開け放れた生徒会室の窓から少し強い風が吹き込み、西山のポニーテールの先端を乱した。西山は「ふわっ?」と小さく叫びながら右手で髪を抑え窓の外に顔を向けた。夏の陽光が西山の横顔を照らし、そのくっきりした輪郭を浮かび上がらせる。望は思った。これからもずっとこの横顔を見ていたいと。一年で終わる生徒会だけでなく、その先も、ずっと。望はポケットの映画のチケットから手を離すと拳を握り締め、まっすぐと西山を見た。
「俺は、西山の彼氏になりたい」
次の瞬間、生徒会室の空気が凍りついた。ずっと聞こえていた蝉の鳴き声もピタリと止まる。西山の顔から笑顔が消え、望は動揺と後悔で青ざめる。西山は目を細め、じっと望を見た後、俯きながら背を向けた。何も言わず空を見上げる西山に、望は生徒会室から逃げ出したくなったがまるで重たい鉄の鎖が何重にも足首に絡まっているように体が動かない。急に喉が乾いたがカバンの中にあるペットボトルに手を伸ばす事もできない。
「ごめん。西山。俺、ちょっと夏の暑さにやられておかしな事を言った。忘れてくれないか」
言い訳をしてみるが、西山は何も答えない。もうその背中を直視する事もできず望は机に視線を落とした。
しばらくして蝉の鳴き声が聞こえてきた。あるいは蝉の声が止まっていたのではなく、望の脳が西山に拒絶されたショックから回復しただけなのかもしれない。やがて西山が窓の外を向いたまま話し始める。
「……冠木、ありがとう。気持ちは嬉しい。けど、そういうのは良くないと思う。恋愛は自由だけど、生徒会長と役員が付き合っていたら他の生徒に示しがつかないでしょ? 生徒会を私物化してるって思われる。私、指定校推薦を狙ってるから評価が下がるようなことはしたくないの」
普段よりも二回りはテンションの低い、北風のような声だ。望は浮かれていた自分を激しくなじりたくなる。まずは映画に誘うだけにすればよかった。それなら忙しいと断られるだけで済んだ。大きな希望をもって踏み出した一歩は盛大に床板を踏み抜いてしまった。今は奈落の底に落下中だ。
(終わった……俺の青春、俺の初恋、俺の高校生活)
絶望した望の視線は机からさらに下に落ちた。生徒会室の床に誰かの長い髪の毛が落ちている。西山のものかもしれないと思うとその一本の髪すら見ていられない。ぎゅっと目を閉じ、ただ時間が過ぎるのを待った。
望は次に来る言葉を覚悟していた。秋になったら生徒会を辞めてくれとか今後は生徒会の役員同士としてしか付き合えないとか、とにかく先程まであった近しい関係の終わりを告げられると思っていた。
そして西山が再び口を開いた。
「……さっきも言ったけど、冠木が副会長になってくれたら嬉しいと思ってる。私、抜けてるところあるから」
声は低い。だが意外にも拒絶を感じない口調だった。望はわずかな希望を抱き恐る恐る顔を上げるとそこには真顔の西山が自分を見ていた。
「どう? 副会長引き受けてくれる?」
西山は怒っているわけでも、失望しているわけでもないようだった。ただ何かを悩み我慢しているように見えた。望は思った。これは西山なりの助け舟だと。告白は受けられない、でも生徒会の役員としては今後も一緒にいてくれる、そういう意思の表れなんだと。もしイエスと答えれば西山と付き合うという望みは絶たれる。しかし同じ生徒会役員としての関係は続けられる。なら選択肢はなかった。全てを失うくらいならわずかな関係にでもしがみ付くしかない。望は黙って小さく頷いた。
「うん。それじゃあ、私が生徒会長になったらあなたを副会長に任命する。これからもよろしく」
「ああ。こちらこそ……」
パンっと軽快な音がした。西山が勢いよく手を叩いたのだ。
「はい。この話はこれでお終い! 仕事を始めましょう。会長たちが来ないなら待っていてもしょうがないし」
「なんかごめん」
「別に謝らなくてもいいよ。告白されるのは慣れてるし。私、人気者だから?」
「知ってる」
西山は再び子供っぽく笑った。いつもの表情に望は救われた気がした。その笑顔や人柄に多くの男子が西山に惹かれている。手遅れになる前に自分のものにしたい、そう思っていたがそれはもう叶わない。残ったのは大きな後悔と喪失感だけ。それすら西山の笑顔を見ると癒されてしまうからどうしようもない。
望は失恋の痛みを忘れるためテキパキと仕事の準備を始めた。今日活動予定の部活のリストが一枚、それぞれの部活の責任者からサインをもらうための用紙が二十四枚、予備の用紙が三枚、それにバインダーとボールペン。
「あれ、用紙の数多くない?」
そんな望の様子を見守っていた西山が首を傾げる。
「予備だよ。外で活動している部活もいるから。用紙が風で飛ばされてたり土で汚れたりして生徒会室に戻ってくるのは面倒だろ」
「やっぱり冠木は頼りになるね。私ひとりじゃそんな発想出てこないもん。さすが私の副会長。うんうん。それで、どこから回る?」
「まずは外の気温の低いうちにグランドを回ろう。野球部、陸上部、サッカー部、結構あるから」
「了解、副会長。ぱぱっと終わらせましょう」
「色々気が早いよ」
意図的に明るく振る舞う西山に望は救われたような気がした。西山はカバンから鏡を取り出してさっと髪を整え、それから鏡の中で外行の表情を作り小声で「よしっ」と気合を入れている。全校生徒や教師が知っている優等生の西山千明の顔だ。子供っぽさが幾分か消え、少し大人びた少女の姿がそこにはあった。
(素を見せてくれるほど信頼してくれていたのに、俺はブチ壊しちゃったんだな)
望がそんな感傷に浸っているとなぜか西山が少し緊張した面持ちで望に向き直った。
「そういえば、会長と副会長、付き合ってるって知ってた?」
明後日の方向から飛んできた話題がよりにもよって恋愛話。望は泣きたくなった。
「……夏休みに入る前にちらっと聞いたよ」
先輩二人の関係は望にとっても嬉しいニュースだったが、今はそんな話をする気分ではなかった。振ったばかりの男にする話題ではない。周りの空気を気にせず行動できるのは西山の魅力だがタイミングがあんまりだ。
「私も。ちょっと怪しいかなと思ってたけどはっきりと分かったのは最近。この前副会長に聞いたんだけど、あの二人一年の頃から付き合ってるんだって」
「へえ……すごいな。それは全然知らなかった。先輩たち、恋人同士ってよりはビジネスパートナーって感じだったから」
「ね。よく隠してたって思う。副会長はともかく会長って単純そうに見えて意外と役者だったんだなって」
「本人がいないからってヒドいこというな」
「そういう関係なら、私たちもいいと思う」
「へっ?」
望は自分の耳を疑った。
「そういう関係って、つまり……」
「よく考えたら、私、受験勉強する必要ないんだよね。指定校推薦もらうから。三年になって生徒会も引退したら暇じゃん? なら恋愛を楽しんでもいいんじゃないかなって。私、告白されるのは慣れてるけど彼氏いたことないし」
それも知ってる、望は心の中で呟いた。中学の頃から、ずっと西山の事を見ていた。多くの男子が告白し断られるのも見てきた。でも告白する男子の数は減るどころか増える一方。いつか西山のお眼鏡に叶う男子が現れるかもしれない。だから、望は手遅れになる前に行動に移した。そして断られた。断られたと思っていた。望は頭の中で西山の言葉を何度も繰り返した。つまり、そういうことだ。そういうことなのだが、理解が追いつかない。どう反応すればいいのか、全身で喜べばいいのか、クールに頷けばいいのか、嬉し泣きをすればいいのか、わからない。
時刻は十時十分。生徒がほとんどいない校舎に二時間目を告げるチャイムが鳴った。
「あ、外に行くなら窓閉めないと」
西山は開けっ放しの窓を施錠するため、望に背を向けるとてててっと窓側に駆けていった。ポニーテールが左右に揺れ、その先に見える首筋と耳は真っ赤に染まっていた。
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