君は青碧の森に

コロン

君は青碧の森

 むせ返るような深緑の香り含む風が流れる丘からは、湖と茶畑、遠くに富士山が見えていた。


 僕らは忘れ去られたような小さな祠の前に立っていた。


「泣いてるの?」

「あのね、お母さんが……」

「忘れたらいいの。ほら、あそこに月が浮かんでる。あれがケシゴム」

「消しゴム?」


 少女はウンと頷いた。


「消すの、辛い事は全部消して忘れよう」


 僕の手を、柔らかな手が優しく包んだ。


「大丈夫、今日の事は全部忘れよう」


 九歳の初夏。


 大好きだった母が亡くなり、僕の世界は白になった。全てが塗り潰されて、真空の白になった。


 優しかった君の記憶まで塗り潰し、僕は眠りにつく。


 君は言った。


「絵を、描くから。真っ白になった君の頭の中にいつか、この日の風景を描くから」



「富士山と、緑……」


 蒼みがかった深緑の葉が茂る茶の木が畝を作る茶畑。レトロなデザインの取水塔が印象的な湖と地平線をなぞる美しい稜線の連山。奥には冠雪の富士が描かれていた。


 絵を観た瞬間、襲いくるデジャブに目眩を覚えた。


 取水塔が浮かぶ湖に溶け込むような森が、青から緑に変わる不思議なグラデーションの色彩を放っていた。


 職員室前の壁に、何かの展覧会で賞を取った在校生の作品として立派な額に納められ、飾られていた風景画は、二メートル弱四方の大判風景画だった。


 全体的には墨彩画のように淡い色彩。柔らかな印象を与え、どちらかというと大人しい印象の絵は繊細な線が事物を縁取り風景の骨格を形成していた。


 僕は、絵の中に取り込まれるかの如く、校内の喧騒から断絶された静寂の空間に立っていた。


 暫し食い入るように見つめていた風景画の中に、違和感のように気を引く一点を見つけた。青い空に異様な白さで寝待月が浮かんでいたのだ。


「これ、昼間だよね?」


 白い月は大きくて、富士の冠雪と今にも繋がり融合しそうだ。


 繋がって溶け合って、白が広がる。全てを塗り潰していくように。


 全てを白くーー。


 ズキン、と頭の奥に鈍痛が走った。


 厚い壁にぶつかったみたいに思考が止まる。ゆっくりと深呼吸して絵から切った視線を下に向けた。


 【あの日の風景】


 タイトルと作者の札が付いていた。名前を見て僕は、あれ、と思った。


「かつら……まこと……?」


〝3-B 桂真琴〟


 思わず読み上げていた。僕の名前は〝誠〟。字は違えど同じ名前だ。


 同学年なのに名前も顔も思い当たらないという事は、この漢字からいって、女の子かもしれない。


 あれこれ思考を巡らせていた僕は、女の子、と考えた時に脳内に微かに引っかかる何かを感じた。


「かつら、まこと」


 改めて名前を声に出して読み上げた僕の胸に湧いたのは、新たな違和感だった。


 記憶の底を引っ掻くような感触を覚えた。何処か聞き覚えがあるような気がしたのだ。ただ単に、自分と同じ名前だから、というだけじゃなく。


 仁王立ちして腕を組み、その名について逡巡していたけれど、再び軽い頭痛を覚えて僕は視線を窓の外へと移した。深呼吸をして思考をストップさせると頭痛は納まった。


 桜を散らせ、新緑の葉を芽吹かせた木々の梢がさわさわと風に揺れていた。開け放たれた窓から吹き込む柔らかな心地良い初夏の風が頬を撫でた。


 春よりも幾分力強さを増した日差しを反射し揺れる萌葱色の葉に目を細めた時、廊下の向こうから「緒方―」と僕の名前を呼びながら日焼けした男性教師が歩いて来た。


「悪い、待たせたか」

「あ、いえ、大丈夫です」


 僕は手にしていた整形外科医院の名前が印刷された封筒を差し出した。


「診断書です」


 封筒を受け取った男性教師の顔が曇る。


「やっぱり、ダメか?」


 先生の言葉が、僕の心に微かな負荷を掛けた。


「すみません、ドクターストップです」


 僕は腕を上げて曲げ伸ばし、肘の稼働を監督に見せる仕草をしながら言った。そうやって腕を動かすことで、息苦しく詰まってしまいそうだった胸に鞴の要領で空気を送り込んだ。


「ずっと気にかけてもらっていたのに、本当にすみません」


 絞り出した声が掠れてしまう。もう既に、この場で二回目の〝すみません〟。なんだか感情の安売りみたいで心が籠っていない。知らず知らずのうちに僕は顔をうつ向けていた。


 小さくため息を漏らした僕の肩を男性教諭が叩いた。


「仕方ないよな。無理はさせられんし。ピッチャーの肘だしな。リハビリの進み具合で考えるとしよう」

「はい」


 この男性教諭は、野球部の監督で、野球部員である僕の恩師だ。一年の時から僕を気にかけてくれていた。


 でも僕は、その期待に応えられなかった。


 大事な場面で直視を避け逃げる癖はいつからだろう。


 小学校の時から変化球に頼ってきた。いつだってマウンド上で追い詰められた僕を逃がしてくれた。気付けば大事な場面での直球で勝負なんて、あり得なくなっていた。


 高校に上がった頃には、僕の中の真向勝負をする勇気なんてすっかり消え失せていた。逃げることばかり考えていた。変化球は、僕の心の鏡だったんだ。


 中学、高校、と学年と比例して増えていった変化球。僕は、三年になった今年の春、肘を壊した。



 教室に戻ると窓際の席で談笑している坊主頭の仲間の中に、一際明るい笑い声を立てている友人、平田遼太がいた。


 日に焼けた顔の中でくるくるとよく動く大きな目が印象的な、愛嬌のある爽やか系男子だ。いつだって友達に囲まれている人望の厚い、野球部のキャプテンだった。僕の、中学からの相棒だった。


 遼太は教室に戻って来た僕に直ぐに気付いた。


「おう、まことー、監督さんにちゃんと会えたか?」


 僕は、うん、と頷きながら遼太の傍に行った。周りにいた野球部の友人達が心配そうに僕の顔を覗き込む。


「結局、誠はどうするんだ?」


 答えにくい感情は苦笑いとシンクロする。すぐに言葉が出てこない。


 入学した時からずっと一緒にやってきた仲間達は、すぐにくじけてしまうタイプだった僕を決して見捨てたりはしなかった。だから、辛かったんだ。直ぐに弱音を吐けない環境が、僕には耐えられなかったんだ。


 僕は、逃げたんだ。マウンドで放つ変化球と同じように。


「ドクターストップだよ。診断書、監督さんに出してきたよ」


 肘はひと月もスローで調整すれば大丈夫、という状況だった。


 今は五月。七月に始まる最後の大会の予選には充分に間に合う状態だったけど、それは言わなかった。


 もういやだったんだ。あのプレッシャーから逃げ出したかったんだ。


 なんだ、そうかー、と口々に残念がる仲間達に少々胸が痛んだが、それよりなにより僕の胸に刺さって抜けなかったのは、遼太の言葉だった。


「すげー悔しいよ、俺は。中学の時からお前とやってきて、今年が本当に最後だったのにな」

「うん、僕も、悔しいよ……」


 乾いて貼り付きそうになった喉から精いっぱいの言葉を絞り出していた。


 僕の、逃げてばかりの人生は、どこまで続くんだろうな。僕はいつからこんな風になったんだっけ。


 フワッと脳裏にあの絵が浮かんだ。


 桂真琴って誰だっけ。


 どうしてあの絵もあの名前も、僕の機微を刺激したのだろう。




 西から差し込む茜色の陽射しによって廊下に映る窓枠の影が細長く伸びる放課後、僕は再びあの風景画の前に立っていた。


 富士と茶畑の風景は、普通に考えれば静岡だ。けれどここに描かれている場所は静岡じゃない。何故なら、富士が遠いのと、決定打は、湖だ。


 レトロなデザインの取水塔のある湖はもしかして、と考えていた僕は富士手前の連山に注目しては、あっ、と心中で声を上げた。


 秩父連山だ。僕の家から見渡すことができる秩父の山々。幼い頃から見てきた稜線は目にも記憶にもしっかりと焼き付いている。間違いない。


 狭山湖と、秩父連山。見覚えのある景色のわけだ。 


 僕のうちは大きなお茶農家の分家だった。家は、本家の広大な茶畑の一角にある。近隣の景色が絵の中の桜、湖、茶畑の風景にピタリとはまった。間違いない、うちの近くだ。だから既視感があったんだ。


 でも待てよ、と考える。


 少し高台から望んだ俯瞰の風景のようだけど、この風景がどこから見たものかはちょっと思いつかなかった。それに、絵の中の富士が、うちの近くから望む実際の富士よりも大きく描かれている気がした。


 やっぱり、うちの近くじゃないのかな。


 遥か遠くに望む富士が美しく絶大な存在感を放っていて、そこには手の届かないものに対する羨望、渇望のようなものが滲んで見える。


 故郷、茶畑、湖、富士。そして、白い月。


 僕の脳裏にふっと何かが過った。


 匂いだ。思わず鼻をクンと鳴らした。実際に匂いがする訳では無い。ただ、この絵から、胸の奥底に眠る記憶を刺激する匂いがした。


 ブルースト効果のように匂い立つ何かが脳を刺激しているようにも思えた。


 郷愁? いや、違う。懐かしいなんて緩く柔らかなものじゃない。まるで針のように尖っていているものだ。


 ズキッという痛みが頭にあった。僕は目を絵から一歩下がって目を閉じた。


 まただ。時々襲ってくる頭痛。深い思考の中に身を落とそうとするとヒタヒタッとやってくる。思考をストップさせて息をゆっくりと吸い込んで少しずつ吐く、を繰り返して治る。


 頭痛をやり過ごそうと深呼吸した時だった。


「それはね、日本画っていうの」


 背後から突然聞こえた、ちょっとハスキーで高い女の子の声に驚き、振り向いた。


 深いブラウンカラーにした肩にかかるくらいのウエーブがかった髪。品行方正で名が通っているこの学校には珍しい、少し崩れた制服の着方をした女子生徒が、壁に寄り掛かるように腕組みをして立っていた。


 ちょっぴりスレた感じの出立だけれど、何故か柔らかな印象が先に立った。


 茜色の光の中のせいかな。


 真っ直ぐに見つめる瞳にドキリとした。同時に、彼女の今言った言葉に疑問符が浮かんだ。


 ニホンガ?


 脳内にカタカナの4文字が浮かんで真っ先に思いついた事を口にした。


「浮世絵?」


 僕の言葉に一瞬目を丸くした彼女は髪をかきあげる仕草をして、アハハハッと声を上げて笑い出した。


 バカにされてる? 思わずムッとした僕に気付いた彼女は肩を竦めて、ゴメンね、と言った。


「そっか、日本画といえば浮世絵、ってイメージなんだね。でもね、それだけじゃないんだよ。風景だって花だって生き物だってそれこそ洋画みたいに色々あるんだよ。そうだなぁ、洋画と比較して端的に言うとね、絵の具の違いなの。アクリル絵の具で描く油絵。鉱石を砕いた粉を膠という糊みたいなもので溶いたもので彩色するのが日本画、かな。もっともそんな簡単な違いだけじゃないけどね」


 彼女の説明は、とても簡潔だった。僕は、ふうん、と聞きながら、


「そうなんだ……あれ、もしかして、この絵は君が?」


 絵の方を向いた。


「そ」


 短い返事。もう一度改めて絵を観た。そして、彼女を。


「名前から、男かな、って思った?」


 ドキッとした。目を丸くした僕に、彼女はしてやったりの顔。しまった。


 無意識に見比べてしまった僕の本心を完全に見透かされていた。クスクスと笑う彼女は、まっすぐに僕を見つめていた。


 薄化粧をした、大人びた雰囲気。だけどその中に、僅かなあどけなさが滲んでみえた。どんなに大人っぽく見せていたって、高校生なんだ。


 制服のブラウスは第3ボタンまで開いている。首元のリボンは緩く締め、まるで首に引っ掛けているかのよう。この学校にこんな生徒がいたんだ。少なくとも、僕のまわりにはいなかったタイプだ。


 でもなんだろう、変な感じがする。妙に胸がドキドキして、いつの間にかあの頭痛も消えていた。


「男の子みたいな名前だけど、私、正真正銘、女の子だよ」


 え、と思わず声を出してまう。


 そんなの、見れば分かるけど? 怪訝な顔をした僕に、彼女はフフと意味深な笑みを浮かべた。


「女装趣味の男の子、とか思ってない?」


 思わずブッと吹き出してしまった。少々狼狽する。慌てて顔の前に立てた手をぶんぶんと激しく振った。


「と、とんでもないよ! そ、そりゃ今は色んな人がいるけど……そんな、ここは学校だし、学園祭でもなければ男子がそんな恰好は――、」


 僕は、何を言っているんだろう。


 我に返って黙った僕に、彼女は目を丸くして沈黙した、と思った次の瞬間。アハハハハッ、と腹を抱えて笑い出した。


「そこまで笑うこと?」


 一気に脱力してしまった僕は笑い続ける彼女に力無く言った。これは、からかわれた、と言っていいかもしれない。


「もういいよ」


 絵と描いた本人とイメージが違い過ぎた。なんだかちょっとがっかりしたような感情を抱えて立ち去ろうとした僕を、彼女が呼び止めた。


「ねえ、ちょっと待って。君、緒方誠君でしょ?」


 顔も名前も知らなかった女の子に名指しで呼び止められて、ドキッとして足を止めた。再び彼女に視線を移す。


「どうして僕の名前を?」


 フフと笑って肩を竦めた彼女は上目遣いに僕を見た。そうだ、その目が、僕をドキドキさせるんだ。でも、彼女の次に吐いた言葉に、僕はよけいに狼狽させられることになる。


「ずっと好きだったから、って言ったら、どうする?」


 絵と描いた人間は必ずしもリンクするわけじゃない。僕はこの時、感動を返してくれ、くらいの気持ちで胸が一杯になりそうだった。


「キミにからかわれる筋合いはないけど」


 声が、自分でも驚くくらい硬いものになっていた。僕の内面に生まれた不快感がそのまま声に乗ってしまった。彼女は慌てて顔の前で手を合わせて謝る仕草をし、心底すまなそうな顔をした。


「ごめんね、からかったつもりはないんだよ。野球部の緒方君と言えば学内ではみんな知ってるでしょ」


 返答に困って眉を下げた僕に彼女は、ニコッと笑った。蠱惑的で意味深な笑みにドキッとさせられた僕に彼女は言った。


「それに、同じ名前だもの、私と」

「同じ、名前……、そうだ、〝まこと〟と〝まこと〟」


 改めて名前を復唱してみて、何か胸に引っかかるものがあった。


 なんだろう、この感触。喉の奥に何かが詰まったような感覚を覚えて戸惑う僕に彼女は困ったように肩を竦めた。


「忘れちゃった?」

「え?」


 彼女は笑い、ひらりと身を翻した。


 妖精のように軽やかに。


 僕の脳裏でキラッと何かが光った。


 陽光を反射する湖、遠くの富士。


 新緑の緑の匂い。


「き、君はーー!」

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