【大法螺葦原国史】修羅の宝珠 ~梢求むと~
久浩香
第1話 むささびは
「今度、妻を娶る事になったよ」
志貴皇子が、橡姫の元に通うようになって1年以上が経っていた。
その間に、彼女の父は、従五位下の位階を授けられ、まがりなりにも貴族と称し昇殿を許される地位と、
❖◇❖◇❖
橡姫の父は、
紀の氏族で、近江朝廷軍に属していたのは諸人の父を含む僅かばかりの者だけで、戦後、祖父に引き取られた彼は、『愚か者の息子』と見下され、伯父達に便利に使われながら搾取される、不遇な時代を過ごした。
自分だけの事であれば、父の無念に従い、父の仇の
甲斐性の無い自分が恨めしかった。
妻を亡くし、諸人がぐじぐじしている間に、橡姫は健やかな少女になった。
冬などは、その日の食事にも事欠き、手に
そんな橡姫を不憫に思い、
(稼がなければならない)
と、思った。
折も折、それまで無位であった志貴皇子が、
仕事柄、家を空ける事が増えたが、帰ればいつも、橡姫の朗らかな笑顔に出迎えられた。
諸人と志貴皇子には、少なからぬ因縁があった。志貴皇子が、諸人の父が最後まで仕えた大友皇子の異母弟であるばかりでなく、志貴皇子の母と橡姫の母は、同じ氏族であった。
家扶となり、
諸人は、自分に
身形こそ不憫であったが、少女であった橡姫は、細く引き締まった腕や足腰とは裏腹に、胸や尻に充分なまろみを帯び、まばゆい娘へと変化していた。それに加え、諸人は、家扶の職を得た後、志貴皇子邸を取り仕切る下女の数の少なさから、万が一を考えて、橡姫には、諸人の知る限りの、言葉使いや貴人に対しての作法の様なものを教えていたので、躾も行き届いていた。
(年頃の娘だ。染めもない貫頭衣などでなく、色鮮やかな袍や
荒ら屋を出て、職場である志貴皇子の邸宅の家令舎に到着すると、母屋となる
諸人は、橡姫を志貴皇子に差し出す事を決めたのだった。
❖◇❖◇❖
橡姫の瞼は僅かに上がり、口角を微妙に下げた。
閉じていた唇が、プッと音をたてて割れる。
瓶子の肩に添えていた指先を、内衣の中に隠して、胸元を留める襟の結び紐の上に重ね、さも驚いただけという風に装う。
「……ま…まぁ、それは…」
寿ぎの言葉を紡ごうとしたが、喉を潤す液体は、肺から吹き上がってきた突風によって、肉の襞へと染み込んでいき、口の中に残ったのは、糊の様な粘り気ばかりで、それ以上は何も言えなかった。
肉の内部に取り込まれた液体の多くは、涙腺に降り注ぎ、橡姫の眼球を覆う湿り気が水嵩を増した頃、志貴皇子の告白の
そうでなくとも、片や親王の
だが、四品である事以外、何の要職にもついておらず、三十五を超えてなお
橡姫は、自分の元に通ってくる浮草の如き男の告白に、彼が、妻にと
「今上天皇の御命令でな。退下される伊勢斎宮で、大海人天皇の
志貴皇子は、忌々し気に呟きながら、耳の穴に小指を差し入れて
言外に、
❖◇❖◇❖
壬申の乱の時、志貴皇子は生まれたばかりの赤子だった。
戦を制したのは、大海人皇子の軍であったが、正統性は葛城天皇の嫡男の大友天皇に有り、今は、大海人に額ずいている者達も、時流次第で反旗を掲げる恐れもあり、後の禍根を断つ為に、葛城天皇の男系の血統は、真っ先に絶っておくべき代物だった。
命を長らえさせたばかりか、のうのうと育てられたのは、大海人皇子の妻や、彼のの後嗣候補に名前を連ねる者達の配偶者の
大海人皇子にしても、大化の改新の後の葛城天皇の
大海人皇子と志貴皇子は、叔父と甥とはいえ、大友皇子の自決により降伏した、
だが、それよりも、今まさにこの乳児一つの命を
踏み締めの足らぬ地盤の脆弱さは、嫌という程知っており、逆を言えば、強固に踏み固められた土台をこしらえさえすれば、後で突き崩しを計っても、ままならなくなっている事になり、その為には、何より平穏な時間が必要だった。
葛城皇子が大化の改新を起こした時、彼は若く、命の限りを考える必要など無かっただろうが、大海人皇子は、残された時間を数える年齢に達していたのだ。
大海人皇子は、後に二つの遺恨を助命した。
いつ
大海人天皇が崩御し、皇后の鸕野讚良皇女が即位する迄、継承問題による粛清劇が起こったが、志貴皇子はそれを特等席で観覧して、終劇を見届けた彼は、飛鳥朝廷には関わらず自由に生きる事にしたのだ。
❖◇❖◇❖
志貴皇子に、強張ったような笑みを向けながら、橡姫はとりとめなく志貴皇子との過去を思い返していた。
(いつから愛していたのだろう?)
橡姫が、初めて志貴皇子と会ったのは、志貴皇子邸の雑舎に移り住んでからだった。
これまで、客人らしい客人が訪ねて来る事は無かったが、志貴皇子の伊勢斎宮をされている異母姉の内親王が、帰京された後、仮の住処として志貴皇子の母屋の西の舎に住む事となり、内親王をお世話をする女官の下女となるべく、橡姫に声がかかった。という体を装った転居だった。
確かに内親王は退下していたが、志貴皇子邸に留まる。などという事はあろうはずが無かった。
諸人は、
「橡姫の器量なら、うまくすれば、女官になれるかもしれん」
と、かくも自然に作り話を纏めた。
橡姫は、自分の身を案じて荒ら屋に帰って来る父が、過労で倒れやしないかとハラハラしていたので、もう、忙しい時間を縫って、わざわざ帰って来なくても、邸宅内に宿舎を用意してもらえるなら、その時間分、父が休める事を喜んだ。
橡姫の喜ぶ顔に諸人は、
(やはり女なのだなぁ。さぞ着飾りたかったろう)
と、思った。
ようやく橡姫が舎での生活に馴染んできた夜。諸人は、志貴皇子と共に帰ってきた。
戸を開けて、先ず入ってきたのは志貴皇子だった。橡姫が
まだ肌寒くはあったが、春だった。
戸と突き上げ戸を開けると、篝火の明かりが、室内を照らす。
父親の姿を見留めて、辛うじて安心はしたが、一度は止まってしまった様になった心臓は、激しく脈を打つ。
「酒はある。肴になるものを用意してくれるかい?」
と言って、にっこりと笑った。
橡姫は、懐っこい人好きのする笑い顔に、ドキリとした。
土間から板間に上がってもらい、円座に座って貰う。
橡姫は、始めこそ粗相をせぬように気を張っていたが、諸人と和やかに語らい、大らかに構える志貴皇子の人となりに、いつしか緊張の糸は解け、今まで、そうした事は無いが、父の旧友をもてなす様な気構えになり、桃の花の様な笑顔で、二人の坏に交互に酒を満たした。
「間者めいた方のお世話をせねばならぬとは…お
その日の朝、朝食を食べながら、諸人がため息混じりに呟いた言葉だった。
その時の橡姫には何の事だか解らなかったが、二人が大海人天皇の崩御から、鸕野讚良天皇の即位に至るまでの会話等を、聞くとはなしに聞くうちに、志貴皇子の邸宅を仮の住処とする内親王の兄親王が、粛清された親王の謀反の密告者である事が知れた。
(痛くも無い腹を探られて…御身を休める暇も無いとは…お気の毒なこと…)
橡姫は、いかにも他人事という風に、志貴皇子の置かれている立場に同情した。
橡姫には難しい話から、志貴皇子の旅先での話に話題が移ると、思わず聞き入ってしまった。橡姫が、志貴皇子の話を夢中で聞いていると、諸人は、ほどよきところで舎を後にし、それが合図であったように奪われた。
初夜はあっけない程あっさりしたもので、夜明け前どころか、事を終えた志貴皇子は、
「諸人は、もうここには帰りませんが、貴女はここで過ごしなさい」
と告げるだけ告げて、舎を出ていった。
突き上げ戸越しに室内を照らす、舎の外で焚かれる篝火の灯は、すぐに遠退くと思われたが、志貴皇子が出た後もしばらく留まり、鋭敏になっている五感は、扉の向こうで、諸人が志貴皇子の衣服を整えながら、会話している内容も漏れ聞こえて来た。
橡姫は、いたした後そのままの姿で、
❖◇❖◇❖
翌朝、戸の前に届けられた
┌───────────────────────────┐
│むささびは
└───────────────────────────┘
通釈すれば『むささびが梢に飛び移ろうとして山の猟師に捕まってしまった』というものである。しかし、むささびを
この歌の後、志貴皇子は、彼の都合のままに、ふらりと夜更けと共にやって来ては、夜明け前に帰っていった。橡姫は、彼の訪れの無い日でも、月の障りの無い日には、
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