足掻けど足掻けど
なおも電車は動き続けた。彼のだらしない唇は苦しそうに歪んでいた。
うっ
不意に彼の唇から音が漏れた。
何かしらの発作に苦しまされる。彼の悩みの一つだった。へその辺りから何かがこみあげてくる。そのこみあげてくるものはどう足掻いても抑えることができなかった。なんとか力をこめて抑えようとしたときにはもう遅いのである。自分の脳髄で認識するより先に、信号はすさまじき勢いで筋肉まで走る。それはあるときには、苦しげな声として現れ、あるときには発作的な動作として現れるのであった。
困ったことに、この発作がいつ起きるかどうかは全く彼の与り知るところではなかった。しかし、決まって彼が何かを考え出したとき、すなわち無益な内省をやらかし始めた時にそれは起こるのであった。
今回もまた同様だった。非常に激しく、どこか麻薬めいた快さに満ちた羞恥にどっぷり浸かりながら、ずいぶんとおぼつかない目つきで周りをキョロキョロと見まわす。全くいつも通りだった。周りを見ると、数人の乗客がスマホから顔を上げて彼の顔を盗み見してくるりと背を向ける。少し離れた席が空いているのを見つけた。落ち着きを得ようと腰を落ち着ける。
途端に、近くに座っていたOL風の若い女が訝し気な目つきで彼を見上げると、スマホを片手に立ち去った。
「なるほどな。」
またいつもの自傷癖がはじまったようだ。
「予想通りさ。誰だってそうするだろう。見知らぬ人どうしが同じ空間に集まってるのだけでも、どこか嫌な緊張感を強いるもんだ。しかもこの箱の中では容易に逃げられないときてる。不気味だろ。何の脈絡もなくいきなり嗚咽を漏らす人間は正常だと思われない。思われるはずなんかないんだ。何か自分たちとは違う一物を持った人間、その脳の中に妖しいもののけを持ち、いつそれが暴れだすかわからない。だがよく考えてみろ。お前ら口を開けてる人間、安心しきって世の中に溶け込んで与えられたものを貪り食う人間どもめ!お前らとてバケモノじゃないか。正常と異常の境目なんて、たまたま同じブツを持ってる奴がまわりにたくさんいたかどうかさ。多数派と少数派の違いなんだ。ためしにどいつもこいつも電車の中でしゃべってみたらいいさ。途端に俺は、この俺こそは、普通になれるだろう。」
突然、さみしさが怒りの感情に変わる。ごく当たり前の人々の冷たさに嫌というほど触れた時にどこか世の人全体への不満のような不健康な怒りがこみあげてくることがある。彼の感じていたのはまさにそれだった。
目は異様な輝きを放っていた。いつもならばだらしなく2枚歯をのぞかせている唇も今は浅蜊のようにピタリと閉じていた。憎しみともつかぬ危険な感情をへその下で煮えらせている。またもやあの発作が、彼を苦しめた張本人であるあの発作が、彼の喉元まであふれてこようと這い上がってきたとき、救いが訪れた。
電車は彼の最寄り駅についたようである。
ホームの上には「赤羽」と書かれていた。
改札を出る。せんべろとビルが織りなすきらびやかな光の中に足を踏み入れた。いつの間にか先ほどの危険な顔つきは消え、あの高架線の下のABCを眺めるときと同じ、優しい顔つきをしていた。
彼の故郷はここであった。自分のことをまだ健康だと信じ切っていたころから彼はこのガムのたくさんこびりついた舗装を踏みしめてきたのだった。
彼にとっては何一つ変わらない街であった。
むろん人々の顔ぶれは変わり、ビルのテナントには学習塾の緑色の看板が大半を占めるようになってきた。道行く人は顔を背けて小さな画面をのぞき込むことに憂き身を費やすようになった。駅前広場はさまざまな飾りつけや見世物が、少しでも自分の姿をきらびやかにして人々を呼び込まんとする気概を無駄にはすまいと懸命になっている。数十年間で人の数は増え、髪の色は明るくなった。
だが彼は人々になど興味などないように見えた。相変わらず、いつものフォーメーションで迎えてくれる道ばたのガムのカス共に挨拶をする。排気ガスを飽きるほど吸い込み葉が不健康な茶色に変色してきた街路樹の幹に手をやり鼓動を確認する。何年も前から彼を支えてくれていた仲間たちへの挨拶を怠ることはない。
ところが、今日に限って、彼は人々の笑い声があふれるせんべろ居酒屋の光に惹かれていた。
特別にさみしかったのであろうか。
帰宅しても、彼を待っている人などいるはずもなかった。
いつもならばロータリーを渡って左側の小さな路地に足を進め、マンションに帰るはずだった。
しかし、今夜はロータリーを右に曲がり、彼はきらびやかな夜の灯りがあふれる方へと歩き出したのである。
歩き出した瞬間、むっとした酒のにおいが彼を襲った。
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路地に漂う酒場の匂いは、アルコールのそれだけではない。
ビールで洗い流した人々の口腔から発せられる臭いは、どこか動物臭さというべきか、動物園の檻の中からもがく霊長類のにおい、檻の中という限られた世界の中で懸命にもがくことで搾りだされた、あの汗の香りがするものだ。
アルコールのにおいに満ち満ちた、金曜の終電に乗る人々。
彼らの悩み、この自分の体内でアルコールと日常の煩雑を消化することができる健康な人々の悩みは、たいてい、彼らのいる小さなオフィスから抜け出せば取るに足らない石ころ同然のものである。
ひとたび暖簾をくぐれば、その悩みがまるで己の生死を分けているかのようなのっぴきならないものとして語りたがるではないか。
しかし、それは健康な証拠なのだ。俺たちは、どう足掻いても、何者かに与えられたものをおとなしく受け取って生きるしか術は無いのだから。自分の手についている清濁さまざまな物をアルコールで消毒する。そんな時間も間違いなく必要なのだ。
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そんなことを無益にもあれこれ逡巡しながら、彼はせんべろの暖簾をくぐった。
ビニールカーテンをめくって店内に入ると、四角い長机に、安っぽいスツールをあてがった粗末な内装が彼を迎えた。
ビールを注文する。店内に人が少ないためか、異様なほどの素早さで彼の前にジョッキが置かれた。
一人で飲むのは何年ぶりだろうか。最後にこうして駅前のせんべろで心の消毒を行った日のことを
もはや思い出せないくらい、彼は酒とは疎遠な生活を送っていた。
塩気の利きすぎた青菜をひとつまみ口に放り込むと、彼はジョッキに口を付けた。
麦茶に焼酎を混ぜ込んだような雑な飲み物をのどに流し込むと、たばこに火をつけ周りをぼんやりと眺め始める。
店内はおそろしく閑散としていた。黄色い声にあふれかえった表通りはまるで別世界であった。すべての机は長年使いこまれており、天板は長年の酒と、ツマミの脂が塗りこめられていた。裸電球のオレンジの光をいやらしく跳ね返している。どこからどう見ても場末のあまり流行らない居酒屋の体であった。
ところが隅っこには一つだけ赤いテーブルがあった。なぜだろうと不思議に思いそこに目を向けた時、彼はそのテーブルの下に、白い脚が肌を露わにしてたたずんでいるのを発見したのである。
それは一人の女であった。
年齢は四十近くにも見える。きめが粗いファンデーションを顔じゅうに塗りたくっている。まぶたにはきらきらとラメが入り、アイシャドウは、まるで幼稚園の子供に落書きされたかのような太さで、ひどく粗末に描きこんであった。すらっとした高めの鼻の下には、深くぼてっとした人中が刻まれており、ほうれい線もまた見事に刻み込まれている。
どこか焦点のあってない、日本人形のような目。
だらしのない分厚い唇には遠慮がちな薄ピンクの口紅をあつらえていた。その下には、うっすらと口紅の色が移ってピンク色に見える、2枚の大きな歯がのぞいている。
彼はその目、焦点のあっていない不気味な目を見た瞬間、急に鏡と向かい合っているような奇妙な感覚を覚えた。と同時に、彼の体には衝撃が走った。
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あの目、あの目は、、
あのだらしのない分厚い唇に、わざとらしく疲れて伏せている顔。
その中に宿る、ひどく繊細な炎をあげる魂。
なんてそっくりなのだろう。きっと奴は俺と同じ種類の人間だ。これほど不器用にしか生きられない人間は世に俺一人だと思っていた。
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片手にビールジョッキを持ったままなのも忘れていた。手はわなわなと震えている。
不意に女は彼に気づいた。彼女もまた、焦点のあっていない目で自分のことを穴の開いたように見つめる一人の男に気づいたのである。
女は大きく目を見開いた。
(続く)
スイミーの眼 いなせ小僧 @kissuiboy
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