第十六話 夢にまで見た
葵はふらりと立ち上がり、千歳のもとへと歩いて行く。本来、高貴な身分の人の前でそんな行為をするのはご法度なのだろうが、草壁を始めとして、誰も異を唱えなかった。千歳の前に立ち、葵は彼の顔をじっと見つめる。
記憶にあるよりも背は高くなり、顔つきも変わった。声も低いが、あの頃の面影は多分に残っている。驚いた時、目を見開いてしまう癖はそのままだ。
「どうして、ここに……?」
呆然と呟く千歳の言葉に、葵は噛みつくように言い返した。千歳の服の胸元を掴み、叫ぶ。
「『どうして』……? 千歳、あなた何年こっちが心配したと思ってるの? 梓さんが、梓さんだけが戻って来て、一太さんは亡くなってて、千歳は行方不明。……わたしがどれだけ絶望して、心配して、どうしたらいいかわからなくなっ……!」
「ごめん」
葵の言葉を遮って、千歳が謝罪の言葉を口にする。それと同時に葵の体は包み込まれ、自分を包み込んだのが千歳の体だと気付くまでに時間がかかった。
「えっ。あ、ち……ちと、せ」
「ごめん。心配かけて、ごめん。必ず帰るって言ったのに、探しに来させて、ごめん。……ごめんな、葵。来てくれて、ありがとう」
「わ、わたしも」
ぎゅっと抱き締めてくれる千歳の腕と体温が、凍えた葵の心を温めて、溶かしていく。泣かないと決めていたはずなのに、意志に反して体は正直だった。
ぼろぼろと止めることも出来ない涙が頬を伝い、葵の服を濡らす。更に千歳のものまで濡らしていくが、そんなことに構っている余裕などない。
ただただ、千歳を、彼が傍にいるのだという実感を感じていたかった。
「わたしも、会えて、ほんとに、嬉しい……。生きて、て、くれてありがとうっ」
「―――ああ」
わんわんと子どものように泣きじゃくる葵の頭を撫でながら、千歳は愛しげに彼女を見つめていた。その手付きは、幼い頃に泣き虫だった葵を慰める時のものと少しも変わらない。
二人の邪魔をしてはいけないと口を閉ざしていた草壁たちは、顔を見合わせて微笑む。彼らにとっても、この再会は願っていたことだったからだ。
ようやく葵が落ち着いた頃を見計らい、草壁が二人に声をかける。
「千歳、葵。積もる話もあるだろうから、奥の部屋を使ってくれて構わないよ。千歳の仕事も、今日は休んでくれていい」
「え、でも」
躊躇する千歳に、草壁は反論を許さないと
「千歳。……何年も音沙汰のなかった人だ。葵のことも考えてあげて欲しい。それにきみも仕事に戻ったところで、心ここにあらずだろうしね」
「う……」
その通りだと思い当たり、千歳はこくんと頷いた。しかしその前にと、草壁たちに終えてきた仕事の報告だけはしていくことにする。
「白兎、葵を奥に連れて行ってやってくれないか?」
「わかった。……行くぞ、葵」
「う、うん」
目を真っ赤に腫らした葵を連れ、白兎が邸の奥へと消える。それを確かめた後、千歳は涙が浮かんでいた目を手の甲で拭い、表情を改めた。
「皇子様、兼良様。先に、ご報告したきことがございます」
改めて臣下の礼を取る千歳に、草壁と兼良は顔を見合わせた。千歳を傍に寄せ、何があったのかと尋ねる。
「千歳、きみがそれだけ泥だらけになっていることと、今回のこととの関連はあるんだね?」
「はい。……あ、汚れたまま葵に触れたのか、おれ」
はたと思い付いたことを口に出してしまい、千歳は慌てて口をつぐんだ。しかしその呟きは上司たる二人の耳にきちんと届いていたらしい。
ふふっ、と口元を袖で隠しながらも笑いを堪え切れない草壁が、肩を震わせ後ろを向いてしまった兼良の背を叩く。
「全く、きみの天然は前触れもなく来るから面白いよ」
「す、すみませ……」
思わず羞恥に顔を染める千歳の頭にぽんっと手を置きしゃがんだ草壁は、彼に続きを促した。
「かしこまる必要はないよ、千歳。……では、報告を続けてくれないか?」
「ここで、しばらく待っていろ」
「わ、わかった。ありがとね、白兎」
「またあとでな」
白兎が姿を消し、葵は一人取り残された。
部屋には、高価そうな調度品が品よく並んでいる。とはいえ、無駄なものは何もない。
いつの間にか天の日は真上に来ていて、葵はそれらをぼおっと見つめることしか出来ないでいた。座り込んで、壁に背中を預けて、どれくらいの時が過ぎただろうか。
かたり。物音を聞きつけて葵が振り返ると、そこには息を弾ませた千歳が立っていた。服を着替える時間も惜しかったのか、薄汚れたそのままだ。
「千歳」
立ち上がりかけた葵を、千歳は無言で抱き締めた。咄嗟のことで、葵は再び膝を床につく。
「ちと、せ?」
「―――よかった。葵、いた」
幻じゃなかった。安堵の息を吐きながら、千歳は葵を解放する。その声は多少うわずっていたのだが、至近距離で見つめられ、葵の頭の中は真っ白でそんなことには気付かない。
「え……あ、ち、とせ」
「ごめん。また何やってんだろうな」
ぐずっと鼻をすすり、千歳は身を引いた。それから手を伸ばし、葵の頬に触れる。
「本当に、葵だ。よくここまでたどり着けたな」
「うん。あのね、一人じゃ出来なかった。送り出してもらって、助けてもらって、引き寄せてもらったんだ」
葵は、都にやって来るまでたどってきた道のりを千歳に話した。
兄・藤と朱華の婚姻について話すと、千歳は目を丸くした。更に父・松葉や千歳の両親に見送られたこと、土蜘蛛と呼ばれる人々の村で黒羽と八咫という姉弟にお世話になったことを話した。それらを頷きながら千歳は聞き、八咫と会ってみたいと口にした。
「きっと、八咫も喜ぶよ」
「うん。……でも、ちょっと悔しいかも」
「何が?」
「なんでもない」
首を傾げた葵だが、それ以上話そうとしない千歳に何も言わなかった。
「……おれも、葵に話さなきゃいけないことがたくさんある」
しばらくの沈黙を経て、千歳が口を開いた。
二人は肩を寄せ合い、壁に背中を預けている。肩を通して互いの体温が伝わり合う。
「うん。聞かせて」
「……おれは梓さんと別れた後、数日かけて都にたどり着いたんだ。その頃にはもう空腹と疲労で一歩も動けなくて、行き倒れた」
「え……」
「その時、偶然通りかかった皇子様と兼良様に助けて頂いたんだ」
草壁と兼良は千歳を邸に連れ帰り、目を覚ました後も世話をしてくれた。怪我をしていた千歳の手当てもして、何故ここに来たのかと尋ねた。
「おれは、『幼馴染との約束を果すためです』と答えた。すると皇子様は、都と宮のことを詳しく教えて下さって、おれはこの場所に興味がわいた。そして、早く葵を連れて来てやりたいって思ったんだ」
「……でも、帰って来なかったよね」
沈んだ声色の葵に、千歳は声を詰まらせる。それでも弁解のしようもなく、頷くことしか出来なかった。
「それにも理由がある。……おれが怪我も治って村に戻るための支度をしていた丁度その時、皇子様が倒れたんだ」
原因は、食事に盛られていた毒だった。
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