通勤途中の呻吟

電車の中は明るく、人工的な白い光に満たされている。彼は心中の呻吟をひた隠しにしようとむなしい努力を続けた。だが不幸にも、再び彼が窓の景色を見ようと思って目を上げると、電車はちょうどトンネルに差し掛かったところだった。彼はトンネルの中から見る窓の景色が嫌いであった。真っ黒に色づけされた砂が窓ガラスにへばりついて流れていくような感覚を与えるのだ。電車がトンネル内の蛍光灯を通り過ぎるときには、白い無機的な光の筋が、ぞっとするような冷たい白い線が、窓ガラスの上のほうの線を削り取るようになぞっていくのだ。


これが嫌いなのである。彼にとっては、トンネルの中、それはなんの生命も息吹も住まうことのない、いわば三途の河原のような荒涼とした地である。その中では、彼が普段愛してやまなような微笑みや語りかけを向けるものは何一つ見つけられない。そのような無粋極まりないところを鋼鉄を装った野蛮な箱が通っていく。これを飽きることなく繰り返す。






電車がトンネルに差し掛かったことを知ると、さらなる苦痛が彼を襲ったのか、これまでの努力もむなしく、彼の顔は赤ん坊でもそう感づくほどの醜さに色を変えた。ようようその顔を伏せて、周りにいる羨むべき人々と同じだということを声荒げに主張せんとするばかりに、彼はポケットの中から最近買ったばかりのスマホを出して、意味もなく画面を眺めたり、文字をぎこちなく打ち込んだりをやり始めた。だが依然として電車の窓にうつる彼の顔は、青白く苦痛に歪んだままである。その顔がスマホの画面の光を浴びているがゆえに、よりいっそう、その肌の下には生き物らしい紅い暖かい血液が流れているとはどうにも想像できないほどに鈍く炯々と光った。




彼は三十路を少し過ぎただけの、世間ではまだまだ青年と呼ぶことのできる身分にあった。身なりは悪くない。すらりとのびた細めの足に、折り目が目立つ青光りするスーツを着こんでいた。磨きこまれたワニ革の黒靴をはき、時計には銀色のベルトに一条の金線が入った味のある物をつけている。真っ白でしわの一つもないシャツに、これまた青光りするジャケットを心地よく着こなしている。彼はしごく忠実な勤め人なのである。




だが彼の顔は、三十近い齢にしては老け込んで見えた。短く切りそろえられた清潔感のある直毛は、富士額の上を柳のようにさらさらと覆いかぶさっており、太く育ちの良さそうな眉毛は毛筆の達人が描いたもののように形が整っていたが、その下にある目は生きた光をやや失っていた。その齢にしてはあまりにも辛酸を舐めている彼の瞳孔は、周りにあるものを優しげに凝視する際にどこか焦点のあっていないような不気味な印象を与えるのであった。「健康な人たち」と対話する時にも、無数の物たちと彼のみぞ知る幸せを共有する時にも、彼はさながら日本人形のような妖しい目つきをして語り掛けるのであった。鼻は幅広く肉厚であり、深く刻み込まれたほうれい線の下には、この種の人々、つまり鋭い感性をもって周りの物と対話することができる、不健康な人々によくありがちな、だらしのない唇が両の前歯を少しばかりのぞかせているといった具合であった。




彼はスマホから目を離した。ポケットにスマホをしまい込むと、トンネルから抜け出した電車が郊外の住宅街の家々を後ろへ押しやってゆくさまをぼんやりと眺め始めた。




「それにしてもたくさんの灯がついてるものだ。この灯りの一つ一つに人が住んでいる。無限に広がる世界の空間の一部分を切り取って所有して、その中でごく普通の生活を送っているんだろうな。


普通である!!これはなんて偉大なことなんだろう。なんて狂ったことなんだろう。きっと今夜のテレビ番組と明日の会議資料のことだけを考え、みんなが面白いと感じるものを面白いと感じることのできる崇高な感性を持っているんだろう。そういうふうに生きていくことができれば大きな得をする。世の中の多くの人に自分と同じような人間であると思ってもらうこと、これだけで大抵のことはうまくいくのさ。取引は上々、商売も繁盛。銀行口座の数字はうなぎのぼり。馬鹿げた話さ。成功するためには強い個性が必要だって?だがその個性も、一般的に許されるところできらりと光るものでなきゃいけない。いやきらりと光るだけではだめだ。その光を、自分の出す光を、多くの人が見ることのできる範囲の波長に調整しなければいけない。でなければ、あっという間に俺は異形の物になり果ててしまうのさ。」




彼の言葉である。




そうは言うものの、生まれてから数十年、彼はとくに大きな過ちを犯すことなく、ごく普通のまじめな青年として育ってきたつもりだった。だが、幼い頃から彼は周りの人々と自分とのどこか歴然とした違いを感じ取っていた。その感覚は彼が年をとるにしたがって、彼の脳脊髄液を肥料としてすくすくと育っていたのである。




そもそも彼は生まれてこの方友達というものを持ったことがなかった。むろん友達が欲しいと思ったことはいくらでもあった。そして友達づくりの機会というべきものも、彼の人生の中にたくさん用意されてきたのである。






青春時代を生きる子供たちが学校から解放された時刻、あの日が傾きかける時刻に海岸に赴くと、入り乱れた若い生命たちが砂の上で踊りまわっているのを見ることができる。彼も若い生命のうちの一つであった。同級生たちが底抜けに明るく騒いでいるのを、遠巻きに眺めているような、お世辞にもみずみずしいとは言えないといった塩梅式であった。




みんなでワイワイと楽しむ機会。そんな機会を彼は常に持ち合わせていた。




しかし、自分も輪に入ってワイワイやる機会。そんな機会を彼はとらえたことがなかった。




若いみずみずしい生命は敏感なもので、自分たちが我を忘れているときに遠くから楽しげな微笑をうかべて眺めているだけの青年の本質をすぐさま見抜いてしまった。彼らはその魂の中に、自分たちが持っておらず、また理解することもできない、ひどく繊細な炎が宿っているのを感じ取ってしまった。それは恐ろしい速さで起こった。彼が、仲良くなりたいという意志をこれでもかと表して同級生たちと愛想よく話そうと相対するとき、同級生たち、まぎれもない健康な青春を生きる彼らは、彼の目の中になにか得体のしれない光が宿っているのを悟り、急激に態度を改めるのであった。




その態度の急変たるや、とてつもないものだった!さきほどまで仲間どうしで若々しい華奢な話題に花を咲かせていた者たちが、彼を前にすると途端に校長先生を前にしたように固くなってしまうのである。そして、目の前から彼がいなくなったとたんに、しらけた雰囲気を一掃するような笑い声がおこり、また教室の中は和気藹々とした青春の空気で満たされるのであった。




同級生たちは彼のことを憎んでいたのではなかった。敏感な彼らは、彼の目の中に宿る得体のしれない光が、なにか深い優しさのようなものを帯びていることをも見抜いていたからである。彼らの態度は、決していじめや迫害のような陰気臭い類のものではなく、得体のしれない尊いものに対する畏敬のようなものであったのかもしれない。




だが当の彼は苦しんだ。自分はどこか変わっており、周囲の空気に馴染めない。閉鎖的な学校社会の中でこの欠点は致命的ともいえるものである。若い彼は、いつもニコニコとだらしない唇をゆるめながら内心ではなるべく彼らと同じになろう同じになろうと苦しんでいた。だが、いかに苦しんでもできぬものはできぬものである。こちらがどれほど願っても、他人の態度や行動を変えてしまうことはできぬ相談であるうえに、彼がどれだけ慇懃な態度で同級生たちの前に立ったとしても、同級生たちはその鋭敏な感性で、彼の本質が全く変わらず自分たちとはまるで異なるものであることを見抜いてしまうのである。




彼らの輪の中に入ることが不可能であることを悟ると、今度は彼の理解者を、彼の本質や苦しみを何か何まですべて見抜いており、それを理解して接してくれる人間を待ちわびた。




日々の生活のあらゆる場面で、彼は自分の理解者を探し続けた。しかし、学校に入るないなや地球上の空気をすべて自分のものだと言わんばかりの傲慢さで生きる健康な手合いの中に、彼のことを気に掛ける人物などいるはずもなかったのである。いつものように彼が遠くからうらやましげに若い生命のじゃれあいを眺めているときに、その人物は近寄ってきてこう言わなければならなかった。

「どうしたの?ねえ、話そうよ。」




当然ながらそのような出来事が彼の目の前に繰り広げられることはなかった。そういうことはこの世では起こりえぬのだ。そして、彼の早熟な、傷つきすぎている魂は、そのことをしかるべきことだと判断していた。


たまたま寄せ集められて共同生活を送るようになった集団の中でうまくやっていくためには、自分こそは他のほとんどの人間と同じであるという確信、揺るがない矜持のようなものが必要であることを彼は見抜いていた。そしてそのような魂が、自分らとは異質な魂にわざわざ近づくべくもなく、理解しようとする余裕も思いやりもないであろうということも。




このようにして、彼は青春時代を孤独に過ごした。反面、他人と接する忙しさがないために、彼は己の内面を豊かに肥え太らせていくことができたのである。




幸せそうに大手を振って歩く同級生たちのグループを尻目に、彼は通学路にあるものと対話することを覚えた。普段通いなれた道は、彼にとっては普通の人なら考えも及ばないような壮大な変化にあふれたパノラマであった。学校近くの商店街にいる掃除おばさんの鼻の上のほくろは日増しに大きくなっていった。春には側溝の割れ目に挟まっている土からたくさんの芽が吹き、夏にはその中から選ばれたもの、限りなく生命力のつよい健康な一株が、大きな白い花を咲かせるのであった。風に吹かれゆらゆら揺れる白い花は、みずみずしい花弁をこれでもかと見せびらかしながら毎朝挨拶をするのであった。




一人で通学路を歩く、この瞬間こそ、彼のもっとも幸福な、ささやかな愛情に満ち溢れた時間であったことは間違いない。同時に彼はこの瞬間に、このありとあらゆる物たちが彼に向って笑顔を振りまいてくる幸福なこの時間に、たとえようもないような深い不安に胸を締め付けられていた。




それは、分かりやすく言えば将来への不安といったようなものであった。だが彼の持つ不安は、右も左も抱くような不安ではなく、もっと深刻な、さりとてどうしようもないようなやるせなさに覆われたものであった。それはすべて彼が「異質であること」から来ていた。今は問答無用で自分たちの存在を認め、その権利を守ってくれる人たちが、自分たちが大人になるやいなやその義務から解放され、自分たちを選別する権利を持つようになる。すなわち、「多様性を大切にしよう」だの、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」だの、津々浦々の職員室で繰り広げられてきたようなこれらの理想は、必ず学校の中でしか適用されえないことに、彼はとっくのとうに気づいていたのである。


彼の不安をあざ笑うかのように、体は栄養を貪欲に吸収して大人へと近づいていった。このままだと自分は大人になってしまう。そして社会に放り出されてしまう。その時、いったい自分はどのように生きていけばいいのだろう。学校では猫も杓子も友達を作ることができる場所だ。なにしろ嫌でも一日中自分と同じ年代の人間と顔を突き合わせているのだから、仲の良い人間の一人や二人、誰にでも必ずいるものだ。だがこの俺はどうだ。みんなと仲良く、健康にワイワイ楽しみたいと心の底から願っているこの俺は。そういうふうに生きたいと願いつつ、実のところお前は自分で何一つ努力したことがないじゃないか。なぜ何もできない。なぜニコニコと笑いながらやつらに近づいていかない?








なおも電車は動き続けた。彼のだらしない唇は苦しそうに歪んでいた。






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