第三十五話 攻防
「皇子様、兼良さん……」
「見せて、千歳」
言葉を失う千歳と葵の傍に膝立ちになり、兼良は千歳の腕に触れた。痛みに顔を歪めた千歳だが、素直に傷口を晒した。
その際、千歳は傷口を縛った布を解く。それに気付いた兼良は、じっとそれを見ていた。
「これ、葵の衣の生地だね。ありがとう、葵。きみの判断は間違っていないよ」
「よかった、です」
兼良に礼を言われ、葵はほっと胸を撫で下ろす。しかし、まだ何も終わっていない。
千歳を伴い、兼良は別室に移動する。そちらには薬師に貰った薬などが保管されているのだ。
「葵、きみが知っていることだけでいい。わたしに教えてくれないかな」
「―――はい」
草壁の問いに、葵は頷いた。
「女官長のお使いを済ませてここへ戻ってきた時、血のにおいがしました。それで、走ってきたら、千歳が……っ」
「……成る程。では、何か気付いたことはある?」
「気付いたこと、ですか」
「そう、何でも良い。何か落ちていたとか、人とあったとか」
冷静な草壁に尋ねられ、葵は徐々に落ち着きを取り戻す。そしてふと、思い出したことを口にした。
「そういえば、戻る途中で黒い衣を着た男の人とすれ違いました」
「風体を覚えている?」
「ええと」
すれ違ったのは、一瞬の出来事だった。葵は記憶をひっくり返し、男に関するものを取り出していく。
「……黒髪。前髪は長くて、面差しは見えませんでした。黒と紺の衣。不気味な程、静かな気配」
「黒髪の男、か。誰の差し金かな」
ふむ、と顎に指を当てた草壁が考えに落ちる。それを間近で見ながら、葵はハラハラと千歳たちが向かった奥の部屋を見詰めていた。
しばらくして、千歳が兼良に伴われて部屋を出てくる。腕には白い布が新たに巻かれ、葵の衣の端は装飾のように彼の二の腕に結ばれていた。
「ちょっ、それ綺麗じゃないから」
千歳の腕から布を取ろうと葵は手を伸ばすが、彼は葵の手を止めて微笑む。
「気にするな。お守りみたいなもんだから」
「気にするよ!」
カッと頬に熱が集まるのを自覚しながら、葵は力では敵わないと千歳を睨んだ。それすら千歳は笑みで応じて、葵には余裕があるように見えた。
二人を微笑ましく思いながらも、草壁はぐるりと部屋の中を見回した。調度品の一部が倒れ、ものによっては割れている。それほど物に執着のない草壁だが、理不尽に壊された物を作った誰かに申し訳なくなった。
更に室内には血飛沫が散り、戦いの激しさを物語る。その飛沫を綺麗な布で拭き浄める兼良を横目に、草壁は千歳に目を移した。
「千歳、何があったんだい?」
「はい」
千歳と草壁は座し、葵は兼良を手伝う。壁や床を拭きながらも、葵と兼良の耳ははしっかりと二人の声が届いている。
白湯を一口飲み、千歳は口を開いた。
「おれは皇子様たちを見送った後、部屋を片付けていました。しばらくして、枝を踏むような音がしたんです」
誰か帰ってきたのかと思った。だから、ただ「お帰りなさい」と言いながら部屋を出ようとして、異変に気付いた。
「……っ」
千歳はその場を飛び退き、部屋の奥へと移動した。そこで、息を殺す。
すると、髪も衣も黒い男が入ってきたのだ。彼はきょろきょろと部屋を見渡すと、何かを探すような行動を取った。
壺や甕の中を覗き、
(何をしているんだ?)
男から死角になる場所で息を潜めていた千歳は、誤って膝を壁にぶつけてしまう。
(しまった!)
痛みよりも、音をたてたことによって見付かったことの方が重要だ。早々に息を殺したが、こちらへ向かってくる足音が聞こえる。
「……誰か、居るのか」
「……」
低く、かすれたような声が問う。しかし、千歳も簡単に応じない。得物の柄に手を置き、いつでも飛び出せるよう片足を引いた。
正体不明の相手も、それ以上口を開くことはない。ただ、
胸の奥が激しく鼓動し、千歳は唾を呑み込んだ。ずっと喉がカラカラに渇いているが、それを落ち着かせる術などない。
千歳の隠れる壁のすぐ裏に、気配が立つ。すぐそこに何者かがいる。
どちらが先に仕掛けるか、その時の測り合いだ。
おそらく向こうもこちらに気付いて、いつでも戦える姿勢だろう。千歳は心の中で五つ数え、一を唱えた瞬間に飛び出した。
「───!」
「ああぁっ!」
目の前に、黒髪の男がいる。彼の手には鋭い剣があって、叫びと共に振り下ろした千歳の剣を弾き返した。
「ちぃっ」
千歳は一旦退くと、再び剣を振り上げる。その時、相手が無言で懐に飛び込んできた。
危うく胸元を斬られかけ、千歳は冷や汗を感じる。跳びすがり、再び剣を構えた。
浅い息を吐き、吸う。千歳は険しい眉間のまま、誰何した。
「お前は、誰だ。何のためにここに入り込んだ?」
「……」
「ここは、畏れ多くも草壁皇子様のお部屋だ。……許しを得た者以外、入ることは許されないはずだが」
「……」
あくまで
「……私は、契約を守る者」
「契約 、だと?」
「私は、過去と今の繋がりを断つ者。……
「なっ───」
静かな殺意が沸き立ち、千歳を襲う。剣が振るわれ、その素早さに千歳は防戦一方となった。
右、左。上段、横凪ぎ。突き、そして再び上段。
一閃一閃が千歳の命を削らんとするものであり、千歳は言い知れぬ恐怖に身をすくませた。
「くっ」
腕から血が舞い、頬を熱が伝う。千歳は両足を叱咤し、何度目かわからない剣撃を弾き返した。
「!」
その一閃が相手の腹を薄く裂き、驚いたのか一瞬の隙を作る。
(今だ!)
千歳の剣が男の服を裂く。胸元の肌が一部裸出し、男は身を守ろうと一度退いた。
「……」
「……」
荒い息を吐きながら、両者が睨み合う。
何かのきっかけがあれば切れる緊張の糸は、新たな人物の気配によって変化した。誰かの走る足音を聞き、千歳と向かい合っていた男が踵を返す。
「待てっ」
手を伸ばして追おうとした千歳だが、最後に迫った刃を躱すことが出来ずに深傷を負う。ボタボタと落ちる腕からの流血を左手で押さえ、千歳は男を見送ることしか出来なかった。
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