第五十一話 傍にいよう 

「申し出? 何だい」

 草壁に許可され、千歳は思い切って言う。

「この都を出て、おれたちの故郷ふるさとにいらっしゃいませんか?」

「……それは、わたしに都を離れろということかな」

「断られることを前提に、ですが。―――はい」

 渋面を作る草壁に、千歳は頷く。

 場の空気が、冷える。白兎と葵は顔を見合わせて戸惑い、兼良は目を瞬かせる。草壁は考え込むように腕を組み、千歳は真剣な顔で草壁を凝視していた。

 都にこのまま住まうことは、そのまま命を狙われ続けることを意味する。今夜のようなことが幾度となく続き、おそらく大王となり得たとしても終わらない。それが為政者の背後に蔓延る悪の一端だと、背負うべきものだと言ってしまえばそれまでだ。

 しかし草壁が目指すものは、彼の代だけでは終わらないだろう。あまりにも夢は壮大で、うつつに体現するには時が足りない。

 そして、その夢はきっと、この都にいたままでは叶えることは難しい。何故なら。

「……わたしの時は、それほど残されていないからね」

「皇子様!」

 自嘲気味に微笑む草壁に、激しく否定しようとした兼良が反応する。しかし、草壁は彼を制した。

「隠していてくれてありがとう、兼良。でも、相手は未来を視ることが出来る子だ。無駄だよ」

「ですがっ」

 尚も食い下がる兼良に再び「ありがとう」と告げ、草壁は壁に背中を預ける。天井を仰ぎ、ふっと儚く微笑んだ。

「―――わたしは、昔から体が弱かった。血を吐いたこともあるし、咳き込むこともしょっちゅうある。だからか、両親からは政務まつりごとから離され、比較的自由にやらせてもらっているよ。……不肖の息子だけど、学ぶことを疎かにはしていないつもりだ」

「それは、大王もわかっておいでです。だからこそ、大津皇子様との関係を憂いておられます」

 兼良の言葉に、草壁は「そうだね」と寂しげに言う。

大津あのこは、素直だ。自分の思うことを正直に表に出し、裏表がない。文武両方に通じ、飲み込みも早く、だからこそ、付け入られやすい」

 葵は、大津の無邪気な笑顔と兄を支えたいという真摯な表情を思い出す。彼は本心から、兄である草壁を慕っているのだ。それを伝えたくて、葵は身を乗り出す。

「あの、大津皇子様は……」

「わかっているよ、葵。あの子は、わたしを兄として慕ってくれている。誰よりも、わたしが最も知っている。……だからこそ、安易に近付くことは出来ないんだ」

「どういう、ことですか?」

 戸惑う葵に、草壁は微苦笑を浮かべる。

「大津は、わたしの兄弟だ。血が半分繋がっていなくても、その事実は変わらない。そして、だからこそわたしたちは未来の大王の座を奪い合う立場にある。……そんな二人が普段から慣れ合っていたら、どうなるだろうか?」

「普段から、慣れ合う……」

「言葉の選び方があまり良くはないけれど。……千歳ならわかるかい?」

 名指しされた千歳は、小さく息を吸い込む。そして、努めて冷静な声で応じた。

「……仲が良いからこそ、利用されます。どちらを座に就けるか、そのどちらの勢力も、敵になり得るもう一人を引きずり降ろそうと画策するでしょうね」

「正解」

 だから、と草壁は笑う。苦しそうに。

「どちらに転んでも、わたしも大津も傷つく。互いの為に。だから、わたしは離れることを選んだ。……少しでも、彼の心に傷を作らないために」

 離れていれば、もしどちらかが消されても近しい時よりは傷が浅い、かもしれない。大津は優しいから、きっと義兄を思って泣くだろうが。

 そんなことを思い、草壁は内心苦笑した。自分の甘さに、笑いが漏れる。

 大津が自分を思い涙する、そう決めつけている自分に。

「―――なんて、わたしの考え過ぎかもしれないがね」

「皇子様……」

 千歳の瞳が揺らぐ。それを目の当たりにしながら、草壁は「話が逸れたね」と軌道修正をする。

「わたしが都を離れれば、次代の大王は大津だろう。父も母も、そう納得せざるを得ない。だが……出来ればわたしは、あの子に王位に縛られて欲しくないんだ」

 だから、と草壁は立ったままの千歳を見上げる。

「もしも必要にならない限り、千歳の申し出には応じられない。――考えてくれて、ありがとう」

「いえ。……皇子様が決めたのなら、おれはもう、何も言いません」

「ありがとう、千歳」

 ふっと口元を緩める草壁に、千歳は真っ直ぐな瞳をぶつける。

「おれは、あなたを守ると誓いました。あなたの夢は、過去の自分の夢と重なります。……争うことなく笑顔を守って生きたかった、かつての女王めのおおきみの」

 だから、と腰の剣を握る。

「あなたが望む限り、傍にいますよ。な、葵、白兎」

 千歳に振られ、葵と白兎はしっかりと頷く。否定する要素が何処にあろうか。

「勿論。千歳と共に、わたしも傍にいます」

「当たり前です。決して、あなたを敵の手に渡さない。きっと、夢を叶えましょう」

「……ありがとう。千歳、葵、白兎。兼良も、これからも頼むよ」

「心得ております。例えどんな未来でも、共に行きましょう」

「ふふっ。頼もしい」

 草壁は、仲間たちを見回した。どんなに危険な目にあっても、怪我をしても、彼らは傍にいる気がした。それが物理的な距離でなくても、心は繋がりを持ち続ける。

 ―――だから、きっと大丈夫。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る