ひつじとヤギの暖かな店
空付 碧
第1話 緑のリンゴは、紅い姿を懐かしむ
森の開けたところに、その屋敷はありました。
「ようこそ、おいでくださりました」
迎えてくれたのはクリーム色の毛並みをした二足歩行のひつじで、ちょうど私の膝小僧の辺りまでの身長です。青いサスペンダーのズボンを履いて、翡翠色の瞳をぱちぱちさせました。
「あの、特別なお薬を貰えるって聞いたんです」
私はそっとひつじに言いました。
「はい。当店は特殊な薬を取り扱っております。どうぞあちらの椅子へ」
ハキハキと案内されて、私は足元に気をつけながら椅子へ向かいます。
小さな空間に色々なものがひしめいていました。棚から溢れた本は羊皮紙と混ざって山積みになり、ドライフラワーが何束も吊るされ、金平糖を入れた小瓶があちこちにおいてありました。
赤茶色のダイニングテーブルの椅子を引かれて、私はお礼を言って座りました。しばらくすると向かいでクリーム色の羊毛がひょっこり現れ、私の前に座りました。
「どのような物を用意いたしましょう」
ひつじは羽ペンとインク、紙を用意して私を見ました。ちょうどキッチンを背にしていて、調理器具がぶら下がった赤茶色の壁にクリーム色が柔らかく映えて見えます。
「えっと、耳のお薬をいただきたいんです」
私はおずおずと伝えました。ひつじは、ハッと口に蹄を持っていきました。
「聞きづらかったでしょうか」
「いえ、不思議とあなたの声は自然と入ってきます。春風みたいです」
よかった、とひつじは笑いました。私も一緒に安心しました。どこの病院へ行っても、たとえ大きな耳鼻科へ行っても、私の耳はぞんさいに扱われてきたからです。
「どんな調子なのですか?」
「音が大きく聞こえるんです。車の音も喋り声も、鳥のさえずりさえ、ちょっとずつ音量が大きくて」
「あぁそれはお辛いですねぇ」
ひつじは羽ペンをとって、紙にメモをし始めました。書き込まれる文字は見たことがないもので、あぁこれは羊語なのかなぁとぼんやり思いました。
「音がぐるぐる回って頭の中で響いて、私はどこにいるのか混乱することもありました」
「はい」
時折、耳が動きます。水平になった楕円状の耳が動くと、内側の薄ピンク色がよく見えました。私の耳もあんな健康的で綺麗な色をしていればいいなぁ、と思いました。私の想像する耳の中は、真っ暗でした。
耳鼻科に行った時のことです。
診察室に入ると、頭部まで背もたれのある黒いビニール製の椅子に座らされました。横にはステンレス製の細長いヘラや先が尖った道具がずらりと並べられて、耳への侵入を待ち続けていました。
私はひどく緊張していました。見るからに冷たそうなこれらが真っ暗闇に入るのは、無謀だと思ったのです。体が強ばってうまく動けない状況でしたが、お医者さんは私に構わず、鳥の嘴のような物を手にして、闇の中を覗きました。
「どういうお薬がほしいですか?」
目をくるくるさせて、ひつじは聞きます。
思ってもみない質問でした。間が生まれましたが、ガスストーブの上に置かれたオレンジ色のやかんが蒸気を出して空間を満たしました。
「……にがくない方がいいです」
「はい」
捻り出した言葉をガリガリとひつじは書き込んでいきます。
「飲み込みやすくて、すぐに効果が出るような」
「そうですね。一度きりの服用がいいですね」
そこまで書き込むと、ひつじは次の言葉を待っていました。私は必死に自分のお薬を考えます。
「飲んだらすぐに、音の小さかった頃の耳に戻ったらいいです」
「あぁ申し訳ありませんが、元の耳にする薬は作れないです」
ひつじは瞬きしました。
「どういうことなのでしょう」
「我々の時間は前にしか向かっていませんので、元に戻すことは出来ないのです。けれど、今のあなたにピッタリな耳にするお薬を作ることはできます」
めぇとひつじは笑いました。左耳も小刻みに動いて、産毛が揺れました。凝り固まった氷砂糖が少し溶けたようなきがしました。
「そうですねぇ。たとえばここにあなたの両耳があったとして」
ひつじは机の空いた空間を指さしました。
「必要以上の音を拾ってしまう傷ついた耳です。あなたはこの耳をどうやって癒したいですか」
難しく思いました。
目の前に耳を想像しましたが、所謂外耳というものが、2つテーブルの上に並んでいるだけなのです。私はこれをどうすればいいのか、思いつきもしませんでした。
「電球で温めてみますか?」
ひつじが机に転がった白熱電球を手にしました。エジソンがテレビで電球をつけた時の事を思い出しました。暖かそうですが、容赦なく耳の奥を照らされるようで、耳には眩しすぎました。
「光は、違う気がします」
「では水はいかがでしょう」
今度は洗面器が出てきました。とっぷりと耳を沈めるにはちょうどよく、必要のない音を遮りながら耳を癒せるようです。
「でも少々冷たいです」
「湯加減が難しいですね」
うーんとひつじと首をひねります。
「温めたいとは思います」
「気持ちよさそうですね」
「電球じゃちょっと眩しいので、日光の方がいいです」
「おひさまですか」
ひつじは目を輝かせました。ぱちぱちと好奇心が火花のように弾けていました。
「ぽかぽかと耳を温めて、優しい光の中で音を拾えるようになりたい、です」
「素晴らしいですね」
ひつじは嬉しそうに、手早くペンを走らせました。片隅には可愛らしい太陽の絵が私の耳を照らしています。絵の中の耳はどこか穏やかで、ひどく安心しました。
きっちり紙の最後まで書き終わると、ひつじは羊皮紙を丸めました。
「ありがとうございました」
「あの、本当に耳を切るわけでは無いですよね?」
おそるおそる聞けば、ひつじはにっこり笑いました。
「ご安心ください。これから相棒の出番です」
ひつじは椅子をおりました。私の後ろに回り、階段のそばに向かいます。
「アルゲディ、仕事だよ」
「んん、まだ眠いよハマル」
階段の二段目に丸く置かれていた毛布に話しかけています。毛布は声に応えてもぞもぞと動きました。目を凝らすと、平べったい角が見えました。
「ほら、もうすぐおやつのじかんだから」
ひつじは何度か毛布の中にヒヅメを入れたあと、毛布を剥いで中にいた相棒を起こしました。ゆっくり起き上がったのは、純白の毛並みのヤギでした。
「あぁ、どうもこんにちは」
「こん、にちは」
前足を立て起き上がったヤギの目はトパーズで出来ていました。頭を下げるヤギに、私も会釈をしました。その時毛布の隙間から、下半身がトルコ石色の鱗に覆われているのが見えました。
「失礼を承知ですが、このままの態勢でよろしいでしょうか」
ヤギは言いました。新芽を食べているような、柔らか音でした。
「はい、大丈夫です」
「よかった。それじゃもう一眠り」
「アルゲティ」
ひつじがヤギの前に先ほどの羊皮紙を差し出しました。あぁとヤギは頷いて、紙を食み始めました。顎の下に蓄えられた銀色のヒゲがリズムよく揺れます。
郵便屋のヤギのインタビュー記事を読んだことがあります。そういえば彼も、手紙が好物だと言っていました。想いを込めた文字とはみ出さないように閉じ込めた封が、なんとも絶妙だと力説していたのです。
ゴクリとヤギはすべて飲み込みました。
「ところで、あなたは耳に変化が起こる前、なにか特別なことが起きたのですか?」
ヤギが言いました。この質問はどの病院でも聞かれましたが、答えても意味のない質問でした。
「はい、えっと猫が」
「ねこ」
「一緒に暮らしていた猫が、家を出て行ったんです」
オレンジ色に白の縞模様が綺麗に並んだ、愛想のいい子でした。寝るときは必ず私の顔のそばで丸くなり、ふがふがと寝言を言っていたのです。顔に暖かい毛が当たって、ほっとしてまぶたを閉じていました。
「いくら探しても、帰ってこなくて」
「そうですかぁ」
ヤギはふにゃふにゃ口を動かしていました。瞳がだんだんと虚ろになり、長いまつげがゆっくりと下に降りてきました。
数分たって本格的に寝息を立て始めた時、ひつじがヤギの額と自分の額を合わせました。ゆっくりとした時間が流れます。
椅子の上に丸められた膝掛けも、金平糖のびんも、象の絵画も、ゆったりくつろぎながらひつじとヤギの様子を見ていました。
ヤギの角が赤みを帯びてきました。最初は薄い桃色でしたがだんだんと赤色が強まってきます。ルビーか、はたまたガーネットのような輝きに、思わず目を眇めます。
光が最高潮に達した時、ごとりと音がしました。角が落ちたのかと慌てて見ましたが、乳白色の角は頭についたままでした。ひつじが屈んで、落ちたものを拾い上げました。
「あなたの治療薬はこれです」
差し出されたのは、真っ赤に熟れたりんごでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます