別れたいと妻が言わない理由
呂兎来 弥欷助(呂彪 弥欷助)
妻が私と別れたいと言わない理由
妻はもう、私に愛情がないのだろう。
それでも別れたいと言い出さないのは、ドラゴンと離れたくないからだ。
私の家には代々ドラゴンがいる。妻と結婚したときに、私は家を継ぎ、ドラゴンも継承した。初めこそ妻はドラゴンを怖がったが、いつのころからか、私に話しかけるよりも、ドラゴンに話しかけることが多くなった。
ドラゴンは長生きで何百年も生き、私の家を守ってきた。戦いでは先頭を切って敵に向かい、災害のときはその身を防波堤のようにした。
私にとってドラゴンは祖父だ。父だ。兄だ。弟だ。──いや、友のようでもある。なんと表現しようとも、ピタリと合う言葉はない。やはり、ドラゴンはドラゴンだ。
妻は私にとってどういう存在なのだろう。
親同士が勝手に婚約を決め、顔を合わせて、婚約者だと言い渡された。ドキリとしたが、それだけだ。互いにぎこちない言葉を交わしただけで、あとは儀式だけが時間と共に流れた。
妻が恋をしたのは、ドラゴンだったのかもしれない。
恐怖にドキドキしていた心は、恋心を呼んだ──そう思えば、自然な心の振れだ。なにも悲観することはない。
──悲観?
私は、妻を──。
そうか。
だからだったのか。
老いたドラゴンに、毎日話しかける妻の姿を見て、辛い気持ちがこみ上げるのは。
ドラゴンが命尽きれば、我が家はきっと終わりを迎える。
私たちは、終わるのだ。
ドラゴンを祖父のようにも、父のようにも、兄のようにも、弟のようにも、そう、決して切り離せない家族のように私は感じていた。
それと同時に、かけがえのない友のようにも感じていた。
それなのに、私はなんという人間だろう。今は、ドラゴンの余命が短いことを嘆けずにいる。
──私は、こんな人間だったのだ。
妻が誰でもない、ドラゴンに心奪われても、仕方のない男だ。
「あなた! あなた!」
悲鳴に近い妻の声。
「どうした」
事態がわからないというように返したが、想像はできている。きっと、ドラゴンはもう虫の息なのだろう。妻の潤んだ瞳が、非常事態を告げる声が、そう物語っている。
「急いで来て! はやく」
激しい声で私を呼ぶ。間違えない。
そう思ってみても、私にドラゴンを想っての涙は浮かばない。私の脳裏には、不安しかない。妻から、最後の言葉が切り出されるだろうと。
妻の声に急かされず、重い足取りでバルコニーへと向かう。ぐったりとしたドラゴンに妻は身を丸め震えていた。
「こんな……」
震える声は消えていく。
こんなときくらい、許されるだろうか。肩に手を伸ばしても──そう思った、そのとき、妻は私を見上げて口を開いた。
「こんなに大きな卵を産んだの! 長いこと苦しんで、やっと」
なにを言っているのだ?
さっぱり理解できないお蔭で、私の頭は真っ白だ。
「よく頑張ったね。頑張ったねぇ」
愛しそうになでるその手は、いたわりで。流している涙は、歓喜の涙で。
「ちょっと、待ってくれないか。すまないが頭の整理がつかない。卵? ドラゴンは老体だぞ。それに、そもそも、ドラゴンは雄だったのでは……」
「ドラゴンは何千年と生きるとお義母様が言っていたわ。だから、何百年と生きているこの
なぜか、私の記憶とすれ違う母の言い分。
「いや、歳だけでは……」
「お義父様もお義母様も、ドラゴンの性別はわからないって言っていたわ。ただ、勇ましい姿は男性のように感じるって聞いたことがあるけど……とにかく、この
──。
女性、ではなく、雌。
だが、ここは食い下がるのはやめよう。
「よかったわ。なんだか苦しそうだったから、もしかしたら……って思っていたの。そうしたら、仲良くなれて、すてきな瞬間に立ち会わせてくれたわ」
ドラゴンに向ける妻の眼差しは、友のようでもあり、姉のようでもあり──私が思っていたようなものとは交わらないものだった。
「ねぇ」
かけられた声に、ドキリとする。妻はドラゴンに卵を大切そうに返し、立ち上がって私をじっと見る。
──未だかつて、こんなにじっと見られたことがあっただろうか。
「やっとドラゴンに許してもらえた気がしたの。あなたの、妻として。この家の家族として」
ドラゴンは私の家を守ってきた。何百年も。それは私も知っている。
だが、ずっと守られてきた私と、後から家族となった妻とでは、認識が違かったのかもしれない。
妻には、ドラゴンが門番のようなものだと感じたのだろうか。家族の一員になるには、守り神という名の門番が門を開かなければ、門をくぐってはだめだとでも思っていたのだろうか。
だから、まずはドラゴンと仲良くなろうと?──。
「この家の守り神が幸福をもたらしたわ。……私たちにも、新たな命が芽生えるといいわね」
恥ずかしそうに肩をすくめた笑顔に、思わず両手が伸びる。
頬をかすめた揺れる髪。
そっと頬に触れる首元は、あたたかい。
妻とこんなに近くの距離にいるのは──そう思ってまた心臓が跳ねる。
──そうだ、誓いを交わした口づけの。
「ああ」
私の短い返事に、腕の中の妻はこくりとうなずく。
きっと、遠くない日に。その未来は待っている。
別れたいと妻が言わない理由 呂兎来 弥欷助(呂彪 弥欷助) @mikiske-n
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