雲の涙を売る少年

空付 碧

彷徨う少年と、雲

 雨降りの通りは嫌いだった。

 舗装のされていない道はぬかるみだらけで、どう足掻いても靴には水が沁みる。ズボンの裾も泥がつき、さらにみすぼらしい姿になって惨めになる。

 なにより、僕は傘を持っていない。


 雨樋からとめどなく水が滴り落ちる。ぽちゃんぽちゃんと音楽会を聞きながら、僕は家の裏戸を叩いた。


「雲の涙はいかがですか」

 相手の反応は様々だ。居留守を決め込むか、箒を持って追い出されるか、

 丁寧に断られるか。この家はちらりと戸の隙間からお手伝いさんがこちらを見て、「帰っとくれ」と一言いってドアを閉められた。


 軒下を歩いていく。僕の行動範囲は住宅の密集した細道だけだ。大通りには用がない。鉄の箱が吐き出す煙の匂いより、キッチンから漂う肉の焼ける匂いの方が好きだった。僕は次の家に向かう。


「雲の涙はいかがですか」

 常連さんはいる。ぎいと開いた扉のむこうは真っ暗で、中から白いヒゲを蓄えたおじいさんが出てきた。

「1杯いただけるかい」

 入れ歯の置くからか細い声が聞こえてきた。僕は頷いて、握っていた麻紐を引き寄せた。


 紐の先に雲を括りつけている。僕の肘くらいの大きさの雲だ。ふわふわと漂うクリーム色の淡い綿を優しく握れば、じんわりと雫がにじみ出てくる。コップ1杯分、僕は染み出してくるのを待つ。


 雲から出てくる雫の色は多様だった。赤くぴかぴか光る色が夕焼け色になって夜色になったり、屋根の隙間から見える空色から道端の紫の花になったりと、一瞬一瞬で変化していく。コップに落ちた時、水面で白く輝いてから無色透明へと変化するのだ。


「どうぞ」

 僕はいっぱいになったコップを差し出すと、おじいさんは震える手で受け取った。コップの中で涙は揺れたけれど、地面に落ちることは無かった。僕はおじいさんから銀貨を1枚受け取ると、次の家へと進む。


 僕は休まず歩き続ける。時折ポケットに入れていた硬いパンをかじりながら、涙を買ってくれる人を探す。

 運が良ければ3人、そうでない時は飲み屋の店長へ売りに行く。雲は1日経てばふわりと消えてしまうのだ。

 21件目を断られた時、僕はしぶしぶびんを取り出した。


 できれば絞りたてが1番美味しい。ストックにすると少しずつ濁ってくる。

 味だって、複数人に配るよりも目の前の人に対して渡す方が濃さが違う。けれど、僕はここではコインがないと苦しくて仕方ない。路地の行き止まりで、僕は雲を絞りきった。


「これ飲んだ奴が、真夜中に真っ赤な楓を見つけたんだとさ」

 よく肥えた店長は、意地悪くニヤニヤと笑う。

「中に大麻を混ぜてんじゃねぇのか?」

「そんなもの持ってません」

「お前から買うより、直接この水手に入れれたらなぁ」


 決まり文句に、僕は黙って首を横に降る。

 雲を一度取り上げられたが、翌日なくなったと騒ぎそれきりになっている。店長は舌打ちして、銀貨を投げてよこした。これで銀貨が3枚になった。いそいそとパン屋に向かう。


 閉店間際、汚らしい格好で行っても人がいない時間なら、パン屋は入ることを許してくれていた。

 僕は真っ直ぐに小ぶりのフランスパンを1つ取ってレジへ行く。パン屋は無駄な動き1つせずに銀貨を受け取ってレジを閉めた。

 取るつもりは無いのに、なにか悪さをしないか見張るような目つきだった。


 僕は道の端の忘れられた箱の上でパンをかじる。味なんていい。3分の2を食べ終えると残りをポケットへ入れる。幸い雨はやんでいた。

 僕は裾汚れをできるだけ払い落として、また裏戸を叩く。7件目で、銀貨を見せると中へ入れてくれた。


「いいかい、御主人のご好意に深く感謝するんだよ。私だったら絶対お前なんかを家に入れたりしないからね」

 何度も繰り返し言われ、僕は丁寧に頷き続けた。今日は台所の隅を貸していただけた。僕は銀貨を渡す。むしり取るようにしたあと、彼女は続ける。

「物取ったりしたら、ただじゃおかないからね」

 僕は床に寝転がった。できるだけ小さく、板張りに密着するように丸くなる。今日は屋根があってよかった。重くなる瞼を閉じる。

 

 ***


 目を開くと彼がいた。

 頭と足は黒く、胴が白い四足歩行の彼だ。僕は彼をバクと呼んでいた。

「やぁ」

 バクは首を動かした。僕は裸足で草原を歩き出す。


「今日は例のおじいさんが涙を買ってくれる夢を見たよ。おじいさんが飲むのはいつも海の色なんだよ。きっと昔海の見えるところに住んでいたんだね」

 彼は黙って横を歩き続ける。空は満天の星空で、時々金平糖が流れていった。


「潮の香りと海鳥の鳴き声が絶えないんだ。僕も一度そこに行ってみたい」

 雨降りはいやなんだ、なんて他愛も無い夢物語を言って聞かせる。足元に転がった石を避けると、名前の知らない花が小さく鳴った。夜鳥が飛んでいるから、明日もきっときれいな星が見れるだろう。


 僕らは湖畔にたどり着いた。瞬く天の星が水面で色とりどりに踊っている。彼らは空では規則正しく、あるべき場所に立ち尽くしているけれど、湖畔の上では自由だった。頬を赤く染めたり、華やかな色のドレスを着て、優雅にダンスを踊る。光っては弱まり、浮かんでは消える。


 バクの食事はこの光だった。長い鼻を水面につけて、ゆっくりと飲み込んでいく。瞬きははしゃいだ様子で小波に乗ってみたりしながら、最後に眠るようにバクの中へ入っていく。どれもこれも幸せそうに笑っていた。僕も眺めるのは楽しくて、いつも彼の隣でじっとしていた。


「バクはどんな夢を見るんだい?」

 ちらりとこちらを見たあと、小首をかしげていた。

 もしかして、バクの夢は真っ暗なのだろうか。ぴかぴか光は胴の白に溶けてしまって、夢までたどり着けないのかもしれない。


「でも、その方がいいかもしれないよ」

 僕はバクの胴を撫でた。柔らかい毛並みと、彼の温度が伝わって肩の力が抜ける。

「ここ以上に幸せな場所は他にないからね」


 バクは静かに光を飲み込んでいた。くすくす、光は楽しそうだった。

 花が花弁を閉じる頃、僕らも床に就く。しっとりと柔らかな草の上に寝転がり、バクの腹に頭を乗せて星を見上げる。

 1番輝いている星は、何を思ってこちらを見ているのだろう。バクの寝息が聞こえてくる。髪を撫でる風に、満たされた気持ちで目を閉じた。

 

「ほら‼早く出ていっとくれ‼」

 僕は丁寧に頭を下げて裏戸から外へ出た。

 今日は濃い青空が見える。目が覚めた時に頭の下に敷かれていた雲を紐にくくりつけ、僕は歩き出す。


 目が覚めるまでの、半日が始まる。

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雲の涙を売る少年 空付 碧 @learine

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