第2話 軽の池の

 志貴皇子しきのみこは、一度、異母姉からもたらされた縁談を断っていた。


 その女性は、律令制定後に、大海人天皇おおあまのすめらみこと夫人ぶにんに割り振られた女の胎から生まれた内親王であったが、彼女の外祖父にあたる男は、壬申の乱の渦中では、大友天皇おおとものすめらみことの傍近くにあり、敗走していたところを捕縛され、近江朝廷軍の重鎮でありながら罪一等を減ざれ配流された者である。

 皇女は、諸人もろひとが、橡姫とちひめを志貴皇子邸へ呼び寄せる作り話に使われた伊勢斎宮と入れ替わりに下向げこうしていたが、1年も経たぬうちに都へと退下たいげしてきた。


「皇太妃殿下。それは、恐れ多い事でございます」


 志貴皇子に、皇太妃殿下と呼ばれたその女性は、名前を阿閇皇女あへのひめみこと言い、大海人天皇と鸕野讚良天皇うののさららのすめらみことの間に生まれた唯一の皇子の未亡人で、今上天皇の母であった。

 彼女は、夫の正室であり、唯一の妻であったが、親王が天皇になる前に亡くなったので、皇后こうごうと呼ばれる事が無かった。


「ふん。皇太妃殿下などと…小癪こしゃくな。其方は愛し子。その様な物言いで、距離をとられるのは辛い。…それより、何故じゃ? 其方とて、葛城天皇の子。何を憚る事がある」


 頬に指先を添え、断られた理由を考える様に小首を傾げて空を見上げた後、先ずは視線を、それから遅れて顔を、畏まる志貴皇子の頭巾ときんへと向けた。折角、呼び寄せても、顔が見れぬのではつまらないとばかりに、膝を浮かし、顔も上げる様に命じた。

 立ち上がる事を許された志貴皇子は、そのようにしたが、表情は困ったような顔をしていた。


「お戯れを仰って下さいますな。お判りでしょう。私などを夫にすれば、内親王殿下の格が下がるというものです。私とて、妻を崇め奉る生活は御免被りたい」


「ほほっ。…それほどまでに蘇我そがの女は嫌か?」


 年増であるが、日頃から充分な手入れが行き届いた深窓の女性である。経年浅く、椿の梢を揺らす葉のような、テラテラと艶めく若い娘の肌とは比べるべくも無いが、適度な脂肪の乗った肌は張りを留め、白粉をまぶし紅を引いた顔は、彼女が夫を亡くした頃から遜色は無かった。

 それでなくとも志貴皇子にとっては、母の様な女性である。その女性から、流し目めいた瞳で捕えられれば、思わずたじろいでしまう。


「まさか! …恐ろしいのですよ。知らぬ間に、はかりごとの渦中に身を置く事が。危急は、ですか? 無垢な皇女は、お気に召されなかったのですね」


 志貴皇子の問いかけに、図星をつかれた阿閇皇太妃は、険しく顔を顰めた後、そうした自分が可笑しくて、俯いて鼻で笑い、改めて志貴皇子に目を流すと、深紅の唇の端を高く吊り上げニヤリと笑う。


「ほんに…其方は聡い。…嗚呼、悔やまれるのぉ」

 そう言って、細く長い息をつく。


 志貴皇子に押し付けようとした内親王の姉は、彼女が内親王として生まれてきてしまった事の方が間違いである程、生粋の娼婦であった。醜女しこめであれば、それはそれで、男にとってざわめかせる存在になりようも無かったが、さしばで顔を隠してもそれと解る美貌は、衣通姫そとおりひめもかくやであった。


 彼女は無邪気だった。今上天皇と契るのも、親王と契るのも、その優劣は、その時の時分の気分次第と思う程、無邪気だった。結果、好ましいと彼女が思い、関係を持った男達とは別れさせられ、家族に監視される様に暮らしていたが、彼女の妹が伊勢に向かうと、またぞろ、火照る肉体を抑えきれなくなり、今上天皇に歌を贈った。


 ┌──────────────────────────┐

 │かるの池の浦廻うらみ行きる鴨すらに玉藻の上にひとり宿なくに│

 └──────────────────────────┘


 今上天皇の名は、かると言った。


 通釈すれば『軽の池を泳ぎ回る鴨であっても、藻の上で一人で寝ないのに』というものである。しかし、『自分は今一人で寝ている』という事を言外に添え、こうなった原因の『軽への恨み』も込めている。更に読み解くのは察してほしいが、この歌を受け取った今上天皇の焼けぼっくいに火がつかぬ筈が無かった。


 しかし、いくら内親王であっても、これほどのうかを、皇后に据えるわけにはいかず、女の目から見れば、さして大差が無いと思われる見た目と、貞節を重んじる心映えを持った妹ならば皇后として相応しいと、退下させたのだった。


「良い。此度は引こう。だが、解っていようが、あのような者の昇殿を許そうというのじゃ。それ相応…うなった葛野王かどのおうの代わりは、しっかりとしてもらわんとの」


 葛野王とは、先年亡くなった、大友天皇おおとものすめらみことの嫡子である。壬申の乱の後、大友天皇は、天皇であった事実を公には消され、彼もまた皇子─親王の身位を奪われた。

 そんな身の上だからこそ、鸕野讚良天皇に阿り、へつらって生を繋ぎ、天皇の皇子で無い今上天皇に、鸕野讚良天皇が譲位する道筋をこしらえたが、その助言をした者を、阿閇皇太妃は、警戒していた。


 さて、志貴皇子は、阿閇皇太妃の舎から出て安堵していた。彼の知る限り、大海人天皇の未婚の内親王は、もう残っていない筈だった。


 志貴皇子が、その内親王の存在を知らなかったのも無理も無かった。彼女の母は、葛城天皇の皇女が跋扈する大海人皇子の妻の中、采女でありながら、彼の後宮に入り寵愛を受け続けた女性で、彼女について語る事は、鸕野讚良皇女の往来のある草壁皇子の舎内では、ある種の禁忌とされ、彼女自身も、大海人天皇が死出の旅路についた時、他の姉弟達がもがりに列席する中、伊勢斎宮としてではなく、病気平癒の祈りを捧げる為に伊勢にいたのだ。

 

 そして又、まさに今、その内親王は、伊勢にいた。


 ❖◇❖◇❖


 諸人は、内蔵頭くらのかみの職に就いたお陰で、広さでは比べるべくも無いが、志貴皇子邸よりも藤原ふじわら宮に近い、諸人の邸宅を給付されたが、橡姫は、ツツジの生垣の中の舎に住み続けていた。


 志貴皇子が娶るのが内親王である事を知った橡姫は、脳裏の裡に身籠った般若を堕胎した。

 己を捌け口としてしか想っていない男には、相愛の恋しい妻が既におり、いかなる事情かは知らないが、その女性を志貴皇子邸内に住まわせるのだと思っていたが、それが勘違いだと解ったからだ。


 志貴皇子が望み娶った妻ならば、彼女を邸に住まわせても追い出されるとは限らず、志貴皇子の気まぐれ次第で、愛玩される日もあるかもしれなかった。

 だが、娶る相手がやんごとない女性で、正室だというなら話は変わってくる。


 この時代は『妻問つまどい婚』で、その形態には二種類ある。婿が妻の元に通う『妻訪さいほう婚』と婿が妻の住居に住み込む『妻所さいしょ婚』だ。内情さえ無視すれば、志貴皇子と橡姫は、『妻訪婚』の状態にある。


 さて、志貴皇子だが、最初は『妻訪婚』の形状をとり、その女性の邸に通うが、ゆくゆくは『妻所婚』となり、正室の屋敷に住み込む事になる。

 そうなった時、志貴皇子の敷地内に居を構える橡姫は、一体、何処へいけばよいのかという話になる。


 そしてそれは、橡姫の居住場所だけの問題ではなく、志貴皇子の婿入り先が、大海人天皇の内親王であるという問題も重なって来る。内親王の気性にもよるが、彼女に橡姫の存在を知られれば、彼女は、軽んじられた。と、怨嗟し、志貴皇子を悪い立場へと追い詰める可能性が高い。

 また、そもそもの原因である、諸人の出世の妨げにもなりえた。

 


(もう…今宵は来られるか。と…気を揉む事もない…)


 そう意を決すると、取り合えず瓶子と膳を、座ったままの姿勢で遠くへ退かすと、志貴皇子の前にきちんと座り直し、指先を床につけ頭を下げた。


「ご結婚おめでとうございます。私は父の許に帰ります」


 橡姫は、志貴皇子との子供を孕まなかった。

 今や貴族となった諸人の娘である橡姫は、それなりの男の妻となれる立場にあった。そして、階位を手にした諸人が、自分の血を受け継いだ孫を待ち望んでいる事も慮れる。

 橡姫が石女うまづめのまま戻れば、今度は、騙し討ちなどではなく、否応なく男を宛がわれる事になるだろう。


 志貴皇子に頭を垂れながら、橡姫は、まだ見ぬ次の男を、志貴皇子以上に愛せるかどうかを考えていた。

 いさぎよすぎる橡姫の態度に志貴皇子は眉根を寄せ、半身をもたげたかと思うと、いざり寄り、床についた橡姫の手首を掴んだ。


「あっ」


 思いもよらず引き寄せられ、橡姫は声を漏らす。志貴皇子は、橡姫の可憐な唇を自分の太い唇の中に納めた。そうしながら胡坐をかいた膝の上に橡姫を座らせると、彼女の肩に顎をかけ、背中を覆うように強く抱きしめた。


「貴女というひとは! 何故、そうも聞き分けが良いのだ。それほど、私がうといか? 貴女の心がほぐれれば、その時こそとも思っていたのに」


 背骨がきしむ程に抱きすくめられ、意識を手放しそうになったが、志貴皇子の嗚咽にも似た思いの吐露に、橡姫は目を見開いた。


(え?)


 指先が志貴皇子の長紐をとらえたのを幸いに、それを引く。志貴皇子は、腰に食い込もうとする長紐の違和感で、橡姫を抱く腕の力を緩め、肩から顎を引いた。


 ようやく絡み合った橡姫の顔は、唇を、花咲く様に綻ばせ、目尻の垂れた眼には、溢れる間際の涙の膜で覆われていた。その顔は、この一年、志貴皇子が拝む事を渇望した、満ち足りた橡姫の、桃の花のような笑顔だった。


 下睫毛のつつみの間を縫い、橡姫の頬を涙が伝う。


「…そんな…風に…思ってくださって…いたのですね…」


 橡姫は、袍の袖からのぞく襦袢で目を拭い、潤みを残す瞳を上目遣いで志貴皇子に向けた。

 橡姫自身は、溺れそうな喜びの渦中にいた。だが、橡姫から再び笑みを向けられた志貴皇子は、橡姫自身が気づかぬ間に忍び入ってきた陰りを見逃す事は無かった。

 彼は、物心ついた時から、常に注意深く、他人の表情を読んできたのだ。

 橡姫の笑みは、それ迄の志貴皇子との逢瀬の時と同様に、笑みを浮かべながらも、憂いを纏わせ、諦めを匂わせていた。

 志貴皇子は、喉仏を大きく動かして唾を飲み込んだ。自分こそが、先ず、彼女からそれを持つ感情を奪った事を自覚しつつ、彼女自身の幸福とあまりに縁遠い彼女を哀れに思った。同時に、今すぐに、彼女を愛して、愛して、愛して、愛して…肉体の外も内も、骨の髄まで自分で満たし、痕跡を刻みつけたかった。


 ❖◇❖◇❖


 志貴皇子が、橡姫に送った後朝きぬぎぬの歌は、自由に生きると決めた旅先で詠ったものだった。


 名もなき一族のみで構成された集落に立ち寄った際、長の孫娘を与えられねんごろになった頃、一匹のムササビが捕らえられているのを見た。


「狩ってきたのですか?」と尋ねれば、違った。

 その集落の者達は、山に分け入り茸や山菜を採っても、獣を狩る事はしない。村の中に侵入した獣のみを“神の恵み”として食していた。そのムササビは、村の端にある柿の木の梢に滑空してきたのだ。幹から伸びた太い枝を掴んでいれば良かったのだが、ムササビが掴んだのは絡み枝であったらしく、重さに耐えきれずにしなって折れ、落ちていたらしい。


「時々、こうやって飛んでくるんでさぁ。何はともあれ、今晩は、馳走を用意できますぜ。期待しておいてくんなせぇ。旦那様には、せいぜい精をつけて、姫様に元気な御子を仕込んでやってもらわんとならんで」


 森の中にいれば狩られる事もなかっただろうに、まだ実もなっていない柿の枝を求めて境界線を越え、命を堕とす事となったムササビを憐れに思った。


 志貴皇子は、娘が孕んだので、ムササビの折った梢を携えて、子が産まれるのを待たずに集落を出た。


 ❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖



 後書


志貴皇子が、こうして撒いた胤の一つから、弓削道鏡が生まれたかもしれないし、生まれなかったかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る