3章2話 紙枝綴

 学校には未だに多くの生徒が残っていた。遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏、運動部の低い掛け声。そんな放課後の空気に少しだけ寂しさを覚えてしまうのはきっと、何かに熱中できる連中が羨ましいからなのだと思う。


 師岡に初めて会ったのもちょうどこんな時間だった。小さな体でまるで跳ねるようにしてボールを投げ込んでいたその姿は、今でも鮮明に覚えている。暫くぼーっと眺めていた俺の足許にボールが転がってきて、少しだけ言葉を交わした。どんな会話だったのかは忘れてしまったけども、師岡が浮かべた怪訝な表情だけはハッキリと網膜に焼き付いている。師岡のあんな顔を見たのは後にも先にもその時だけだったからだ。


「アタシの新しいストーカーくんっていうのは、もしかしてキミ?」

 一階の渡り廊下で師岡のことを思い出していた俺の肩をそんな質問が叩いたので、振り返る。そこに立っていたのは赤みがかかった黒髪を二つ結びにした文字通りの美少女で、一目で彼女が紙枝綴だということがわかった。


 ――曰く、嘘みたいな人。


 紙枝について尋ねた男子生徒は口を揃えて彼女をそう評した。勉強や運動は言うに及ばず、容姿や性格さえも漫画の登場人物のようだという。それは紛うことなき褒め言葉なはずなのに、彼らはどういうわけかこうも言っていた。


 あまり関わり合いにならないほうがいい、と。


「あ!」

 と、振り返った俺の顔を見て、彼女は手を叩く。


「怪人金属バットの手下だ」

「えー……」

 仮にも先輩は俺のほうなのに、どうにもそういう風に認識されているらしい。くだんの男子たちも俺の顔を見るなりこぞってそんな感じのことを言ってきた。そこまで大きな町ではないから、譲原と俺が休日に二人で歩いているところを目撃した人物が相当数いたようで、譲原が元々有名人だったということもあって噂が広がってしまったのだろう。


「俺はストーカーでもなければ手下でもないんだけど」

「うん、知ってる」

 言いながら紙枝は距離を詰めてくる。ふわり、と柔軟剤か何かのいい匂いが鼻腔をくすぐる。


「匂坂イズミくんだよね」

 俺の胸に人差し指を当てて彼女は見上げてくる。小さな頭部、大きな双眸。譲原が野良猫の類だとするのなら、紙枝は首輪のついた犬だ。距離感がバグっている。


 十中八九、自分の容姿を正しく理解できているからこその挙動だ。こんなの殆どの男子が好きになってしまう。俺は自分の感情をグッと抑え込んで可能な限り平坦な声を作る。


「枕返しって知ってるか?」

「え? なに? 枕返し?」

「そう、枕返し。妖怪の」

 彼女は長い睫毛に縁どられた目を丸くしながら小首を傾げて「うーん、まさかのパターンだなぁ」と唸る。そしてグラウンドからこちらを眺めていた野球部に軽く手を振ってから続ける。


「知ってるか知ってないかでいえば知ってるけど、イズミくんが何を言おうとしているのかはわからないや。ごめんね」

「心当たりとかない?」

「ないかなぁ」

 それもそうか、と俺は息を吐く。仮に枕を返されていたとしても、仮にそれが要因で力を手にしたって、まさか枕返しの仕業だとは思うまい。


「いきなり告白してくる人とか、デートに誘ってくる人は今まで多々いたけど、妖怪の話を振られたのは初めてだよ。キミ、面白いね」

 彼女はくつくつと肩を震わしながら笑う。そういう所作のひとつひとつが可愛らしいのだけども、節々にわざとらしさを感じてしまうのはなぜだろう。俗にいうぶりっことはまた違う、言ってしまえば紙枝綴という人物を演じているかのような違和感。

 これはもちろん自嘲の類なのだけども、初対面で俺みたいな人間に対してこんな風に接することができるだろうか。答えは否、である。


 だからといってそれが枕返しの仕業だとか、何かを企んでいるってわけではないのだろうけども、何か引っかかりを覚えてしまうのは確かだ。


「枕返しのことは全然わからないけど、イズミくんの事は結構知ってるよ」

「あん?」

「奇跡の少年」

 俺の目を見据えて紙枝は言う。


「当時、テレビでキミの顔と名前はしょっちゅう観たからよく覚えている。だからね、転校したその時からあたしはイズミくんをずっと意識していたんだよ」

 昔の俺を覚えていたからってそれは別段、不思議な話ではない。実際彼女が言うように新聞やニュース番組で幾度も取り上げられたからだ。


「アレは奇跡でもなんでもないんだけどな」

「まあ……そうだよね。だってイズミくんはワゴン車と衝突しても無傷だったもんね」

 紙枝は。いや、今まで誰からも突っ込まれなかったのが、それこそ奇跡だったのだと思う。あの日、譲原に切り刻まれる前のあの事故の目撃者は皆無だった。


「キミって頑丈なんだね」

 含みのある言い方だ。


「紅い目の少女とお買い物もしていたよね」

「――お前、どこまで知ってるんだよ?」

 つい声を荒げてしまったのは焦りからだろうか。グラウンドを周回中の運動部の女子が驚いたように俺を見ていた。


「次の今日、この時間。万が一まだ覚えていたら教えてあげる。じゃあね、匂坂イズミくん」

 彼女は――紙枝綴は制服から黄色いカッターナイフを取り出して、身構える俺をよそに自分の首にその切っ先を突き立てたのだった。

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