【大法螺葦原国史】修羅の宝珠 ~梢求むと~

久浩香

第1話 むささびは

「今度、妻を娶る事になったよ」


 志貴皇子しきのみこは、瓜の塩漬けをかじった後、ふと思い出した様に口にした。膳の上に置かれたつきに酒が注がれ、橡姫とちひめの抱える瓶子へいじの底が、床に戻された瞬間を見計らった告白だった。


 志貴皇子が、橡姫の元に通うようになって1年以上が経っていた。

 その間に、彼女の父は、従五位下の位階を授けられ、まがりなりにも貴族と称し昇殿を許される地位と、内蔵頭くらのかみの職を手に入れていた。


 ❖◇❖◇❖


 橡姫の父は、紀朝臣諸人きのあそんのもろひとと言い、彼の父は、壬申の乱の折、大友天皇おおとものすめらみことの差配する近江朝廷軍の陣についた。まだ年端もいかぬ子供であった諸人は、母と共に父の無事の帰還を念じていたが、その祈りは叶わなかった。

 紀の氏族で、近江朝廷軍に属していたのは諸人の父を含む僅かばかりの者だけで、戦後、祖父に引き取られた彼は、『愚か者の息子』と見下され、伯父達に便利に使われながら搾取される、不遇な時代を過ごした。


 自分だけの事であれば、父の無念に従い、父の仇の簒奪者さんだつしゃたる大海人天皇おおあまのすめらみことの後胤や、今際間際の葛城天皇かつらぎのすめらみことしとねに侍り、彼の嫡子の大友皇子への忠誠を命じる『天皇のみことのり』の遵守じゅんしゅを、あまねく神仏に誓っておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、いとも容易くたがえた日和見ひよりみ主義の祖父を長者とした紀氏の者達に、背を向けて暮らす事にいささかの後悔も無かったが、妻を病で亡くした事で迷いが生じた。


 甲斐性の無い自分が恨めしかった。

 妻を亡くし、諸人がぐじぐじしている間に、橡姫は健やかな少女になった。

 冬などは、その日の食事にも事欠き、手にあかぎれをこさえ、あばら屋に吹き込む隙間風に震えていたが、「辛い」と、一言言うでもなく、やがて来る春へと思いを寄せて、微笑んでいた。


 そんな橡姫を不憫に思い、

(稼がなければならない)

 と、思った。


 折も折、それまで無位であった志貴皇子が、四品しほんに叙せられた。それまで、伯父達の地下人じげにんとして使われる為に与えられた、従六位上の位階を持つ事を(疎ましい)と、思っていたが、それであった事が幸いし、志貴皇子の家司いえつかさ家扶かふとなった。

 仕事柄、家を空ける事が増えたが、帰ればいつも、橡姫の朗らかな笑顔に出迎えられた。


 諸人と志貴皇子には、少なからぬ因縁があった。志貴皇子が、諸人の父が最後まで仕えた大友皇子の異母弟であるばかりでなく、志貴皇子の母と橡姫の母は、同じ氏族であった。


 家扶となり、季禄きろくを稼げるようになったが、生活は好転しなかった。諸人が、家扶として恥ずかしくない絹仕立ての身形みなりをしていたから、粗目の麻の貫頭衣かんぬきい姿の橡姫の姿が、一層みすぼらしく見えた。

 諸人は、自分にほうを着せ、襟紐や長紐を結んでくれる姿のたおやかさに、実の娘でありながら息を呑んだ。

 身形こそ不憫であったが、少女であった橡姫は、細く引き締まった腕や足腰とは裏腹に、胸や尻に充分なまろみを帯び、まばゆい娘へと変化していた。それに加え、諸人は、家扶の職を得た後、志貴皇子邸を取り仕切る下女の数の少なさから、万が一を考えて、橡姫には、諸人の知る限りの、言葉使いや貴人に対しての作法の様なものを教えていたので、躾も行き届いていた。


(年頃の娘だ。染めもない貫頭衣などでなく、色鮮やかな袍やなりを着たかろう)


 荒ら屋を出て、職場である志貴皇子の邸宅の家令舎に到着すると、母屋となるいえを食い入るように眺め、掌の拳をきつく結んだ。

 諸人は、橡姫を志貴皇子に差し出す事を決めたのだった。

 

 ❖◇❖◇❖


 橡姫の瞼は僅かに上がり、口角を微妙に下げた。

 閉じていた唇が、プッと音をたてて割れる。

 瓶子の肩に添えていた指先を、内衣の中に隠して、胸元を留める襟の結び紐の上に重ね、さも驚いただけという風に装う。


「……ま…まぁ、それは…」


 寿ぎの言葉を紡ごうとしたが、喉を潤す液体は、肺から吹き上がってきた突風によって、肉の襞へと染み込んでいき、口の中に残ったのは、糊の様な粘り気ばかりで、それ以上は何も言えなかった。


 肉の内部に取り込まれた液体の多くは、涙腺に降り注ぎ、橡姫の眼球を覆う湿り気が水嵩を増した頃、志貴皇子の告白のつぶてが、橡姫の瞳孔に落ち、広がる波紋越しの世界は、物の輪郭をぼやかせ、物の象を二重、三重にと滲ませた。


 瞬目まばたきを数度行って瞳を宥めると、俯く動作を行いながら、口を閉じると同時に口角を押し上げる。まなじりが下がるように目を細め、首を志貴皇子の顔の方へ動かして、微笑みかけた。



 はなから、諸人の出世の道具として差し出された身の上であった。そういう経緯いきさつであるから、志貴皇子が橡姫を気遣う必要は微塵もなく、彼は、彼の据え膳である橡姫を味わう権利があり、橡姫は、身体に障りがある時を除けば、彼の望むままに食われる義務があった。


 そうでなくとも、片や親王の身位しんいの志貴皇子と、その使用人の娘にすぎない橡姫とでは、身分に隔たりがありすぎて、そういった取引材料として扱われる事そのものが、そもそも過分の待遇であった。


 だが、四品である事以外、何の要職にもついておらず、三十五を超えてなおやもめであった彼が、今更、妻を娶る事になるとも思ってもみなかった。


 橡姫は、自分の元に通ってくる浮草の如き男の告白に、彼が、妻にとこいねがう程、素晴らしい女性との旅枕があったのだと思った。



「今上天皇の御命令でな。退下される伊勢斎宮で、大海人天皇の内親王ないしんのうなのだそうな。…私の様な者に、結構な相手をめあわせるものだと思ったら、どうやら、藤氏とうしへの対抗勢力の一端をになわせるおつもりらしい。全く…迷惑な話だ」


 志貴皇子は、忌々し気に呟きながら、耳の穴に小指を差し入れて穿ほじくると、耳垢をこそぎ出し、爪の中に挟まったそれを息をフッと吐いて吹き飛ばすと、尻の下に敷いていた円座わろうだの上に肘をついて、寝転がった。

 言外に、まつりごとに伴う政略結婚である事を匂わせたのだが、彼の目の前にいる橡姫は、憂いの色を変えた。


 ❖◇❖◇❖


 壬申の乱の時、志貴皇子は生まれたばかりの赤子だった。


 戦を制したのは、大海人皇子の軍であったが、正統性は葛城天皇の嫡男の大友天皇に有り、今は、大海人に額ずいている者達も、時流次第で反旗を掲げる恐れもあり、後の禍根を断つ為に、葛城天皇の男系の血統は、真っ先に絶っておくべき代物だった。

 命を長らえさせたばかりか、のうのうと育てられたのは、大海人皇子の妻や、彼のの後嗣候補に名前を連ねる者達の配偶者のことごとくが、志貴皇子の異母姉であり、大海人皇子の正室で、この反乱に僅かばかりの正当性を持たせ、彼を勝者たらしめさせた鸕野讚良皇女うののさららのひめみこが、言葉と言えば「あぶぅ」と返すだけの彼に代わって、命乞いに尽力した結果である。


 大海人皇子にしても、大化の改新の後の葛城天皇のてつを踏む事は避けたかった。


 俯瞰ふかんすれば、乙巳いっしの変だけであれば、分を弁えず増長した臣下を排斥したに過ぎなかったが、ささくれ立った葛城皇子は、いつでも手繰たぐり寄せられるものだと過信して、名よりも実を取り、疑わしきを誅殺し尽くし、肉親の情をも疎かにして、正室の父や母方の甥であろうと関係なく、ひたすら障害の一掃に務めた。そして結局、足元の覚束ないままこの世を去り、大海人皇子に付け入る隙を与えた。


 大海人皇子と志貴皇子は、叔父と甥とはいえ、大友皇子の自決により降伏した、面従腹背めんじゅうふくはいの近江朝廷軍の面々が、いずれ手綱無き彼を新たな旗印に据え、反乱を引き起こすやも知れず、仏心を出せば仇となり得る危険因子であった。


 だが、それよりも、今まさにこの乳児一つの命をほふり、窮鼠猫を噛むの言葉通り、今は大人しく降った近江朝廷軍の残党が、次は我が身との恐怖を抱え、ようやく収束した乱の後始末をする間もなく、次の狼煙を上げる事を恐れた。


 踏み締めの足らぬ地盤の脆弱さは、嫌という程知っており、逆を言えば、強固に踏み固められた土台をこしらえさえすれば、後で突き崩しを計っても、ままならなくなっている事になり、その為には、何より平穏な時間が必要だった。

 葛城皇子が大化の改新を起こした時、彼は若く、命の限りを考える必要など無かっただろうが、大海人皇子は、残された時間を数える年齢に達していたのだ。


 大海人皇子は、後に二つの遺恨を助命した。

 いつ初冠ういこうぶりをしてもおかしくない年齢に達している葛城天皇の三男と、大海人が初めて情熱の全てを傾け、今なお最愛の女性として胸の裡に君臨する女性との間に産まれた長女の産んだ、大友天皇の嫡子である。


 大海人天皇が崩御し、皇后の鸕野讚良皇女が即位する迄、継承問題による粛清劇が起こったが、志貴皇子はそれを特等席で観覧して、終劇を見届けた彼は、飛鳥朝廷には関わらず自由に生きる事にしたのだ。


 ❖◇❖◇❖


 志貴皇子に、強張ったような笑みを向けながら、橡姫はとりとめなく志貴皇子との過去を思い返していた。


(いつから愛していたのだろう?)



 橡姫が、初めて志貴皇子と会ったのは、志貴皇子邸の雑舎に移り住んでからだった。


 これまで、客人らしい客人が訪ねて来る事は無かったが、志貴皇子の伊勢斎宮をされている異母姉の内親王が、帰京された後、仮の住処として志貴皇子の母屋の西の舎に住む事となり、内親王をお世話をする女官の下女となるべく、橡姫に声がかかった。という体を装った転居だった。

 確かに内親王は退下していたが、志貴皇子邸に留まる。などという事はあろうはずが無かった。


諸人は、

「橡姫の器量なら、うまくすれば、女官になれるかもしれん」

と、かくも自然に作り話を纏めた。

 橡姫は、自分の身を案じて荒ら屋に帰って来る父が、過労で倒れやしないかとハラハラしていたので、もう、忙しい時間を縫って、わざわざ帰って来なくても、邸宅内に宿舎を用意してもらえるなら、その時間分、父が休める事を喜んだ。

 橡姫の喜ぶ顔に諸人は、

(やはり女なのだなぁ。さぞ着飾りたかったろう)

と、思った。



 いえは、ツツジの生垣がぐるりと廻っており、その間仕切りされた空間内が、父娘に支給された宿舎で、掘立柱の舎の内部は、間仕切りこそ無いが、橡姫が過ごす土間と、諸人が過ごす板間に別れていた。


 ようやく橡姫が舎での生活に馴染んできた夜。諸人は、志貴皇子と共に帰ってきた。


 戸を開けて、先ず入ってきたのは志貴皇子だった。橡姫が吃驚びっくりして口を開けたまま、身じろぎも出来ずにいると、諸人が、篝籠かがりかご松明たいまつを入れてから、志貴皇子の後ろに立った。


 まだ肌寒くはあったが、春だった。

 戸と突き上げ戸を開けると、篝火の明かりが、室内を照らす。


 父親の姿を見留めて、辛うじて安心はしたが、一度は止まってしまった様になった心臓は、激しく脈を打つ。狼狽うろたえる橡姫に向かい、志貴皇子は持参した瓶子を橡姫の目の高さまで掲げ、

「酒はある。肴になるものを用意してくれるかい?」

 と言って、にっこりと笑った。

 橡姫は、懐っこい人好きのする笑い顔に、ドキリとした。


 土間から板間に上がってもらい、円座に座って貰う。

 橡姫は、始めこそ粗相をせぬように気を張っていたが、諸人と和やかに語らい、大らかに構える志貴皇子の人となりに、いつしか緊張の糸は解け、今まで、そうした事は無いが、父の旧友をもてなす様な気構えになり、桃の花の様な笑顔で、二人の坏に交互に酒を満たした。



「間者めいた方のお世話をせねばならぬとは…おいたわしい」

 その日の朝、朝食を食べながら、諸人がため息混じりに呟いた言葉だった。

 その時の橡姫には何の事だか解らなかったが、二人が大海人天皇の崩御から、鸕野讚良天皇の即位に至るまでの会話等を、聞くとはなしに聞くうちに、志貴皇子の邸宅を仮の住処とする内親王の兄親王が、粛清された親王の謀反の密告者である事が知れた。

(痛くも無い腹を探られて…御身を休める暇も無いとは…お気の毒なこと…)

 橡姫は、いかにも他人事という風に、志貴皇子の置かれている立場に同情した。



 橡姫には難しい話から、志貴皇子の旅先での話に話題が移ると、思わず聞き入ってしまった。橡姫が、志貴皇子の話を夢中で聞いていると、諸人は、ほどよきところで舎を後にし、それが合図であったように奪われた。


 初夜はあっけない程あっさりしたもので、夜明け前どころか、事を終えた志貴皇子は、ふんどしをしめて、はかまを履き、袍の袖に腕を通すと、長紐を手に持って、

「諸人は、もうここには帰りませんが、貴女はここで過ごしなさい」

 と告げるだけ告げて、舎を出ていった。


 突き上げ戸越しに室内を照らす、舎の外で焚かれる篝火の灯は、すぐに遠退くと思われたが、志貴皇子が出た後もしばらく留まり、鋭敏になっている五感は、扉の向こうで、諸人が志貴皇子の衣服を整えながら、会話している内容も漏れ聞こえて来た。

 橡姫は、いたした後そのままの姿で、まなじりから零れ落ちた液体を、耳の穴の中に溜めながら、二人が去っていく足音を聞いていた。


 ❖◇❖◇❖


 翌朝、戸の前に届けられた行李こうりの中に入っていたのは、破られた粗末な貫頭衣かんぬきいの代わりの絹の衣服一式と、木しゃくに書かれた、とてもそうとは思えない後朝きぬぎぬの歌が入っていた。


┌───────────────────────────┐

│むささびは木末こぬれ求むとあしひきの山の猟師さつをに逢ひにけるかも│

└───────────────────────────┘


 通釈すれば『むささびが梢に飛び移ろうとして山の猟師に捕まってしまった』というものである。しかし、むささびを橡姫とちひめに、猟師を志貴しき皇子に置き換えれば、『貴女は貴女のあるべき場所で溌剌はつらつと過ごしていたのに、私に捕まってしまったので、もう逃げられませんよ』とも読める。


 この歌の後、志貴皇子は、彼の都合のままに、ふらりと夜更けと共にやって来ては、夜明け前に帰っていった。橡姫は、彼の訪れの無い日でも、月の障りの無い日には、篝籠かがりかごの中に松明たいまつを入れておく事が日課となった。

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