結び

 葵誘拐事件から一年が経った。

 相変わらず千歳と葵は草壁のもとに身を置き、白兎と兼良と共に務めを果たしている。

 しかし今、二人の姿は山の中にある。草壁の采配で、故郷に無事を知らせに行くことになったのだ。

「きゃっ」

「大丈夫かよ、葵」

「あはは、滑った。ありがと、千歳」

「ん」

 昨夜の雨で濡れた枯葉に足を滑らせ尻もちをついた葵の手を、千歳が取る。無事立ち上がると、葵は木々の葉に囲まれた小さな空を見上げた。

「まさか、こんな形で帰ることになるとはね」

「まあ、思いもしなかったよな」

 千歳が防人として村を出て、既に五年が経過した。

 葵が千歳を追って都に辿り着き、草壁たちと出逢って幾つかの出来事を経験した。それら全てが一年間のことかと思うと、葵は身震いしたくなる。

「……皇子様たち、元気かな」

 思いをはせるのは、数日前に別れた草壁たちのことだ。後ろを振り返る葵に、千歳は呆れを含む顔で肩を竦めてみせる。

「大丈夫だよ。白兎も兼良さんもいるんだから。寧ろ、おれは葵の方が不安だけど」

「失礼だなぁ」

 頬を膨らませながらも、葵は楽しげに微笑む。彼女のその笑みを見て、千歳も目じりを下げた。


 年が改まり、大王は草壁皇子を日継皇子として認めることを正式に決めた。式典は簡素なものだったが、葵と千歳、白兎はその様子を殿の屋根の上から見守った。

 日継皇子の立場が誰になるかが決められたことで、大津皇子派の動きは陰りを見せることになる。佐庭は抵抗を試みたようだが、藤屋は大王の決定に異を唱えることはなかった。

 一度だけ、『陰』を名乗った男が千歳を訪ねて来た。真夜中の邂逅であり、彼ら二人以外はその事実を知らない。

「都を離れる前に、挨拶をしておきたくてね」

「佐庭のもとを離れるのか?」

「ああ。我々が出来ることは、既にない。それに、陰を伴う仕事というものは、何処にでも転がっているものだ」

 お前の故郷にも行くかもしれない。そう言って微笑する陰に、千歳は首を横に振った。

「葵の父上は、お前のようなものを使うことはない。勿論、おれも」

「それは残念だ」

 大して残念そうにも見えない顔で肩を竦めると、陰は踵を返して夜闇に消えた。

「二度と会わないことを祈るよ、失われた国の王」

 闇の中から聞こえてきた声に、千歳が応じることはなかった。


「千歳?」

「―――え」

「どうしたの。ぼおっとして」

 山道が一段落し、一時の休憩を取っていた時のこと。陰と会った時のことを思い出していた千歳は、葵に呼ばれて我に返った。

 手に持っていたはずの握り飯が膝の上に落ち、ぼおっとしていたらしい。すぐさまそれを手に掴むと、千歳は苦笑いを浮かべて頬張った。

「何でもない。そろそろか?」

「うん。八咫が見に行ってくれてる。危険がないかって」

 葵と千歳を故郷まで導く役を担っているのは、かつて葵を助けてくれた八咫だ。白兎の頼みで、引き受けてくれた聞く。

 その八咫がこちらに戻って来るのが見える。その表情を見る限り、進んでも良さそうだ。

 千歳は腰を下ろしていた岩から立ち上がると、葵に手を差し伸べた。

「行こうぜ。みんな、待ってるだろうし」

「待ちくたびれてて、怒られそうだけどね」

 苦笑し、葵は千歳の手を取った。

「追っ手はいなかったし、危険もなさそうだ。もう少しだし、ついて来て」

 八咫の言葉に頷き、二人は歩き出す。葵の胸元には、千歳から贈られた翡翠の勾玉が揺れた。


 ―――時は、春。梅の花が散り、山桜が見頃を迎える。

 春を待ち、務めを終えて里へと戻る。その旅路は、今後も続く。

 二人はまた、都に戻り時を過ごすのだが、それはここでは語るまい。


 ただ、先眼の力でも見えない未来は、彼らの前に繋がっているのだ。


                                   ―了―

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