第2話 連弾
ひつじとヤギの店は、山奥の平地にある。
レンガ造りに煙突から煙が漂い、いつでも誰かを待っていた。
「こんにちは」
私は訪ねる。はい、とひつじがやってきた。ちょうど膝までの高さで、青いサスペンダーをつけて黄色い毛並みを覆っていた。
「ようこそ、おいでくださいました」
ひつじが、春風のような声で言う。すっと耳に入り込んで、悩ましく渦巻いていたものが少し薄まった気がした。
「あの、特別なお薬が売られていると聞きまして、やってきました」
「はい。なんでもご用意しています」
丸く渦巻く角は、艶やかに見えた。
「あの、とくしゅかもしれませんが」
私は意を決して言った。
「“決定的なもの”をください」
無茶を言っていると承知だった。相手が戸惑うのではないかと覚悟の上だった。
ひつじは、頷いた。
「まず、お尋ねしたいのですが、兎の店には行かれましたか?」
迷わず頷いた。ひつじが、兎を知っていることに驚いた。いや、似たような系列だ。
兎の店は、誰かの『忘れ者』を管理している。忘れられた方の立場を汲んで、存在している店だ。物にだって、在る権利はあるのだそうだ。
だから、兎の店には、誰かが誰かの忘れ者を探しにやってきては拾い、そして何かがいつの間にかやってくる。そういう店だった。
私は先にそちらに行った。私が欲しい“決定的なもの”というのを、誰かが忘れているのではないか、探しに行った。
だが、見つからなかった。兎の店主(彼は男性だった)いわく、「あまりに抽象的だからだ」ということらしい。
兎の店にたどり着く人たちは、何かが欲しいと強く願って探し続ける。例えば、“居場所”、“才能”、“心”。だから、“決定的なもの”というのは、明らかに抽象的で絞り切れず、目につかないのだと言われた。
ひつじは、そうですかぁと気の抜けた声で頷いた。
「では、準備をいたしましょう。お話を伺いたいので、奥へどうぞ」
ひつじは丁寧にお辞儀をして、中へ入っていった。
店の中は、想像以上に物が混雑してあった。大きな本棚のそばに、収まりきらなかった本の山があり、羊皮紙が何枚も乗っている。ランプの油、ハーブの瓶、足元に杖が転がっている。兎の店に比べれば整理されている。そして、とても柔らかい。兎の店は、無機質に近かった。
私の背に合わせたテーブルに、腰を掛ける。ひつじはまず頭を見せて、顔が見え、前足が現れた。よいしょ、と座りなおして、机の上にあった無地の羊皮紙を引き寄せ、羽ペンを執った。ひつじの向こう側に、キッチンが見える。オレンジ色のフライパンがぶら下がっていた。
私は身構えた。どんな質問にも答えようと、肩に力が入る。ひつじの耳が、細かく動いた。かわいらしいと思った。
「“決定的なもの”というのは、あなたにとって大切なものですね?」
ひつじは言う。私は頷いた。
「そうです。私が生きていくうえで、決定的だなと思うものが欲しいのです」
「うちでは、ぼくとそこにいる彼で、何でもそろいます。安心してくださいね」
ひつじは階段の方を見た。二段うえに、毛布が丸まってあり、中にヤギがいた。銀色の毛並みのヤギの角は、ひつじとは違って平べたく後ろへ伸びていた。最大の特徴は、毛布の隙間からトルコ石色の鱗が見えていた。
「まだ眠そうだな。その間に、お話をしてしまいましょう」
ひつじはペンで文字を書き始めた。見たこともない字で、これがひつじ語なのかと思った。
「あなたが、普段何を好きですか?たとえば、スイセンの花を見ると嬉しくなったり
しますか?」
思わぬ質問に、は、と息が漏れた。
「そうですね。そういうものだったら、もらった手紙の切手が綺麗な柄だったり、初めて入った店の紅茶がおいしかったら嬉しいです」
「あぁ、それは嬉しいですねぇ」
青い瞳が優しく細くなる。同感する仕草が本当に嬉しそうで、さらに話しやすくなる。
「あと雨の日の音や、上がった後、葉についた水滴も好きですし、蜘蛛の巣に水滴がついていたら、特に嬉しいです」
「なるほど。ぼくも、水滴が好きです」
書き込んで、ひつじはもう一度ヤギを見た。ヤギは、少し顔を上げた。トパーズの瞳が、眠そうに私を見ていた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
前足はヤギのままだった。ヤギは頭を下げる。
「失礼を承知ですが、どうかこのままの態勢でよろしいでしょうか」
「はい。もちろんです」
私も頭を下げた。ヤギは、ひつじと同じように、目を細めた。彼はひつじと違って、草を食むような声色だった。
「アルゲティ、メモだよ」
「あぁ。大丈夫だよ、ハマル。話は聞こえていたし、きっとぼくらはもう既に用意してあると思うよ」
意外な返答だった。ハマルと呼ばれたひつじも、驚いたようだった。
「きっと彼女は、双子の演奏会が気に入るよ」
「あぁそうか。なるほど。そうだね」
ハマルは深く頷いた。アルゲティも、一緒に頷いている。
「少しお待ちください」
ハマルはそう言って、椅子から降りると本棚に向かった。臙脂色の分厚い本を取り、間から細長い紙を引き抜いた。ひつじはそのまま、私の足元へやってきた。
「演奏会のチケットです。双子がピアノの連弾を演奏しますよ」
「……そんなものが」
私の“決定的なもの”になるのだろうか。心配になった私に、ハマルはまばたきをした。
「彼らの演奏は、素晴らしいので、ぜひ向かわれてください」
「ありがとうございます。おいくらでしょうか」
私はチケットを受け取った。紙には、ふたご座の星々が並んでいた。
「ぼくたちの店は、物々交換です。兎の店は見つけ次第持って帰っていいのですが、ぼくらは今あなたが所持している、“かけがえのないもの”をいただきます」
「え」
それは、こちら側が不利なのではないか。内心思いながら、声を出す。
「今、そのような持ち合わせは」
「ご安心ください。ぼくたちにとって、“かけがえのないもの”なのです。そして、そういうものは大抵ポケットの中に入っていますよ」
私はそっとポケットを触った。何か入っている。驚いてポケットから取り出すと、鍵だった。見覚えのある、鍵だった。
「引っ越す前の、家の鍵だ。なんでこんなものが」
「素敵なものをお持ちですね。演奏会にピッタリです」
私はハマルの掌に、そっと鍵を乗せた。抵抗なんてなかった。
私は、かけがえのないものの交換を行った。
***
連弾。
私には、これまで縁のない存在だった。
まずピアノの演奏は学校で必要な時だけ聞いてきて、たいてい一人で完結する曲だった。
会場は広い円状をしていた。中央にピアノが一台ある。その周りを、二列ほど椅子が囲んでいた。
私は座って待っていた。ちょうどピアノの椅子のそばだった。しばらくすると、人がまばらにやってきて、好きなところへ座っていった。私の両隣は開いて、時間が来た。
双子と言われた兄弟は、似てはいなかった。
顔は明らかに違う。同じ血が通っているようには見えない。ただ、どこか一緒だった。表現が難しいが、例えるならサクラの花とイチゴの花だ。同じようで、違う。そういう二人だった。
彼らは顔を見合わせて、笑顔でお辞儀をする。
そして、一つの椅子に二人で腰掛けた。一つのピアノに、四本の手が乗る。ちょうど、私の位置から手元が見えた。初めて見る、不思議な光景だった。
一呼吸おいて、指が同時に動いた。ボン、と音が耳を貫いた。
数えきれない音が、同時に響く。ハイテンポで聞いたことのない曲が、リズミカルに流れ込んでくる。軽やかに跳ね、調子を取り、いくつもの鍵盤が押されていく。呆気に取られた。軽快に滑る指に目を奪われた。
ゲキテキ。
二台のピアノを弾くのとはわけが違う、と思う。
彼らは共に息をして、合わせている。
個人が同じリズムを刻み、高音と低音が同時に響く。それも一瞬で、何事もなかったように指は別の鍵盤を押している。腕が大きく、重い音を出す。
一つのメロディを奏でるための音が、複雑にまじりあっていた。金属線は不備なく叩かれている。指は、交わることはない。
彼らは何よりも楽しそうだった。お互いを試しているようでもあり、一つの完成された音楽を弾くためちゃんと自分のパートを弾けるか、からかっているようでもあった。
彼らが楽しんでいることが、会場の空気を作っていく。楽しみたい。けれど、夢中で楽しむどころではなかった。魔法を、見ているようだった。
そうして、気づけば終わっていた。始まった時と同じように、同時にゆっくりと指が離れていく。会場に拍手が起こった。私も、呆けたまま拍手を送った。二人は笑顔で、お辞儀をした。
双子はお客に挨拶をして回り、私の所へもやってきた。私は、何を言えばいいのか言葉に詰まった。
「初めて、お越しになられますね。ハマルから聞いております。本日はありがとうございました」
一人ずつ、頭を下げた。私は感想を伝えようと、口を開く。
素晴らしかった、一言のはずだ。
初めて見る、初めて聞く、初めての経験だった。想像以上の迫力で、もっと見たい。
「あの、」
同時に、心に穴が開いた気分だった。
また彼らの公演へ足を運びたい。けれど、きっと彼らの演奏は磨きがかかっていて、私にも余裕があり、今とはまるで状況が違うだろう。私は今日の演奏に、ひどく心が動いた。
今をずっと感じていたかった。音だけじゃ足りない。指や、彼らの姿だけでは及ばない、会場で広がった空気を初めて知ったことが、大切だった。
当たり前だが、一度しかやってこない。先ほどの時間が恋しい。
でも、終わってしまった。もう戻れないし、それ以上を求めるのは、酷だった。私の負担になってしまう。それにひと時の、宝物に近いものを、二度味わうのは味気ない。つまりは、
「決定的な、ものでした」
私は、こぼれた言葉を、心に仕舞った。
今日の演奏を、いただいた決定的なものを無くさないように、私は二人に丁寧にお辞儀をした。
ひつじとヤギの暖かな店 空付 碧 @learine
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