第2話 空を見上げる龍
カヌーに乗り、桟橋から逃げ出してしまった龍たちを探す。
島の裏までぐるっと回ったあたりで出目龍に追いつき、そのまま海の上で仕事を始めた。
出目龍以外の海龍は影も形もない。
「そうそう、その角度よ!」
「ふんぎい」
ドクターが片足を龍の背にかけ、もう片方をカヌーの船べりにかけて、頑固な寄生蟲と格闘している。
クロシュはその奮闘をカヌーの反対側の船べりに立って応援していた。
こうしてカヌーにかかる重さを分散するのである。
コツをつかむまで龍蟲払の仕事は本当に重労働だ。
寄生蟲の体は、ひし形の胴体と、そこからうじゃうじゃ伸びる足に分かれている。
胴体がおおよそ十五センチほど、寄生足を含めると二十センチを超えるサイズだ。
寄生蟲はまず龍の鱗の間をこじ開けて、そこから足を皮膚に沈ませて付着する。
やがて胴体は扁平に広がって宿主の鱗と同じ形状に変態し、海の中にいるあいだはよっぽど目を凝らさなければ鱗と見分けがつかなくなってしまう。
だが近づいて見れば、龍の体が不自然にぶくぶく膨らんでいるのが分かる。
宿主の体液を吸って育っていき、やがて脱離して卵をばらまく。
そして卵はまた別の海龍の皮膚に取りつき……その繰り返しだ。
龍蟲払は、肉に固くめり込んだ蟲を寄生足を残さずに引き抜かなくてはならない。
足が残ればそこから腐れて龍が病気になってしまう。
そのために使うのが、専用の「蟲挟み」だ。
蟲挟みを手足のように扱えてこそ一人前の龍蟲払いである。
「もうちょっと根本に当て変えて」
「この辺ですか」
「輪っかの形に溝があるところ、そこよ」
「千切れちゃいません?」
あっはっは、とクロシュは笑った。
怪訝な顔をしたドクターに、
「ドクターの細腕じゃあ千切れないわよ。大丈夫、大丈夫」
と言うと、ドクターはぎゅっと眉をひそめる。
なるほどあの子とは負けず嫌いな似た者同士ってことね、とクロシュは心の中でさらに破顔した。
根性があるのはいい。
「片手で鱗の根元を押してごらん。嫌がってもぞもぞするでしょう。そこに突っ込む! そう、上手!」
背中が反りかえるほどの力を込めたドクターの、その気合に引きずられた寄生蟲がすぽんと抜けた。
「わあーっ!」
バランスを崩してカヌーの底に落ちかけるドクター。
慌ててそれを支えるクロシュ。
ふたりの頭上を放物線を描いて飛んで行く寄生蟲が、馬鹿にしたように緑の墨をぶうーっと吐いて、波間に消える。
「怪我はない?」
「ありがとうございますごめんなさい。げほっ」
「ほらほら、海に入って洗ってきなさい」
ドクターもクロシュも寄生蟲が吹いた墨のせいで、頭の先からつま先まで濃い緑に染まってしまった。
まるで苔を背負って歩く島龍に弟子入りをしたみたいである。
白い骨色のカヌーには、船体を横断する緑色の線が新たな装飾として加わっていて、今も滴る墨で新たな模様が描かれつつあった。
「本当にごめんなさい」
「いいのいいの。誰でも最初は失敗するものさ。あたしだってそうだったよ」
寄生蟲の墨は鼻が曲がりそうな嫌な臭いがするし、近くにあると目がひりつく。
早く落とすにこしたことはなかった。
ドクターが海に飛び込み、ちょっと待っててねと出目龍に声をかけてクロシュも続く。
潜ったついでに龍の腹へと泳ぎよっていくと、今年は随分と蟲の量が多かった。
蟲の群生する辺りの鱗を撫でてやるとほろほろと薄皮がめくれて、その下から一層頑丈な、輝石のようにかっちりした緑の鱗が現れる。
しかし鱗はやや形が歪だった。
不快気に、風にあおられた林のように寄生蟲たちが身じろぎした。
その様は長年この蟲たちを見慣れた身でも怖気をふるうものだった。
クロシュは片っ端から力任せに引きちぎってやりたい衝動に駆られたが自制する。
それは龍の為にならない。
まだ息が続いたのでぐるりと腹回りを見ていく。
本当に蟲の量が多い。
クロシュは、嫌な感じがした。
どうやら出目龍は急速な成長を遂げているようだったが、しかし、蟲が多いのは龍が弱っている証でもある。
脱皮に反応して卵が孵り、その最中の柔らかい鱗を目掛けて幼蟲は足を撃ち込むという。
だが健康な皮膚と脂肪がその下にあれば、そう易々と足を潜り込ませることは出来ない。
しかも皮膚構造は脱皮のたびに強くなっていくはずなのだ。
蟲の量が前年より多いというのは、どうも嬉しくない。
カヌーの上に戻ると、ドクターはせっせと船体を磨いているところだった。
「クロシュさんすみません、スポンジお借りしちゃってます」
「素晴らしい。あんたは働き者だね。あたしは大好きよ、そういう子。でもいいよ、このカヌーは色鮮やかになるのも面白いからさ。ほら、ドクターの右足の辺りにある橙色の斑点は、去年のお手伝いさんがぶちまけた痕」
「ああ、本当」
「だから気にするこっちゃない。さあ、お客さんを先に綺麗にしたげよう。見ててごらん」
クロシュは蟲挟みを手に取ると、軽く助走をつけて龍の背にかけ上がる。
ドクターが口をあんぐりと開けて見ているのが面白い。
「乗れるんですね」
「こういう商売をしてると、龍も分かってくれるのさ」
貝の殻を開く要領で鱗を持ち上げ、ぐずぐずと身をよじった寄生蟲の胴と足の境を挟んだ。
クロシュには足がどんな角度で肉に食い込んでいるのか、掴めば分かる。
あとは寄生蟲の動きに合わせて挟みを動かして、ここぞというタイミングで一気に引き抜けばいい。
除去した後は蟲挟みにさらに力を込め、ばちんという感触がするまで緩めない。
弾けるような手ごたえは胴と足の境が折れたときのものだ。
そうするともう寄生蟲は逃げなくなる。
あまり刺激を与えないように、腰につけた魚籠にしまった。
「墨は洩れないんですか?」
「ああ。境目が折れると、墨を噴くための管が潰れちゃうんだよ。それでもこいつらはしばらく生きてるから、鮮度に関しては大丈夫。あとは時間を見てしめて、口を綴れば出来上がりだね。墨卸に引き取ってもらえる」
生まれたばかりの幼虫は透明な体だが、宿主に擬態するために、体内で宿主の鱗とそっくりな色の墨を作って全身に巡らせる。
セムタムはその墨を染料にするのだ。
量が取れるから、帆や船体に色鮮やかな装飾をするには欠かせない。
クロシュたち龍蟲払は墨を採取しては売って、生計を立てている。
龍は体の不快感から解放され、龍蟲払は墨の売り上げでお腹いっぱいになり、どちらにとっても損のない商売だ。
寄生蟲の側には不満があるかもしれないけれど、それまでに沢山の卵を海に放っただろうから、観念してもらおう。
「クロシュさん、私も再挑戦します」
ドクターが蟲挟みを構えて言った。
「よし。思いっきりやってあげな! でも怪我しちゃだめよ」
「はい!」
「あんたが怪我すると、トゥトゥが泣いちゃいそうだもの」
「ぶっ」
「何を噴き出してんの。そうでしょ?」
そんなことは無いと思いますけど、とドクターはぶつぶつ言った。
「ほらドクター、もう少し腰を入れて。そうそう、無心にやるのよ」
どれくらい寄生蟲と格闘していただろうか。
カヌーの船尾側の雨除け覆いを上げて日陰を作り、そこに寄生蟲を並べていたが、ふたりが仕留めたぶんで早くも満員御礼。
そろそろ墨卸に来てもらわなきゃあかなわないんだけど、とクロシュは思った。
寄生蟲に詰まった墨は、日光に当てすぎると劣化する。
作れる日陰の面積には限界があるから、蟲取り作業の開始に合わせて墨卸――墨を専門に扱う商人が買い取りに来ることになっていた。
手を差し上げて彼方を見渡す。
海の上には、まだどこにも帆の白は浮かんでいなかった。
桟橋から離れた場所で仕事をしているので、見つけられないのかもしれない。
「そろそろ休憩にしよっか」
「はあい。お腹空きました!」
「返事が良いわね。じゃ、お昼ご飯にしよう。あらなあにドクター、あなた私が目を離してる間にうーんと上手くなったじゃないの」
「クロシュさんの教え方が上手いからですよ」
背中側の仕上げに、薬剤を染み込ませた海綿ブラシで鱗の上から磨く。
足が食いこんでいた傷が癒えるまでの間くらいは、寄生蟲を避けるのに役に立つとされていた。
出目龍の背中側が終わったのをキリにして龍からカヌーに跳び下りると、それを合図に眠っていた出目龍が目を開けて、伸びをする。
「終わった?」
「半分ね。気持ちよかったでしょ」
「うん、ありがとう。ドックも、ありがとう」
出目龍の髭がしゅるりと伸びて、ドクターの頭をとんとんと優しく叩いた。
「ひゃあ」
「セムタム、みんなこうするね。良い子、良い子、でしょう?」
「あ、ありがとう。えっと……」
「この子の名前は出目」
すると、出目龍は急にむっとして、
「いやだね、クロシュ。ちゃんと、ドックには、名前を教えてよ」
「あらどうしたの? 初対面のセムタムにそんなこと」
「いいでしょ?」
「あなたがいいならいいけど。この子の名前はねドクター、ラランセラって言うんだ」
「ありがとう、ラランセラ。不思議なお名前ね。ララ(空)-ン(を)-セラ(見上げる)?」
「ぼくは、いつか空を飛びたいの。お父様に、そう言ったから」
「なるほど。でっかい夢ね」
出目龍ラランセラは髭を揺らして浮かれている。
どうやらこの不思議なドクターに興味津々の様子。
海龍はえてして人懐っこくおしゃべり好きだ。
適当に会話を打ち切らないと、時間の感覚が違うから一日中でも一週間でも話し続ける。
クロシュは釘を刺した。
「さてとラランセラ。お昼を食べたらお腹をやるからね。まだ寝に戻っちゃだめよ」
「うん。お昼ごはん、ぼくにもくれる?」
「海鳥のスープにふかし芋があるわ。好きでしょう」
「好き!」
「私も好きです」
挙手と同時にぐうとお腹を鳴らしたドクターに、クロシュは笑いをこらえられなかった。
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