第5話 トゥトゥの流儀

 ぐるりと島を回り込み、砂浜を目指してカヌーは波の上を走る。

 その後ろにラランセラがついて来ていた。

「間を開けなきゃダメだよラランセラ」

「あーいー」

「分かってる?」

 クロシュが問いかけても、どこかラランセラは上の空である。

 遠いところから別の海龍の鳴き声が聞こえ、ラランセラは顔を上げて鳴き返した。

 セムタム語を操るほかに、彼らは彼らなりのコミュニケーション能力を備えている。

「ラランセラ?」

「ふうん、言ってやったの。これからぼく、トゥトゥと対決するんだって。そしたら、勇気があるねって、びっくりしてた」

「またそういう誤解を招きそうなことを」

 カヌーは桟橋に止まらずラグーンを越える。

 砂浜には火が熾っていて、その周りをトゥトゥがぶらぶら歩いているのが見えた。

 ラランセラに「おいで」というつもりでクロシュは振り返る。

 それで、こうべを巡らせた目の前に緑色の壁がそそり立っていたので度肝を抜かれた。

 壁、すなわち腹である。

 ラランセラの、海龍の、カヌーよりも大きく力加減を知らない生き物の腹。

 クロシュは息を飲んだ。

 あんなに危ないから気をつけろと言い聞かせたのに!

 カヌーが着水したその直後、ラランセラが珊瑚礁にお腹をこすりながら浅瀬に飛び込んだ。

 どぼん、という盛大な音と水しぶき、お腹を打ったと泣きごとを言うラランセラ。

 それらを追い抜いて泥色の波が海底を走って行き、ひと呼吸遅れて海面の波がクロシュのカヌーを突き飛ばした。

「まずい――」

 とクロシュが誰に聞かせるでもなく宙に言葉を放った時、カヌーはその骨の持ち主の魂が束の間戻ってきたかのように、獲物を目掛けて急降下する飛龍の速度で突進を開始。

 止めようとする努力をする間も与えられずカヌーは舳先から浅瀬にめり込んで、そこを軸に跳ね上がった。

 宙に投げ出されたクロシュの目に海が映り、空が映り、白い雲が回り――そして、

「重っ!」

 と言ったトゥトゥの腕の中で砂浜を見る。

「くそババア、重たい」

「トゥトゥ、そんなこと言っちゃ駄目だったら」

 トゥトゥを挟んで反対側から、ドクターの声がした。

「あらまあ何てことだい」

 右肩にクロシュ、左肩にドクターを軽々と担いだトゥトゥが、ふたりを砂浜に下ろす。

「ありがとうねトゥトゥ。おかげで助かったよ」

 とクロシュが言うと、トゥトゥは全然たいしたことないというように、鼻を鳴らした。

 カヌーから振り飛ばされたふたりをほとんど同時に空中で掴まえる。

 その時、どんな素早さでこの巨躯が動いたことだろうか。

 クロシュは愛息も同様のこのセムタムの青年が持つ人並外れた膂力に、改めて驚いた。

 幾多の優れた戦士たち、幾多の強大な龍たちの刀槍歯牙の間を、五体満足でくぐり抜けてきただけのことはある。

「んで、何だババア。あの海龍を殺んのか? 今にも死にそうなツラしてたんだけどよ」

 はたと思い出して浅瀬を見ると、ラランセラは悄然と首を垂れて頭を浅瀬に突っ込み、海中で窒息死をもくろむ海龍という珍妙な絵面を創出していたのだった。

 その目の前の浅瀬ではカヌーが斜めに砂に突き刺さり、波間には船内から弾き飛ばされた積荷、すなわちクロシュとドクターが半日がかりで集めた寄生蟲の胴体が墨を垂れ流しながら浮かんでいる。

 損失のことは考えたくない。

「ラランセラ」

 クロシュが呼びかけると、海龍はびくりと体を震わせた。

「ラランセラ、あたしは怒ってないから。顔を上げな」

 恐る恐る、首を斜めにして頭を海面に持ち上げた海龍は、

「ごめん、なさい。カヌー、こわしちゃった?」

「さてね。でも怒ってないよラランセラ」

「クロシュ、あのう――」

「いいや俺は怒ってるね」

 ラランセラはもう一度、海中に頭を突っ込む。

 止めようとするクロシュの手を引っぱたき、トゥトゥはずんずんと浅瀬を進んでいくと、ラランセラの頭を蹴飛ばした。

「この馬鹿。くそったれ海龍。てめえ何やったか分かってんのか。言ってみろ」

 それでもラランセラが無言で沈没していたので、トゥトゥは海龍の髭を掴んで、ちぎらんばかりに引っ張り上げる。

 痛みに堪らずラランセラは顔を上げた。

「ひ、ひ、いたい!」

 悲鳴を無視し、満身の力を込めてトゥトゥがさらに髭を引く。

 ぎょあっ、とラランセラは叫んだ。

 丸い目に粘性の涙が盛り上がってほとほとと垂れる。

「たすけて、たすけて」

 ラランセラ言うだけで、ぴくりともしない。

 巨体をくねらせればトゥトゥを弾き飛ばすことは容易だが、繊細な髭から走る痛みが海龍に「少しでも動けばもっと苦しいぞ」という脅迫を突き付けているのだった。

「ちょっとトゥトゥ、あなたやりすぎよ!」

 ドクターが波を蹴立てて駆け寄って行く。

 蛮行を諫めようとしたドクターを、トゥトゥはぴしゃりと跳ねのけた。

「駄目だ」

「どうして」

「こいつは、事の重大さを分かってねえからだよ」

「謝ってたじゃない」

 髭をぐいと引き寄せて、トゥトゥは繰り返した。

「ク、クロシュのカヌー、こわしちゃった」

「違う!」

 トゥトゥは海龍の鼻先に噛みつかんばかりに顔を近づけて怒鳴った。

 ラランセラは、きいっ、と甲高く情けない悲鳴を上げる。

 まるで逆じゃないかとクロシュは思った。

 なんでセムタムが龍を噛み殺そうとしてんのさ、と。

「くそババアのくそカヌーなんかどうでもいいんだ。違うんだよ。てめえはドクとババアを両方とも死なせるところだったんだぞ。分かってねえだろう」

「死なせ、死なせ、死なない、だよ?」

「死ぬんだよ馬鹿。いいか、てめえら龍と俺たちセムタムの体は全然違うんだ。あのまま頭から砂浜に落ちてみろ、首が折れてすぐに死ぬ」

「ほ、ほん、ほんとのこと言ってる?」

「ラランセラ、それはトゥトゥが正しいわ」

 ドクターにそう言われると、海龍は一声吼えて、しおしおと目を閉じた。

「俺はな」

 低い声でトゥトゥが続ける。

「龍のやつらが力加減を知らずに何かをしちまう、その結果セムタムが死ぬ、けどセムタムは仕方ないで終わらせちまう、そういうのが大嫌いなんだ。仕方なくねえだろ。話も通じる、心も通う、そういう相手なんだったら、何で言わねえんだよ。口はそのためにあるんじゃねえのか。違うのか」

 違わない、とクロシュは思う。

 それから、ああこの子はもうあたしの手なんてすっかり離れてしまった、とも思う。

 そう感じて、クロシュは浅瀬に並ぶトゥトゥとドクターの背中をひどく眩しいものとして見つめている。

「違わ、ない」

 ラランセラが言った。

 その声は震えて弱々しく、だが怯えとは違う別の響きがこもっている。

「クロシュ、ドック、ごめんなさい。トゥトゥも、ごめんなさい。ぼくねえ、トゥトゥ」

「あん?」

 どすの利いた声で言いながら、トゥトゥは髭を手離した。

 ラランセラはおっかなびっくり顔をトゥトゥに寄せて言う。

「ぼくトゥトゥのこと、こあい。でもトゥトゥ、こあいけど、こあいだけのと、違うね」

 ぷぴぷぴと海龍の鼻が鳴るたびに、トゥトゥの長い髪が揺れた。

「何だって?」

「こあいけど、痛い、苦しい、怒ってる、そういうの違うね。ぼくと話す、してくれる」

「そうだな」

「教えてくれる? いろいろと、お話してくれる? ぼくは知らないこと、沢山ある。セムタムのこと、ドックのこと、知りたい」

「待て。ドクのことはドクに聞けよ。俺に聞くなよ」

「でも、トゥトゥ、知ってるでしょ。ドクの好きなもの、食べ物」

「まあうん、どうかな」

 トゥトゥはちらりとドクターを見た。

 ドクターは肩をすくめる。

 その親密さが、クロシュにはまた眩しいものに映るのだった。

「あと、ぼくは喉の辺り気持ちいい、触られると、上から下まで、体、ぷるぷるしちゃう。ドックの、どの辺をいつも、トゥトゥは、さわ……」

「その話は無しだ!!!!!!」

 ラランセラがびくっとして顔を上げる。

 しかし口を閉じることなく続けた。

「ど、どう、トゥトゥは、恥ずかし?」

「うるせえぞ!!!!!!」

 うんうんと頷きながらドクターは呟く。

「そうなると龍の性感帯は喉? 個体によって違うのかな……」

「ドク! ふんわりと、今なんつったのかは分かったぞ!」

「余所者語なのに?」

「恥ずかしいことを言ったんだな!」

「別に恥ずかしくないわよ」

「そっその、男女の、アレだろ! 俺には分かったね!」

 クロシュは噴き出した。

 案外トゥトゥとラランセラは相性がいいのかもしれない。

 しかしまあ三人そろってお喋りなことだ。

 ドクターは相変わらず変な言葉を持ち出してくるし。

 クロシュは、ぱんぱん、と手を叩いた。

 二人のセムタムと一匹の龍が、同じ顔をしてクロシュを見る。

「お喋りはここまでだよ。ほら忘れてないだろうね、ラランセラ、あんたのケツの穴についた蟲を取らなきゃなんないんだからさ」

 ラランセラは飛び切り情けない顔をした。

「忘れてくれると、信じてた、のに!」

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