第3話
「
その信長を狙い、若武者、雪川義春は泥を蹴立てて、
「信長ーッ。信長は
すでに槍も、鎧も返り血に赤くなっている。
と、乱戦の中に、他より華美な甲冑を身に付けた、若武者の姿を見つける。
この時、織田信長27歳。「義元を探せ」と下知を飛ばしながら、自らも今川兵と斬り結ぶ、この青年こそ、信長に相違なし。
義春は直感し、大音声を上げる。
「織田
「小僧、死に急ぐか」
鼻で笑う信長。若き魔王の姿にも、義春は臆さない。
むしろ、わずかにむっとした。
(某を小僧だと? 大して、変わらぬではないか)
このような若造に、主君、今川義元を討たせるわけにはいかぬ。
義春は槍を繰り出した。
「お覚悟ッ」
信長もまた、雄叫びを上げて、槍を交える。
一合、二合、三合。林の中、余人も交えず、合わさる槍が火を降らす。
「せいっ」
「おうっ」
先刻の雨で出来た泥だまりを、蒸発させん勢いで、打ち合いながら、心密かに、義春は舌を巻いた。
(尾張の国主でありながら、この武芸。野に慣れておる。ただ者ではないな)
しかしながら今川義元の護衛として、幼少の頃より武芸ひと筋に励んで来た義春にとって、負ける相手ではない。
冴える槍術は確実に、信長を追い詰めていく。
「おのれ、猪口才な」
槍を払う信長の胴が、わずかに空いた。
今ぞ、ひと息。義春の、槍を握る手に力が籠る。
「がッ……!?」
されど、怯んだのは義春の方であった。
信長の後ろから、猿面の小者が放った矢が、肩に突き立ったのだ。
「ようした、猿ッ」
その隙を逃さず、信長が槍を突く。
義春の甲冑を貫き、深々と脇腹を抉る。
灼けるような痛み。口の奥に、血の味がこみ上げる。
「む、ぅっ」
思わず膝をついた義春が顔を上げると、信長は刀を抜き払い、首を刎ねんと振りかぶっていた。
「滅せよ」
美しき唇より死を紡ぐその姿、まさに戦国の魔王。
義春は観念するよりも、信長の姿に見惚れこそするものの……。
寸でのところで、味方の武者が割って入り、刀を受け止めた。
その武者は、義春が誰よりよく知る顔だった。
「父上……!」
義春の父、雪川家当主、義信。
助太刀に入った父は、魔王信長の振るう刃を、自らも愛刀を手に、必死に受け捌く。背中に、義春をかばいながら。
と、信長の繰り出した蹴りが、親子もろとも吹き飛ばした。
雨上がりの山道を、転げ落ちていく2人。
「殿! とどめは、この藤吉郎にお任せを!」
先ほど矢を放った小者が追おうとするが、
「要らん。狙うは今川義元の首ひとつよ。我に続け!」
信長は、雪川の親子を見逃した。
2人して坂を転げ落ちた親子は、泥だらけになりながら立ち上がる。
油断なく刀を構え、織田の兵が追ってくるのに備える父義信に、義春は問う。
「父上、何ゆえここに」
「誾林殿より聞いたのだ。それよりっ」
籠手を付けたままの手で、義信は、息子を殴り飛ばす。
「馬鹿者っ。何ゆえ、今川様のお
「それは……殿のご下知で。信長を討ち、戦を終わらせよと」
反論する義春。だが、その時であった。
親子の耳に、木々を震わせる勝鬨が飛び込んだのは。
「毛利新介、今川義元を討ち取ったり! 敵総大将、今川治部大輔の首を獲ったぞ―ッ!!」
桶狭間の山に木霊する、織田勢の
天下第一の人物と信じた主君が、もはやこの世の人でない。
信じがたい言葉に、義春がただ呆然としていると、
「……たわけ者。殿は、そなたが生き延びるよう、計らってくださったのじゃ」
今川義元の真意を見抜いていた父義信が、義春の背を叩く。
義春は、今の今までそれに気付けなかった、自らの不明を責め……また、主君との約束を果たせなかった、信長を討てなかった……その悔しさに、泥の地面を拳で叩いて、嗚咽する。
「……うっ、ああっ……ああァァ、あぁぁぁ……ッッ!!」
「……立て。生き延びるぞ。生きねば、それこそ殿に合わせる顔が無いわ」
父は、半ば強引に義春を立ち上がらせる。
そして、木の葉より落ちる雨だれ
この後2人は、今川義元の首を奪還せんとする岡部元信の隊に合流し、奮戦したという。
そして役目を終えると、本拠である雪川荘……後に空の宮と呼ばれる地へと、落ち延びていったのだった。
さて、雪川家の末裔には、こんな話が伝わっている。
桶狭間合戦の際に家宝の大鎧を着ていたのは、当主の義信であり、後の天下人たる信長と秀吉に付けられた鎧の傷を、むしろ誇りとしたと……。
「お2人は、やはり天下の剛の者であった」などと呵々大笑したと。
これは事実と異なるが、息子義春の初陣の屈辱をかばう、父の優しさであった。
雪の如くに 改選雪川家譜 百合宮 伯爵 @yuri-yuri
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