第四十四話 過去からの贈り物

 千歳と白兎が土蜘蛛の村へ行き、草壁と兼良は日前当主の邸へと向かったその夜。葵はただ一人、何処とも知れない空間で途方に暮れていた。

 どうにかして脱出を図ろうと、既に何度も壁に体当たりを繰り返した。戸を破れないかと拳で叩いた。数えきれない程繰り返すことで体は傷だらけになり、手の甲は赤く腫れた。

「っ!」

 それでも、何度でも繰り返す。そうするうち、見張りが我慢出来なくなったのだろう。突然戸が開かれた。

「うるせぇ! 黙って捕まっていろ」

「きゃっ」

 丁度戸の前にいた葵は蹴り倒され、堅い地面に体を打ち付けた。体に痛みが走り、葵はすぐに動くことが出来ずに痛みに耐える。

「ちょっ、まずいんじゃ……」

「ああ?」

 少しびくついた様子の若い男が、葵を蹴り飛ばした男に意見しようとする。しかし後者の男はすごんで黙らせると、ふんっと鼻を鳴らして再び戸を閉めてしまった。

「良いんだよ。主様あるじさまに盾突いたっていう女だ。どうせ長くはないんだから、どう扱ったって構やしねぇよ」

 品のない笑い声が聞こえ、葵は震える腕を叱咤して上半身を持ち上げた。頬に付いた泥を拭い、奥歯を噛み締める。

 溢れそうになる涙を流さないために、葵は拳を握り締めた。

 自分は死んでも良い。一瞬でもそういう考えが過らなかったと言えば嘘になるが、同時に反対の言葉も浮かぶ。

「死にたくない。みんなに、会いたい……」

 窓もなく、時間の感覚はない。しかし体も心も疲れ切り、葵は部屋の端で気を失うように眠りについた。


『―――くんだ、早く!』

『この馬鹿が! 俺のことは良いから先に―――』

 誰かの声が、近くから聞こえる。

 それは何故か懐かしさを感じる年若い男の声だった。

「ここ……何処?」

 葵が瞼を開けると、目の前には知らない光景が広がっていた。

 美しい木目が強調された柱、手の込んだ織物の幕、そして広がる赤い泉。幾つもの赤い飛沫が壁や柱、床を濡らし、騒々しい人々の悲鳴と怒号が響き渡る。

 葵は周りの状況を確認しようとしたが、視界は真っ直ぐ前を向いたまま動かない。どうやら葵の意志は、ここでは正しく働かないらしい。

 その証拠に、景色は変わり続ける。葵と誰かが意識を共有し、その誰かは絶えず走り続けているからだ。

『!!』

 視界がぶれた。突然横から現れた刃物を跳び躱し、また真っ直ぐに何処かへ向かって走り続ける。

『何処に行った、あの馬鹿は』

 ちっと舌打ちを一つして、体の主は懸命に走る。そして、ようやく彼女の元へと辿り着く、その直前だった。

『みぃつけた』

『お前はッ』

 瞠目する相手を見て、男は舌なめずりをした。彼の瞳に映り込む姿を見て、葵は自分が今、誰になっているのかを知る。

「男の人だ。でも、見たことな……痛っ」

 突然の痛みを感じて、葵はその場にしゃがみ込みたくなった。実際は意識を彼と共有しているだけであるから、耐えることしか出来ないが。

 葵と同じ青空のような瞳の色を持つ青年は、険しい表情をして目の前の男を睨みつける。

『どうしてだ。どうして、俺と女王を裏切った? 何がお前を……』

『黙れ!』

『ぐっ……』

 力任せに顔を殴られ、青年はよろめいた。その隙に、男が憎々しげな顔で青年を押し倒して馬乗りになる。

『今なら、まだ間に合う。オレたちの味方になれよ。そうすれば、命を助けてやるぞ?』

『悪いが、断る』

『残念だ』

 ――――ドッ

「!?」

 葵は声を失い、それでも悲鳴を上げたかった。

 自分が刃物に刺され、目の前が霞んでいく。痛みを感じないのは幸いだったのかわからないが、少なくとも、葵が恐怖を感じない材料にはならなかった。

 胸元から、赤い液体が溢れ出す。

 葵の――青年の目に、男の目が映る。そのガラス玉に映し出されたのは、侮蔑と嫌悪、殺意、そして憐憫だった。


 強く耐えがたい頭と胸の痛みを覚え、葵は呻き声を上げて目を覚ました。

「……っ」

「気がついたかい?」

「あなたは―――っ」

 上半身を勢いよく起こしてしまい、葵は再び強い痛みを感じて息を詰めた。すると彼女の背を、誰かが優しくさする。

「ごめん。嫌なものを見せてしまったね」

「いえ……。あなたは一体?」

「俺かい?」

 青年は自分を指差すと、くすっと微笑んだ。その目は穏やかで、そして芯の強さを垣間見せる。

「俺は、きみだ。正しくは、きみの前世、ということになる」

「ぜん、せ?」

 思いがけない正体を教えられ、葵は戸惑う。しかし心の何処かで「やっぱりそうだ」と納得する自分もいる。

 改めて、葵は青年をじっと見つめた。固い質感の黒髪は短く揃えられ、わずかに垂れた目は人の良さを窺い知ることが出来る。その目の色は葵と同じ青で、体は細いが筋肉が程よくついている。更に纏う衣は葵の知らない質素で美しいものであり、特に藍で染められた腰紐が目を惹いた。

「えっと……葵?」

「うひゃいっ」

 ぼおっと青年を見上げていた葵は、彼に呼び掛けられて驚いた。変な声を上げてしまい、恥ずかしさで穴があったら入りたくなる。

 真っ赤になった顔を両手で隠す葵を見て、青年は吹き出した。そのまましばらくけらけらと笑うと、大きく息をつく。

「……落ち着いた?」

「あ、はい。すみません、取り乱して」

 大笑いする青年につられて笑ってしまっていた葵は、自分の気持ちが落ち着いていることに気付いてぺこりと頭を下げた。

「気にしないで。驚かせたのは俺だから」

 青年は葵の顔を上げさせると、彼女の目の前に腰を下ろす。そして、打って変わって真剣な表情を見せた。

「あの……」

「これから、きみは戦いに臨む」

 葵の言葉を遮り、青年は言う。何故知っているのか、先が見えているのかと問うことの出来る雰囲気はない。葵は黙って頷くに留めた。

 青年が葵の前に両手を差し出す。するとその上に、ちょうの弓が現れた。

 弓は木で作られ、使い込まれているのか少し古めかしい。

「これは……?」

 意図を測れずに戸惑いを浮かべる葵に、青年は「貰って欲しい」と微笑んだ。

「これは、俺が使っていたものなんだ。きっと、葵を助けてくれる」

「でも、大切なものじゃ……」

「大切だからこそ、葵に持っていてもらいたいんだ。……あいつを、今度こそ守るために」

……? もしかしてっ」

「ふふっ。頼んだ」

 青年は葵に弓を手渡すと、内緒を意味するかのように人差し指を立てて口元に持って行った。きっと彼は、葵がどんなに訊こうと答えをくれないつもりのようだ。

 ぽんっと葵の頭を撫でると、青年は立ち上がる。そして、踵を返して何処かへ去って行こうとした。

「待って!」

 葵は彼を追おうと立ち上がり、駆け出す。

 しかし、どれだけ走ろうと青年との距離は開くばかりだ。息を切らせ、葵は叫ぶ。

「あなたの名前はっ」

「……内緒だよ、葵」

 振り返り、青年はそう言って楽しげに笑った。

 葵が重ねて文句を言う前に、葵を白い霧が包み込んでしまう。手を伸ばしても、時間という途方もない距離を縮めることは出来ないのだ。


「――――っ、夢?」

 葵が目覚めると、そこはあの途方もなく辛い部屋の中だ。再び沈む気持ちを抱え込み、葵は手が何かを掴んでいることに気付く。

「これは……」

 そこにあったのは、夢の中で出会った前世の青年から贈られた弓だった。

「これで、守る」

 青年との約束を思い出し、葵は弓を抱き締めた。

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