血がにじむ眠気
河童
case 783~790
六時間目の授業は眠くて仕方ない。五時間目にあった体育の後の歴史教室は各々の眠気に包まれていた。
クマネズミは今日も得意げにオスマン帝国の話を始めたが、真剣に奴の話を聞いているのはサエちゃんぐらいで、他の連中はうとうとしている。それもそのはずで、クマネズミが前の授業の小テストを授業開始直後に終わらせると、その後の授業は奴がただただ自分の世界史の趣味を語るだけになるのだ。そのくせに、この前は着替えるのが面倒で下が体操服のまま授業を受けていた私に怒鳴ったのだ。人を注意する前にまず自分の話をどうにかしてほしい。
サエちゃん……前川紗江は真面目という言葉がよく似合う丸眼鏡の女の子で、模試には出ないであろうクマネズミのつまらない話をノートにとる変わり者だ。その生真面目さが災いしたのか、それとも引っ込み思案なのが悪いのか、クラスには友達がいない。体育のときはいつも一人だし、三つのクラスの人間がそれぞれ選択した科目に分かれて受けるこの選択地歴の授業でさえ親しい間柄の者がいるようには思えず、彼女の不器用さはさらに分かりやすいものに見えた。唯一の救いと言えば、隣にいるケイイチ君とさっきの小テストの時間に話す機会があることぐらいだろうか。小テストは隣に座っている人間が丸付けをすることになっている。
……ケイイチ君。バスケも勉強もできる彼だから狙っている女も多い。五月になっても私はまだほとんど話したことがなくて、彼がどんな人なのか気になっているのだ。それなのに、私の席はたった一人の最後列で隣がいないということから、私の丸付けの相手ときたら前に座っているミサと嬢の二人になっている。……まあ、いい奴らなんだけど相手がただの友達だと刺激もなくて……。
そんなことを考えていると、前の席の嬢がノートの切れ端をよこしてきた。紙切れには、
「ジャガイモはあれからどうなったの?」
と書かれている。
おそらく、さっきの体育から歴史教室に移動する間に話していたジャガイモ事件についてだろう。普段は誰も中を見ようとしない木製の落とし物ボックスの中にジャガイモが入っていて、誰も気づかないうちにその箱の中で新しい芽が生えていた話だ。ここに来る途中にその箱があるから、そういう話になったっけ。
「ミサが全部食べたらしいよ」って書いてみた。嬢は冗談が通じないところがあるから、面白い反応が見れそうだ。
嬢がミサの半径一メートルに近づかなくなってからちょうど一週間。五時間目の体育が終わると、私はいつもより少し早く着替えを済ませた。
「サエちゃんが着替えてたのは確かここら辺……」
体育が始まる前の着替えの時に彼女がどこで着替えているのかをチェックしていた。私は案外簡単に「前川」の名札が付いた制服を見つける。地味なバッグに入っていた。
私はそれを持って更衣室から出る。すぐにあの落とし物ボックスがあるので、周りに注意しながらそこにバッグごと入れてみた。蓋をするとやっぱり外からは確認できない。
少し移動して歴史教室の前で立っていると、ミサと嬢が来た。
「先に行ってたのかよ」
「二人がどこにいるかわかんなくてさ、先に行ってたのかなと思って」
「そう」
ミサは特に違和感を覚えてはいないようだ。
教室に入って間もなく、チャイムが鳴った。クマネズミが出席を取り始める。
「廣田、本田、前川……。あれ、前川はどうした?」
クマネズミが私たちのB組のほうを向く。
「さっきの体育はいましたよ……?」
クマネズミとよく話す嬢が答えた。他の人間もうなずく。
「そうか……保健室かな? 後で俺が確認を取る。分かった。じゃあえっと……九条、お前今日は前川の席で受けろ。小テストの解答は圭一とやれ。それで全員ペアが作れるはずだ。いいだろ、九条?」
「はーい」
ケイイチ君を名前で呼んだクマネズミはバスケ部の顧問をしていることをいまさら思い出しながら、私は教科書と筆記用具を持ってサエちゃんの席に座る。ちょっと前になったけどまあいいや。そういえば、サエちゃんは今どうしてるかな? そろそろ落とし物ボックスの中をのぞいたかな、まだかな? もしかして、泣いちゃったのかな?
ケイイチ君に近づくにはこの方法が手っ取り早かった。最後列で一人ぽつんと座っている私は、誰かの席が空くたびにクマネズミに「今日はその席で受けろ」とよく言わていた。もちろん小テストの解答を二人一組でさせたいからだ。となると、サエちゃんが授業を休んでくれると、私はケイイチ君の小テストを丸付けすることになる。
それで、どうやって休ませるかという話になるけど、体操服に着替えている間に彼女の制服を隠してしまうことを思いついた。サエちゃんは友達がいないからバッグは持ち出しやすいし、なにより彼女は制服がないと授業に出られない。この前私が体操服のまま授業を受けてクマネズミに怒鳴られたところを見ているのなら、真面目な彼女は教室には来られないだろう。普通だったら奴に事情を話したり、なにか機転を聞かせて対応するだろうけど、不器用な彼女はそんなことはできない。そもそも、隠された可能性を考えようとはしない。人を疑うことはできないだろうし。もしそれができる力があるのであれば、学校でずっと一人にはならないだろう。
後は簡単。放置されたジャガイモが育つほど中身が確認されない箱がちょうどいいところにあったからそこに制服を入れて、休み時間の十分間でそれを見つけられたらサエちゃんの勝ち。見つけられなかったら、私の勝ち。でも、小テストは授業が始まってすぐだから、間に合うのは難しいかもね。今日はたまたま勝ったみたいだけど、もし負けてたらまた次は違うことをしていたかな。
サエちゃんのことを考えていると、いつの間にか小テストの時間は終わっていた。ずっと満点だし、今日も満点だろうけど、今日はいつもと少し違う。ケイイチ君の丸付けをするのだ。
ほどなくして、彼の解答が書かれた紙をもらった。あれ……でもこの問題は確か……、
「最強と言われたオスマン帝国でさえイェニチェリの統率が取れなくなったことは一つの衰退の原因と言われている。ずっと強いままでいるのはすごく難しいことなんだ」
このくらいの基礎問題も……なーんだ。彼は言われてるほどすごいわけじゃないのか。なんか騙された気分。ケイイチ君ってそのくらいだったのか。
興味なくなっちゃった。次は誰にしようかな?
血がにじむ眠気 河童 @kappakappakappa
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