2章7話 契約

「じゃあ始めましょうか」

 肩で息をした譲原が手を叩く。廊下に響いた乾いた音に釣られるかのように、黒い異形が角から姿を現した。距離はざっと二十メートル程だろうか。それを迎え撃つ譲原の周りには六芒星の形に置かれたアルコールランプ。俺が理科室で集めたモノだ。


「これは籠目かごめです。簡単な魔除けですけど効果は絶大です。悪魔さんは迂闊に踏み込まないで下さいね」

 悪魔ちゃんは蛆虫でも見るかのような顔で頷き、譲原の前で仁王立ちをする。

 作戦なんて呼べたモノではないけども、まずは悪魔ちゃんがアレから時間を稼がない限りはどうしようもない。あの譲原が一撃で相当なダメージを受けた相手だ。本当にこいつでどうにか出来るのかどうか半信半疑ではあったのだけども、華麗に宙で回転して見舞った回し蹴りは祟り神の上部にクリーンヒット。あろう事かその巨体を数メートルは後退させる。


「もしかしてウチって強くない?」

 振り返り、ドヤ顔で親指を立ててみせた悪魔ちゃんだったが、その隙を衝いて伸びてきた黒い腕が悪魔ちゃんを弾き飛ばして、それに引っ張られるように俺も廊下を転がる。不味い、という思考が転げ回る体に付随するかのように脳内を巡る。

 譲原の事だからこのワンミスだけで詰みという事はないだろうけども、反撃でもしようモノならまた大ダメージを負ってしまう。


 そんな焦燥を上書きする悪魔ちゃんの怒鳴り声は「オマエを投げるぞ!!」というモノ。え? と思った時には既に俺の体は、即座に体勢を立て直していた悪魔ちゃんの腕の中にあって、まるで樽でも投げるかのようにして下から俺を投擲。常人の腕力ではまずあり得ない速度で、祟り神の方へと飛んで行く。

 乱暴な扱いだけども、あの悪魔ちゃんにしては機転の利いた一手だと思う。何せ俺と悪魔ちゃんは連動しているから俺を投げれば彼女自身もそれに引っ張られる。


 廊下に穴でも開きそうな轟音と共に、爆ぜるように地面を蹴って前方に跳躍した悪魔ちゃんの華奢な体は空中で俺を追い抜いて、その勢いのままに祟り神へと飛び膝蹴りを決め込んだのだった。


 以上が、譲原が手を叩いてからほんの三秒間程の出来事だ。目まぐるしく動く戦況に、振り回され続けるこの状況に、目が回ってしまう。


 俺をキャッチした悪魔ちゃんは、燃え盛る赤い瞳を祟り神に据えている。

 さっきまで抱いていた本当にこいつでどうにかなるのかという疑念は、とっくに消え去っていた。しかし、今の攻撃を受けても尚、祟り神は少しその巨体をよろめかせただけだ。

 その漆黒の体が再び迫ってくる。触れたらアウト。直視もダメ。そんな相手がすぐそこにいる恐怖。でも、もうすぐだ。譲原に稼ぐように言われた時間は三十秒である。後ろで籠目とやらの中にいる譲原は、紙片を一枚咥えたまま何かを呟き続けている。曰く、それは祝詞のりと。神に向けて唱える言葉なのだという。


「オイ金髪女!! なんか変だぞッ!!」

 悪魔ちゃんが叫ぶ。その声は異様に響いて廊下中を反響する。なんか変――その言葉の意味を俺の眼球が捉えた。

 黒い異形が今までよりも僅かに膨らんでいる気がする。気のせいでも目の錯覚でもない。僅かに、けれども着実に肥大している。そうしているうちについには廊下の天井まで膨れ上がり、俺たちの方にまで肉薄し始めていた。


「譲――!?」

 譲原に視線を向けると、彼女の口からは血が溢れ出ていた。眉間に皺を寄せて、痙攣する瞼を必死に閉じないように堪えている。

 緊急事態だ。何ともない振りをしていたけれど、譲原の肉体はとっくに限界だったのだろう。


「オイオイオイ! ヤバイぞ! どうすんのコレ!? ウチでは抑えきれないけど!?」

 もはや人の形でも何でもなくなったそれは、壁のように廊下を塞いでいる。触れられるのは悪魔ちゃんのみだから今現在は必死に押し返そうとしているけども、その肉壁はじわじわと迫ってきている。俺はともかく、今の譲原だって触れたらただでは済まないだろう。


「……どうやら悩んでいる余裕はなさそうですね」

 譲原を抱えて取りあえず逃げようとした俺に、彼女は掠れた声でそう言った。血が喉に絡んでいるのだろう。咳き込んだ後で続ける。


「先輩があの悪魔として下さい」

「契約」

「そう、契約。あの日、先輩の母親がそうしたように、今度は先輩がアレと契約を結んで下さい」

「……でもだってそんな事をしたら」

 拍動に合わせて雨の音が聞こえる。それを遮るように、譲原が耳元で囁く。


「そうする事でアレは本来の力を取り戻すでしょう。あの程度の不完全な祟り神ならワンパンっすよきっと」

「だったら余計に危ないじゃん」

 あの祟り神にでさえ苦戦しているのに、それよりも厄介なヤツが現れたらどうなるかなんて馬鹿になってしまった今の俺にだって理解できる。悪魔ちゃんが味方をしてくれるのならまだしも、そんな保証は微塵もないのだ。


「この結界さえ消えてしまえば後は私がどうにかするんで安心して下さい」

 どうにかできるような状態には見えないけども、今は譲原を信じるしかなさそうだ。俺は首を縦に振った。


「おい、悪魔ちゃん」

「あン⁉ ウチが頑張ってんのにさっきからなにイチャイチャしてンの⁉」

「俺と契約しようぜ」

 悪魔ちゃんの目が煌々とした光を放ったのがわかる。口許が歪に吊り上がる。


「はァ? 契約ゥ? オマエはウチに何を差し出すん?」

 それは笑いを堪えるような顔で問い返してくる。


「俺の、全部。だからそれをぶっ倒してくれ」

「――あァ、わかった」

 瞬間、空気が弾けた。衝撃が額を叩き、髪を靡かせ、破裂音に耳鳴りがする。

眩い閃光に目を瞑り、そして目を開けたその視界に映ったのは、どこか見覚えのある後ろ姿。……そうだ、今にして思えばあの子供姿の悪魔ちゃんにも面影はあった。その背中は確かに、母さんのモノだ。


「なんでお前が! その姿してんだよ!」

 俺の怒号に、悪魔ちゃんはゆっくりと振り返る。さっきまでとは違う、茶色いの長髪。遺影の中で笑顔を浮かべ続けるその顔は今は無表情だけども、見間違うはずがなかった。


「だって、仕方がないでしょう? ちょうどいい器がこれしかなかったのだから」

 大丈夫だ。俺は俺にそう言い聞かせる。いきなり母親の姿になって少しばかり動揺してしまったけども、そんな退屈なやり取りをしている場合ではない。


「先輩、籠目の中から出ないで下さい」

 譲原に言われて気が付く。俺は今にも飛び掛かりそうになっていたらしい。廊下を力強く踏みつけた右足を一瞥して「あ、ああ……うん」と頷いた。


「大丈夫ですよ。想定の範囲内ですから」

 想定の範囲内。本当にそうだろうか。だって悪魔ちゃんは、まるで羽虫を振り払うかのように軽い所作ひとつで、祟り神をさせた。あまりに自然で、一瞬の出来事だったから気にも留めなかったけども、あんなに苦戦した相手を消し去ったのだ。


 結界が崩れていく。その様は焚火の上で弾ける火の粉に似ていた。空気が変わって、そこには田園風景が広がった。朝晩は未だに相当冷えるから吐いた息が白い。


「ワタシは約束を守った。だから次はオマエの番だよ」

「じゃあ、キャンセルで」

 譲原が軽い口調で言う。抱える俺の胸を左手で押しのけるようにして立ち上がり、悪魔ちゃんとの間に立ちふさがる。右手の指は結界が消えたからといって治る訳ではない。体力だって戻りはしない。どう考えたって、肩で息をするボロボロの譲原がどうにか出来る相手ではない。


「……イヤイヤ、それはさすがに許されないでしょう?」

「すんません。先輩は嘘つきなんすよ」

「いや、俺は嘘つきじゃないけど」

「いいから黙っていて下さい。勝手に自己犠牲の精神も出さないで下さいね。そういうの迷惑なんで」

「だからってお前、あいつに勝てんのかよ⁉」

「先輩の脳内はバトル漫画なんすか。生憎と私にはこんなインフレについていける程超人じゃあないんですけど」

「残念だけど、前みたいな方法は通じないよ。ここは三叉路ではないからな」

 裸の田んぼの中で、悪魔ちゃんは哄笑を響かせる。


「それに。ソイツの望まれた幸福とやらも今はもうワタシの中だ。気兼ねなく殺せる」

「どうすんだよ譲原。やべぇじゃねぇか」

 俺と悪魔ちゃんの絆でなんやかんやしてどうにかなる、なんて事も出来なさそうだ。こんな事になるのならもっと優しく接するべきだったとも考えたけど、悪魔ちゃんは平然と裏切りそうだからきっと無駄なのだろう。

 これならまだ祟り神を相手にしていた方がよかったのではないだろうか。そんな考えが頭に浮かんだ時だった。


「あなたの弱点は、お喋りが好きなところですね」

 譲原の左手の中で刃物が煌めく。いったいどこから出したのかはわからない。しかしナイフ程度でアレを相手に戦えるのだろうか。否、無理だ。そんな事はやってみなくたってわかる。


「何かと思ったらそんなちっぽけな凶器を引っ張り出して何が出来る? 雪花とやらで悪足掻きでもしたほうがまだよかった気がするけど」

 悪魔ちゃんの冷笑も当然の反応だろう。仮に雪花を持っていたって勝てるとも思えない。でも、譲原の事だ。何か秘策があるに違いない。


「ハイ。あなたには何も出来ませんよ。だってコレでは悪魔も人も斬れませんもん」

 悪魔ちゃんの目つきが変わる。きっと俺と同じ思考に至ったのだと思う。だったらどうして――? その疑問に危険を察知したはずだ。


「だってコレは」

 種明かしよりも早く、譲原はそのナイフを振り抜く。悪魔ちゃんではなく、俺の足許に向かって。


「縁を斬る妖刀ですから」

「な⁉」

 夜の帳をかき消すように、悪魔ちゃんの体が光に包まれる。その中で、みるみると体が縮んでいくのがわかった。


「これであなたと先輩の契約はなかった事になりました。要するに、元通りって訳です」

「ずるいんだけど!! 反則なんだけど!! アホ! 死ね! ボケ!」

 悪魔ちゃんが悪魔ちゃんに戻って、また頭の悪そうな事を言っている。とはいえ、この状態の悪魔ちゃんですら、祟り神相手に立ち回れるだけの能力を有している。小さくなったからといって、安心できる相手ではない。


「でも、ウチとコイツの縁を斬ったのならウチはコイツを殺せ――ッないじゃん!!」

 俺の頭頂部に向かって振り下ろされた悪魔ちゃんの右の拳は、見えない何かに阻まれて弾かれる。


「今のあなたの力では、この籠目の結界は破れませんよ」

 悪魔ちゃんの小さな拳からは煙が上がり、皮膚が焼け爛れていた。正直な話舐めていたけども、本当に強力らしい。


「さぁ、どうしましょうか。先輩との縁が切れてしまったあなたは、時期に消滅しますけど」

「……むぅ」

 今更手を差し伸ばせる程、俺の脳内にお花は咲いていない。仇討ちする相手でもなければ、仇討ちなんていう殊勝な復讐心なんて持ち合わせてもいないけども、悪魔ちゃんと慣れ合うのはどう転んだって不可能だった。


「私と契約を結びましょうか」

「はァ⁉」

「私を呪詛から守って下さい。今日みたいにしょっちゅう狙われてるんですよ。その代わり、衣食住は確保してあげます。そして私が死んだその時には私の体をあげますよ」

「――それは、悪くない話だ。わかった。オマエと契約を結んであげる」

 こうして譲原と俺の長かったデートは終わったのだった。

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