デッド・フロム・フジヤマ〜この絶望の地で〜
深草みどり
第1話 序幕 一人、灰色の世界にて
富士山が噴火したあの日から世界は灰色になった。
一台の青い自動車が、火山灰に覆われた山道を登っている。運転席に座るのは高校生くらいの少年。運転免許証を取得できるか微妙な年齢だが、そんな事を気にする者はもういない。少年の名前は冠木望。数週間前まで、都内の高校に通っていた普通の少年だった。
「もうすぐだな」
望はフロントガラス越しに見える黒い煙を目で追いながらゆっくりとハンドルを切る。灰で覆われた道路はスリップしやすくなっており、あまりスピードを出せない。一刻も早く黒い煙に辿り着きたいという思いはあったが、もし事故を起こしても助けは来ないので慎重に先に進む必要があった。
いよいよ煙が近づいてくる。距離は二百メートル程先だ。望は車の頭を山道の下方向に合わせてからエンジンを切った。万が一の場合、すぐに山を下って逃げるためだ。
車を降りる前に装備を確認する。助手席に置いてあった小銃を持ち、その弾倉を一つずつ、カーゴパンツの左右のポケットに入れる。腰のベルトにはサバイバルナイフ、羽織ったウインドブレーカーのジッパー付きポケットには小型の回転式拳銃も入っている。以前の日本なら即逮捕される格好だったが、今の世界を生き抜くにはこれでも不十分なくらいだ。「敵」に噛まれれば一発で死が確定する。できれば全身を覆う鎧が欲しかったが贅沢は言えない。望の経験があれば、近づかれる前に大抵の「敵」は倒せるはずだった。
車のドアを開ける前に左手の腕時計で時刻を確認する。午前十時過ぎ。
「捜索に使える時間は一時間ってとこか」
望はある場所に向かう為に車で移動中だった。その途中、山の上から登る黒い煙を見て高速道路を降りて来た。普通の炊き火ではなく明らかに事故らしい様子に、生存者がいるのなら助けたいと思ったからだ。
一度周囲を見渡し安全を確認してからドアを開けると灰の微粒子を含んだ風が車内に流れ込んできた。アスファルトの上には火山灰がうっすらと積もっている。ゆっくりと足を下すとギュッと音を立てて灰が沈み込んだ。灰は数ミリの厚みがあったが履いている軽登山靴のおかげで中に入り込むことはなかった。
「都内に比べると灰が少ないな。風向きの関係かな」
地面を観察すると望の車とは違うタイヤの跡がある。新しい灰が上に積もっておりあと数日もすれば消えてしまいそうな様子だ。何日か前に別の車が通った跡だろう。
「この先にいる人達のか。生きていればいいんだけど」
望は銃を手に持ち、周囲を警戒しながら黒い煙の方に足を進める。森の中に傾きかけて案内板があり、「この先、富士見台」と書かれていた。富士山が見える展望台があるらしい。さらに前に進むと、小さな駐車場が見えてくる。そこには一台のキャンピングカーが停まっていた。窓ガラスは割れ、中から黒い煙が吹き出している。かつては白い外見をしていたようだが、今は全体が煤で真っ黒だ。風向きが変わり、望の方に煙が流れて来る。ガソリンが燃える臭いと、それに混じって血の臭いもした。
「……手遅れか」
望は小銃の安全装置を外し引き金に指をかけた。小銃は自衛隊が使用している八九式小銃と呼ばれるもので長さが一メートルくらい、重さは四キロほどある金属の塊だ。望は慣れた手つきで銃を構えると照準をキャンピングカーに向ける。
「誰かいませんか?」
声をかけてみるが反応は無い。キャンピングカーの内部で火災が起き、その後、外に置かれていたポリタンクのガソリンに引火して爆発したらしい。ポリタンクの方は既に鎮火していたが、周囲にはひっくり返ったアウトドアテーブルやドロドロに溶けたプラスティック製の食器、何かの雑誌の燃えかす等が散らばっていた。
「生存者はいないか……いや、あれは?」
死体を含めて人間の姿はどこにも無かった。だが、キャンピングカーの裏側に回り込むと扉は開いており、その周囲には調味料や調理器具が落ちていた。車体が盾になったので爆発の被害は少なく、まだ乾き切っていない大きな血溜まりも残っていた。誰かが争った形跡があり、さらに倒れて血を流した人物が一度立ち上がり逃げ出した痕跡もある。血の混じった足跡が残っていて、それは灰の積もった駐車場を横切り、展望台に向かう山道に続いていた。
「誰かが外でゾンビに襲われ、それを車内にいた別の人が手当たり次第に近くの物を投げて助け出したって感じか。そしてその後をゾンビが追いかけた。逃げたのはこの先、展望台の方か」
望は地面に残された生存者の痕跡を追って山道に入った。その入り口には「八十メートル先 富士見台」とある。道をしばらく進むと前方に人影が見えた。数は三。地面に倒れているのが二人。もう一人は四つん這いになり、その内の一人に覆い被さっている。手遅れだろうと思いつつ望は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
その声に反応したのか、四つん這いの人がこちらに顔を向けた。六十代くらいの男性で、背中に森林公園の文字が書かれた作業服を着ている。露出している手や首の肌は濁った白粉を塗ったように白く、それと対照的に口周りは犠牲者から流れ出たばかりの血で真っ赤に染まっていた。
「……もう一度だけ聞きます。大丈夫ですか?」
望は銃を向けながら最後の確認をした。その男性は言葉を返す代わりにゆっくりと起き上がると白濁した目を望に向け、ニヤリと笑った。その弾みで、歯にこびり付いていた肉片が地面に落ち、腐ったバナナが落ちたような音を立てる。男性の腹には包丁が深々と刺さったままになっており、わずかに白灰色の液体が溢れ落ちていた。倒れている二人のどちらかが最後の抵抗で突き立てたのだろう。
呼びかけには答えず、肌は病的に白、そして人間なら致命傷となる傷を負っても平然としている。間違いなくこの男性は「敵」だ。
「ゾンビか」
望は銃のスコープを覗き込みゾンビの頭部に照準を合わせた。この動く死者を葬るにはいくら腹を刺してもダメだ。脳を破壊しなければ例え胴体を真っ二つにされても動き続ける。銃口を向けられているにも関わらず、男性ゾンビは全く怯む様子を見せない。それどころか壊れたゼンマイ仕掛けのロボットのような動作で望に近づいて来る。
望はゾンビの頭が揺れるタイミングを測り、大きく息を吸い込み、息を止め、引き金を引いた。銃声が立て続けに二度、空気をつんざき、周りを囲む山々に反響する。二発の銃弾は狙い通りゾンビの額に穴を穿った。命中した衝撃でゾンビは勢いよく吹き飛ばされ、仰向けに倒れた。引き金に指を掛けたまましばらく様子をみるが、再び動き出す気配はない。
望は銃を構えたまま、三つの死体に近づいた。最初の二つは二十代くらいの男女だった。男性はゾンビと戦ったらしく、近くにハンマーが落ちていた。肩口には大きな傷があり上半身が真っ赤に染まっていた。キャンピングカーの外で襲われたのは彼だろう。喉が食い破られておりそれが致命傷になったらしい。その奥の女性の死体は無残で、顔面をゾンビに食われていた。エプロンを身につけているので料理中だったのだろう。ゾンビの腹に包丁を突き立てたのは彼女のようだ。
「残念です。せっかく今日まで生き延びていたのに。安らかに眠ってください」
望は銃を男性の頭部に向けると躊躇なく引き金を引いた。銃弾が発射され、衝撃を受けた男性の身体が一度跳ね上がる。それから女性の頭部に向けて銃を撃つ。ゾンビに噛まれた人間は死後ゾンビになる。放っておけば、この二人の死体はゾンビ化し、いつか山を降りて他の生存者を襲うかもしれない。だから望は二人を撃った。
止めを刺し終えた望はウインドブレーカーのポケットから折りたたんだキッチンペーパーを取り出すと傷口を隠すように二人の顔に載せた。それから奥に倒れているゾンビの死体にも同じようにキッチンペーパーを掛ける。できれば三人とも埋葬したかったが、今はそこまでの余裕はなかった。
三つの死体を調べ、身分を証明するような物がない事を確認した望はその場を離れようとしてふと展望台の向こうを見た。富士見台というだけあり、東京湾のはるか向こうに巨大な山影が見えた。だがそれは望の記憶にある物と大きく異なる姿をしていた。
「あれが富士山か……ずいぶんと醜くなったな」
かつては美しい円錐形をしていた日本の象徴は、その上半身が吹き飛び歪な形をしていた。砂場で丁寧に成形したバケツサイズの富士山を小さな子供がグーで横殴りにすれば今の富士山と同じような見た目になるだろう。この距離からでも目視でわかる変化はあの日の噴火の大きさを物語っていた。そして、崩れ落ちた山からは未だに大量の火山灰を含む煙が上り続けている。あの煙と共に、日本はゾンビで溢れる死の世界となった。
富士見台からは東京の港湾や高層ビル、スカイツリーすら望む事ができた。だがそこにはかつての様に人間は暮らしていない。いるのはゾンビと死者だけだ。空を見上げれば、一面を覆うように火山灰の層ができている。火山灰は太陽を遮り、まだ八月だと言うのに長袖を着ていても暑さを感じないほどだ。これから来る冬は恐ろしく厳しい物になるだろう。植物は枯れ、動物も死んだ。いずれ食料も尽きる。
「早く他の生存者に合流しないと」
望は車まで戻るとペットボトルの水を一口飲み一息ついた。ふと助手席をみると、ボトルホルダーに飲みかけの水が置かれたままになっている。
「一人は寂しいな……」
ほんの少し前まで、そこには相棒とも家族とも呼べる存在がいてくれた。だが今は誰もいない。冠木望は、灰色の世界でひとりぼっちだった。
望はシートベルトを締めるとアクセルを踏んで車を発進させた。車は灰で覆われた山道を下り、やがて木々の向こうに消えていく。
その地は再び死の静寂に包まれた。新しく風景に加わった三つの遺体もやがて火山灰に覆われて見えなくなるだろう。次にこの地を人が訪れるのはいつになるのか、それは誰にもわからない。あるいは、この土地を踏む人間は望が最後だったかもしれない。
***
今から三週間ほど前の八月三日、日本最大の山である富士山が噴火した。
その被害は甚大で、爆発的な噴火と溶岩流によって数千人が即死し、静岡県や神奈川県など富士山の東側を中心に交通網が寸断された。さらに吹き上げられた大量の火山灰が風に運ばれ、関東平野の大部分に数センチ単位の降灰をもたらした。日本政府は直ちに災害緊急事態を宣言、自衛隊が被災地に災害派遣された。
この時点では東京は無事だった。地上のJRや私鉄はしばらくして運休したものの、地下鉄は運行を続けており、スーパーではマスクや食料を手にしようと人々が長い列を作った。通信網やライフラインも生きており、インターネットでは被災地に向けた募金活動やボランティアの募集が始まっていたし、テレビは溶岩に飲み込まれた街など悲惨な状況を放映する一方で、鹿児島出身のタレントが火山灰との付き合い方を話すくらいには余裕があった。
八月四日、火山灰の降灰地域を中心に謎の奇病が流行を始めた。発熱と共に肌が火山灰の様に白くなっていき、全身が白化すると仮死状態となる。そのまま死亡する患者もいたが、大半は正気を失った状態で意識が戻り、まるで飢えた野犬の様に近くにいる人間を見境なく襲いその肉を食らった。それはまるでゾンビのような病気で、いくつかのメディアが火山灰に含まれていたウイルスが原因と報道した。
状況は次々と悪化していく。四日の夜に全国的な大規模停電が発生。携帯電話の基地局や電話局、さらにインターネットも停止し、発電機を備えた防災無線以外のあらゆる通信ができなくなった。照明を失った夜の都市では交通事故が多発。正気を失った感染者も街中に溢れ、日本中が大混乱に陥った。
五日以降、日本政府は完全に沈黙。首相や主要な閣僚は全員消息不明となった。最後まで稼働していた無線による連絡網では、首相が乗っていたらしい自衛隊のVIP用ヘリが長野の山間部で墜落したという情報が流れていた。各都道府県は地元の自衛隊や警察、消防と共に懸命に事態に対処しようとしたが、発電機と無線機の数は限られており、思ったような指揮や救助ができず、さらに内部からの感染者もあり次々と崩壊していった。期待されていた米軍や海外からの救援は一切現れなかった。
噴火から数日後、空一面に火山灰の層が広がった。それは日本中を覆い尽くす勢いで青空を奪い、わずかに残っていた生存者達を絶望の淵に叩き落とした。灰の層はいつまでも晴れず、植物は枯れ、餌を失った多くの動物や昆虫も連鎖的に死んでいった。
そして日本には死と静寂だけが取り残された。
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