第7話 蟲払(後)

 網のようにトゥトゥを覆う、その寄生足を手繰る。

 一本がしゅっと水を裂いて伸び、クロシュの肩を切り裂いていった。

 潮に浸された傷口から激痛が走る。

 もう一本がクロシュの足に絡みついた。

「いやだっ」

 クロシュの言葉は泡になって口中から逃げていく。

 足をすさまじい力で後ろに引かれる。

 ばごっ、と鈍い衝撃。

 背中から珊瑚礁に打ち付けられ、珊瑚もろとも体が砕けてしまいそうに痛かった。

 寄生蟲は龍の体から養分を得るが、龍がいなければセムタムも食う。

 だがセムタムには寄生できないから殺してから食うのだ、と師匠であるヌーナが言っていたのが、ここにきて恐怖として実感されてきた。

 この蟲は、今まで扱ってきた蟲とは違う。

 トゥトゥを殺そうとしている。

 まずは息を吸って、それかからまた挑む、何度でも、絶対に諦めてたまるものか。

 クロシュが浮上しようとしたその足を、まだ寄生足が掴んでいた。

 少しだけ浮いたところを、希望を打ち砕くような絶妙な塩梅で海底に引きずり込まれる。

 息が続かない。

 クロシュはもがく。

 ふっと海底の砂が揺らいだ。

 それは影だったかもしれないし、水流そのものだったかもしれないし、酸欠のクロシュが見た幻だったのかもしれない。

 だが、何かがあった。

 ついっ、と寄生足が興味を無くしたようにクロシュから離れる。

 その時、猛然とラランセラの頭が海を割りトゥトゥを締め上げる寄生蟲にかじりついた。

 寄生蟲は慌てふためいてトゥトゥを放し、自分を噛み割らんと大口を開けた海龍の歯茎に足を突き立てる。

 クロシュは一旦浮上してから再度潜り、水底に沈みそうになっているトゥトゥを救い上げて海面に押し出した。

 続いてクロシュも浮上すると、そこには口から血を流して奮戦するラランセラがいる。

 海が赤い。

 見たことも無いような鬼気迫る表情で、ラランセラは寄生蟲の親玉を離すまいと牙を立てていた。

「ドック、固い、これ、ぼくの歯、無理!」

「ラランセラこっちよ。準備が出来た!」

 浜辺でドクターがブラシを片手に大きく手を振る。

「分かった。離さない、頑張るうううううう!」

 その唸り声にクロシュは幼いとばかり思っていた海龍の底力を知った。

 海龍は寄生蟲と組み合った頭を反転する。

「ババア、おいくそババア」

 げふっ、とトゥトゥが水を吐いた。

「大丈夫かい」

「俺の銛は」

「手に持ってる。あんた、ちゃんと手に持ってるよ」

 訝し気な表情でトゥトゥ自分の右腕を見、それから照れたように顔を上げた。

「ババアより先にぼけたかも」

「そうじゃない、死ぬまで戦う気だったんだろ」

「おう。まあ、そんなところだ」

 クロシュが顎をしゃくると、トゥトゥは浅瀬に飛び込んだ。

 ぐんぐんと速度を上げてドクターのいる浜辺へと泳いでいく。

 見届けるために、クロシュは海面に顔を出したまま、海底を蹴って歩いた。

 ドクターが、浜辺に顔を突き出したラランセラの口に取りついた寄生蟲にブラシを振り上げる。

 外気にさらされた皮膚に薬剤が染み込むと、蟲はけたたましく喚いて墨をまき散らし、ぼたりと砂浜に落ちた。

 クロシュは、感動している。

 あの子は頭がいい。

 とてもいい機転の回し方だ。

 クロシュがやっていることの「意味」を、きちんと考えながら作業していたのだ。

 確実に止めを刺すためには海の上ではいけない。

 逃げられないように陸に上げてしまえば、何とかできるかもしれない。

 そう理解してやっているのだ思うと、わずか半日とはいえ師匠をしたクロシュはとても嬉しくなる。

 目論み通り海の中で生きる蟲は、砂浜では本領を発揮できずにいる。

 太陽に熱せられた砂の上で醜悪な寄生蟲は悶えていた。

 寄生足がラランセラに掴みかかろうとして伸びたが、海龍が顎をひょいと上げたので空ぶって、力なく浜辺に落ちる。

 蟲にしてみれば、こんなにも暑く、水から遠い環境は初めてだったに違いない。

 トゥトゥが砂浜に駆け込んだ。

 危機を感じた蟲は再度墨を吐きつけたが、トゥトゥはそれを予測して機敏に避ける。

 おかえしに満身の力を込めて振り抜いた銛は、寄生蟲の胴体を粉砕し、足の付け根の固い結合部をばきばきと押し割って、太い寄生足をぶしゅりと貫いて、最後は砂浜に突き立った。

 寄生虫の断末魔が風に乗って長々と響く。

 耳を引っ掻くようなその声がぷつりと途絶えたとき、クロシュは砂浜に上がり、そして三人と一匹で歓声を上げた。

「よくやったね!」

 クロシュが腕を広げると、トゥトゥは後ずさって、

「ババアに抱き着く趣味は無いって。……お、おいおいドクやめろよ、押すな!」

「いいじゃない勝利の抱擁よ。あ、ラランセラにはあの薬を塗ればいいんですよね。私がやりますから、クロシュさん。どうぞトゥトゥです。ほらっ」

 その背中をぐいぐいと押すドクターが、クロシュを見てにっこりと笑う。

 どうやら彼女には逆らえないらしきトゥトゥは、嫌々の体でクロシュの前にやってきて、その腕を受け入れた。

 久々に抱きしめる愛息の体はしなやかな肉食獣にも似て、潮の良い香りがする。

 体のあちこちに彫り込まれた刺青オルフの群れが、珍しいこともあるもんだ、と驚いてクロシュを見つめているようだった。

「気は済んだかババア」

「でっかくなっちゃってまあ」

「ふん」

「ずっと怖かったんだ。あんたのことが風の噂で届くたびに、なんか悪いことが起こるんじゃないかって。だけど分かったよ。あんたは、立派な成人アカトだね」

「そうかい。げっ、ババアが何で泣くんだよ」

 歯茎に薬を塗ってもらいながらドクターにでろんでろんに甘えているラランセラが、

「トゥトゥ、泣かせた!」

 と口を挟んだ。

 そしてひょいとブラシを押しのけて、ドクターに頬ずりする。

「静かにするのよラランセラ。親子の再会だもの」

「うー、ふーん、ドックが言うならね。あっ、そこ気持ちいっ」

 上唇を撫でられて目をふんにゃりと三日月の形に曲げるラランセラ。

「おおいドク。そいつ勘違いするからやめた方が良いぜ。龍はな、勘違いしやすいんだ。あと惚れっぽいし。百年くらい付きまとわれても知らねえからな」

「大丈夫。ぼくは、よく考える龍になるから、絶対に、ドックを困らせない。何せ、トゥトゥ、教えてくれるでしょ、ドックがどこを、触ると――」

「――だからやめろっつってんだろうがボケナス!」

 ボケナスと言われたラランセラは心外の表情で首を傾げる。

 その瞳にめらりと、いっちょ前の嫉妬の炎が見えたのはクロシュの気のせいだっただろうか。

「ふん、トゥトゥ、きみはドックを、独り占めしたいんだろ」

「そういう問題じゃねえ」

「ぼくは、知ってるよ。嫉妬っていうのはね、あれはね、お父神様とうさまが、島にいたね、すごく綺麗な龍にね、浮気をしてね」

 クロシュは泡を食ってドクターに目配せした。

 この話はやめた方が良い、という合図。

 ドクターは目をぱちくりさせ、しかしクロシュの必死の念が届いたのだろう、何気ない様子でラランセラの下顎に手をやって、

「それよりもお腹空かない? ひと運動どころじゃなかったでしょ」

 と会話をぶった切った。

 海龍神アラコファルが美しい海龍に浮気をして、奥方から怒られたことがある。

 その相手とは何を隠そうヌーナ。

 つまりトゥトゥの育て親にしてクロシュの師匠なのだった。

「そう言うだろうなと思って鍋をかけといた」

 トゥトゥも気を回してそういうと、ラランセラは嫉妬の話などすっかり忘れてしまって、

「食べたい!」

 目を輝かせてそう吠えた。

 ににっ、と笑った拍子に歯茎から薬液が飛んできて、トゥトゥとクロシュはスパイシーに仕上がってしまう。

「お前も食うのかよ」

「くう!」

「わかったわかった。おまえも良く頑張ったからな、認めてやるよ。だけど追加で作るとなりゃあ、ほれ、おまえもラグーンで魚を獲る手伝いをしろ」

「りょかい。トゥトゥはね、料理が上手いって、ドックが褒めてたよ」

「そうかい」

「お話も上手って」

「あっそう。俺に全部やらせる気だな。いいけどさ」

 クロシュが手を離すと、じゃあ行って来るわ、とトゥトゥは言った。

 その声に十何年かの時を一気に越えた親しみを感じる。

 ズボンのポケットに手を突っ込んでぶらぶらと歩きだしたトゥトゥの横を、すっかり打ち解けたラランセラが手足と尾っぽを必死に動かしてついて行った。

 あんまり掻き回すな、泥が立って魚が逃げるだろ、と怒られている。

「ねえ、そう言えばクロシュさん、私、思い出したことがあって」

「うん?」

「トゥトゥから相談されたことがあるんです。親と同じような存在の女性に贈り物をするなら何がいいかって。私は、あなたが顔を見せてあげるのがいちばんじゃないの、って答えたんです。ヌーナさんのことだと思ってたんですけど――それは」

 それは、クロシュ。

 クロシュは、その言葉を噛みしめて目を閉じた。

 まぶたの裏に風が吹いている。

 それは緑色の風だった。

 ラランセラの背から吹き下ろし、トゥトゥの体を包み込み、ドクターの頭を撫でて、クロシュを両手で抱きしめる。

 木々の緑、ラグーンの緑、セムタムの心の中の平穏の緑、すべてを吹き抜ける緑色の風。

 風はクロシュの中にあるわだかまりを浚って、その先へと運んで行く。

「あたしは幸せ者だね、ドクター」

「トゥトゥも幸せだと思いますよ、クロシュさん」

 応えるドクターの声には、くすぐったくなるような満面の笑みの音が含まれていた。


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