第十五話 草壁皇子

 葵たち三人はあばら屋を出て、都の中心部へと向かった。

 まだ朝早いが、市は賑やかで、多くの人々が往来している。しかし完全な都が建設されるのは、藤原京まで待たなくてはならない。現在葵たちがいるのは、飛鳥浄御原宮を中心として発展した大きな町の一角に過ぎないのだ。

 賑やかな場所を通り抜けると、その先は貴族の邸が並ぶ区域だ。昨日葵が迷い込んだ場所でもある。

 静かで落ち着いた雰囲気で占められているが、それだけが本質ではないと白兎が呟く。

「俺のような下賤は、奴らからすればいないのと同じことだ。見ろ、あからさまにこっちを無視しやがる」

 白兎が睨みつける先には、文官の服を身に着けた壮年の男がいた。兼良に気付き、彼のことだけを見て会釈する。兼良もそれに応じたが、目は全く笑っていない。

 ギッと白兎が男を睨むが、彼はそれに気付いていないのか全く見ようともしなかった。その場を通り過ぎて誰もいなくなったところを見計らい、兼良が白兎の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「白兎、彼らを評したところで疲れるだけだ。やめておいた方が賢明だよ」

「だけどっ……」

「それに、皇子様は白兎のそんな顔は見たがらない」

「……はい」

 草壁皇子を思い出したのか、白兎が「仕方ないな」という顔で微笑む。

「ねえ白兎、皇子様ってどんな人なの?」

 好奇心に駆られ、葵は白兎に尋ねてみた。気が弱く面白い、という評は聞いたが、それ以上の人となりを知りたい。目を輝かせる葵に、白兎は顎に指をあてて呻った。

「皇子様、か。……引っ込み思案でいっつもおどおどしていて、こっちがはらはらする。体が弱くて虫にも弱い。文字を追うのが好きで、引き籠ってることが多いかな」

「……な、なんかいい所がないように聞こえるんですけど」

 バッサリと切り裂くような評価に、葵の顔は引きつる。白兎と葵の話を後ろで聞きながら、兼良はにこにことして口を挟まない。

「でもな」

 白兎の目が急に優しくなった。

「俺みたいなのにも、優しいんだ。貴族はこの国の雲上人。ほぼ全てが俺たちをいない者として扱い、鬼やあやかし同等に扱う。なのにあの方は、俺と初めて会った時もその手が汚れるのを厭わずに、手を握ってくれた。……決して驕らず、謙虚。だけど、その心は堅固で温かい」

「……早く、会ってみたいな。皇子様に」

 白兎の評価に、葵は呟いた。そんな皇子なら、辺境の者である自分のこともきちんと見てくれるだろうという期待がある。

 きっと、そこには千歳もいるはずなのだから。


 しばらく進むと、白壁が立ち塞がった。

 他の邸も立派なものが多かったが、これは壁だけでも異質とわかる。美しい瓦屋根が並び、他を圧倒する。見上げるとその先に、綺麗な建物が幾つも見えた。

「こっちだ」

 そう言って二人を導いた兼良は、正門ではない小さな門を指し示した。

「ここは、皇子様に近い人物しか使うことを許されない開かずの門。さ、行こうか」

 ギギッと音をたてて開かれたその門を、白兎に続いて葵がくぐり抜ける。

 ようやく足を踏み入れた、夢見た都の真ん中。葵は高鳴る胸を押さえ、兼良と白兎に遅れないようにと小走りになった。

 幾つもの建物が立ち並び、それぞれが独立している。既に出仕した者も多く、何人もの人々が慌ただしく行き交っていた。武官・文官の朝服が居並び、時折女官の服が混じる。

 大殿おおどのだと示されたのは、朱塗りの柱が並ぶ建物だ。ここでは帝がまつりごとを行なっているらしい。

 兼良はその横を通り過ぎ、その脇にある建物に上がった。彼の後に続くべきか迷う葵の肩を、白兎が引いた。

「うわっ」

「俺らはこっちだ。ついて来てくれ」

 二人が向かったのは、いた場所から地続きになったその建物の庭だった。雑草以外は自然なまま伸び放題の木々が幅を利かせている。手入れされているのか、季節の花が開花の時期を待っていた。

「わあっ……」

 庭の穏やかな美しさに目を奪われる葵の隣で、白兎が彼女の腕を下に引く。

「ちょっと、何を」

「皇子様が来られる。形式だが、今だけ膝をつけ」

「う、うん」

 身分が高い者には、相応の礼を尽くさなくてはならない。葵もそれは理解しているため、白兎に倣って庭に膝をついた。丁度草が膝を受け止め、痛くない。

「……」

「……」

 しばらくの間、無言となる。爽やかな朝の風が駆け抜け、気持ちがいい。その風に身を任せたくなりながらぼおっとしていた葵の耳に、衣擦れの音が届く。

「白兎、よく来てくれたね。そちらの人も」

「草壁皇子様におかれましては……」

「いいよ、白兎。そんな口上、きみには似合わない」

「そうですね。では、お言葉に甘えて。……お元気そうで何よりです、皇子様」

「きみもね、白兎。そちらの女人も、顔を上げて?」

「は、はい」

 穏やかな秋風にも似た青年の声音。葵がおずおずと顔を上げると、建物の端に座り、こちらを見つめる男の姿があった。

 垂れ気味の目の色素は琥珀色をして、髪は少し色素の薄い黒色だ。兼良と同じような朝服だが、彼よりも濃い紫色をしている。裾は黒で染められ、高貴さをかもし出している。彼が草壁皇子だろう。

「あ、申し訳ない。女人を見つめるのは失礼だったね」

 許してほしい。そう言って頭を下げる草壁に、葵は焦った。

「そんなっ。頭を上げてください!」

「な? 腰の低い皇子様だろ」

 二人の会話を笑いながら見ていた白兎が、眉を動かしてみせた。少し困った顔だ。

「これでもいずれはこの国の帝となられる予定の方だ。くくっ、全く見えないけどな」

「白兎」

 ふざけ気味の白兎を静かに注意し、兼良が草壁に葵を紹介する。

「僕も昨日初めて会いましたが、彼女は葵。遥々北の村からこの宮へとやって来たそうです」

「あっ……葵です。お目にかかれて嬉しく思います」

「わたしも嬉しいよ、葵。きみのことは、少しだけ兼良から聞いている。……千歳を探しに来たんだと」

「はい。千歳は……千歳は、ここにいるんですか!?」

 縋りつくように尋ねる葵に、草壁はしっかりと頷いてみせた。葵を安心させようとしてか、にっこりと微笑む。草壁は微笑むと、より優しい印象になった。

「いる。わたしのもとで元気でいるよ。今日にも戻って来るはずだけど……」

「皇子様」

 その時、風が駆け抜けた。春を待つ、待ち焦がれる風。

 知っているよりも低い声。近付く足音。気配。息遣い。それら全てが、葵の体を駆け抜ける。

 暴れ回る胸を背子からぎぬの上から手で押さえつけ、葵は自分の頬が真っ赤に染まるのを感じた。白兎と葵と同じように庭に入って来た人物を見て、草壁が笑う。

「お帰り、千歳」

「ちと、せ……?」

 葵の小さな呟きは、妙なほどに響いた。そのかすれた声は、静かに千歳の頭へと沁み込む。

「嘘、だろ。葵、か……?」

 皇子への挨拶を述べようとした千歳は、そこに葵がいることに気付き、硬直した。

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