第三十六話 皇子の気持ち

 男を取り逃がし、千歳はずるずると同じ場所に座り込んだ。逃がしたことは悔しいが、負った傷の痛みで走ることは出来なかった。

「……そこに、葵が現れて。その後のことは、ご存知の通りです」

 千歳は話し終え、黙ったまま何かを考えている草壁に深々と頭を下げた。

「どうして頭を下げるんだい?」

「奴を捕らえていれば、おれ以外の被害を防ぐことが出来ました。皇子様たちを危険に晒してしまう可能性があります」

「そうかもしれない、ね。だけど」

「……!」

 千歳は目を見開いた。草壁の手が、千歳の背中に置かれていたのだ。

 硬直する千歳の耳に、涼やかで落ち着いた声が届く。

「よく頑張ってくれたね。ありがとう、千歳」

「皇子様……」

 目を見開いて穴が開くほど自分を見つめる千歳に、草壁は苦笑した。ゆっくりと千歳の背に置いた手を動かし、さする。

「確かに、わたしたちにも危険はあるかもしれない。だけど、わたしにとってはそんな不確定な未来よりも今きみが無事でいてくれることの方が……大王おおきみとなることよりも大切なんだ」

「皇子様、そんなことを口にしては―――」

「事実だ。とはいえ、内密に頼むよ」

 片目を瞑り、草壁はおちゃめに微笑んで見せた。そのために、彼の言葉が本心化冗談か判断はつかない。

 草壁はふと立ち上がり、さてと呟いた。

「しばらく見守ろうかと思っていたけれど、相手が実力行使してくるのなら……こちらも手を打たなくてはね」

「とはいえ、あなたは暴力沙汰は嫌いでしょう」

「その通りだよ、兼良。流石、よくわかっているね」

 兼良の呆れた物言いに頷き、草壁は己の両手を見詰めた。男にしては線が細く、逞しさとは無縁な脆弱さが目立つ。しかし彼には、何よりも意志の強さがあった。

「父上も母上も―――特に母上はわたしを大王にしたがっておられる。以前のわたしならばそれに従うのみだったけど、今は違うよ」

 負傷した千歳と彼を気遣う葵、そして兼良。ここにはいないが、真っ先に跳び出して行きそうな白兎。白兎たちの縁で知り合った八咫は、既に自分の村へと帰っている。そのようにして増えた結びつきがあり、草壁にはもう守りたいものがある。

「嫌々ながら据えられるなら、もうどうでもいいと思っていた。だけど、わたしには夢があったって思い出したから」

 大昔、失われた国。そこを治めた女王めのおおきみは、占うことで国を導いたという。彼女に備わった力は、先眼さきのめという未来を視る力だった。

「……特別な力は何もないけれど、わたしの夢のために力を貸してほしい」

「皇子様……」

「頭を上げて下さい」

 深々とこうべを垂れる草壁に、千歳と葵が困惑する。それでも頭を上げない草壁に、兼良は大きなため息をついた。

「―――皇子様。国を統べるとおっしゃるのなら、部下を困らせてはいけません」

「兼良……。うん、ごめん。千歳と葵も悪かったね」

 素直に顔を上げ、草壁は幼い顔をして微笑んだ。千歳と葵が「気にしないで下さい」と首を横に振る。

「ありがとう。……おっと、辛気臭いのはこれくらいにしよう。白兎が帰って来たら、今後のことを決めようか」

 それまでは各自で。解散を言い渡した草壁に、葵は「あのっ」と声をかけた。

「どうしたんだい、葵」

「あの、女官長に頼まれて行ったのは……大津皇子様の所だったんです」

「大津……」

 草壁は少し困った顔をした。当然だろう。大津は草壁と王位を争う者であり、草壁を追い落とそうとする人々が大王にと望むのは大津なのだから。

「あの子は、幼い頃から優しくて、兄であるわたしによく懐いてくれた。だけど今は」

「今でも、大津皇子様はあなたを慕っておられます」

 草壁の言葉を遮り、葵は断言した。

「兄の支えになりたいとおっしゃって。……対立していることに心を痛めておられる様子でした」

「……そう、だろうね」

 寂しげに目を伏せ、草壁は呟く。目を閉じ、一呼吸して、再び瞼を上げた。

「ありがとう、葵。……弟の気持ちを知ることが出来て、わたしは少し安心したよ」

 弟を傷付ける必要なんてないんだよね。そう言って、弱く微笑んだ。


 それからしばらくして、泥やほこりを全身に被った白兎が駆け込んで来た。そして、千歳を見た途端に声を張り上げる。

「千歳、怪我したって聞いたぞ!」

「……何処で仕入れたんだよ、その話」

「お前を襲ったやつらからだよ」

「誰か、わかったの?」

 千歳の腕の布を新しいものに変えていた葵が、緊張した面持ちで白兎に問う。

 現在、草壁の宮には三人しかいない。草壁と兼良は勤めの関係で外出中だ。

「ああ、そのためにここを離れてたんだからな」

「話す前に、水浴びて来い。そのなりでいられたら汚れる」

 身を乗り出した白兎を、千歳はすげなくあしらった。白兎は何処に潜んでいたのか、泥や砂、そしてほこりなどを体中にくっつけていたのだ。

 千歳が一睨みすると、白兎は後頭部を掻いて「すまない」と苦笑いをした。葵が白兎に布を一枚手渡すと、彼は素直に一度外に出て行った。

「何処まで行ってたんだろう、白兎」

「知らないけど……。あいつなりに頑張ったんだろうな」

 白兎を突き放した千歳だが、彼を見送る目は優しい。

 少しして、さっぱりとした顔の白兎が戻ってきた。前髪から水滴が滴り、小さな染みを地面に作る。

「お待たせ。皇子様たちはまだか?」

「ああ、もう少しで帰って来られるだろ」

 用意していた白湯を白兎に渡し、千歳が応じた。

 白兎はどっかと床に胡坐をかくと、白湯を一気に飲み干す。それから、器を置くと周囲を警戒した。

 きょろきょろと見回し、更に気配を探る。それでも引っかかるものはなかったのか、目の前の二人を手招く。

「何だよ?」

「どうしたの、白兎?」

「先に、お前たちに話しておく」

 身を乗り出して近付いた二人に、白兎は小声でそう言った。そして、自分が何処に行っていたのかを簡単に説明する。

「俺は藤屋じゃなくて佐庭の邸に張り付いていたんだ。藤屋は前に調べたから、今回は佐庭にと思ってな。そうしたら……」

 白兎は見たのだ。佐庭の邸に入っていく、全身黒い男の姿を。




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