2章5話 罪滅ぼし

 ようやく病院から出ると、もう日が暮れていた。肌を貫くような北風と、途端に蘇った町の喧騒。さっきまでの静寂が嘘みたいだ。

 視線を下げる。そこには確かに悪魔が立っていて、閉じ始めた自動ドアを見返していた。多分だけど、俺と似た感想を抱いているのだろう。まるで狐にでもつままれたようなそんな気分だった。


「俺の学校に行けばいいのかな? それともさっきの場所に戻ればいいのかな?」

 どちらにしろ結構な距離がある。コイツの意見が仮に正しくて、譲原にそういう力があったとしてもなるべく早く向かいたかったので、悪魔の手を引っ張りながら黒色のタクシーへと乗り込んだ。


「学校だろうな」

「じゃあ、聖峰学院までお願いします」

 発車した車内で、流れる景色に目をやる。車なら十五分程度だろうか。自然と貧乏揺すりをしてしまった俺の脚を、悪魔の野郎がはたいた。


「お行儀が悪い」

「お、おう……」

 むすぅっと広告タブレットのCMを眺める悪魔の横顔を一瞥する。


「なぁ? お前の名前は?」

 悪魔だのコイツだのでは何かと不便だ。


「んなもんはない」

 ちらりとルームミラー越しに見てきた運転手と目が合ったので何となく会釈をしてから「んー」と唸ってみた。名前がないのであれば適当にあだ名でもつけるか。

「うーん……ココちゃんとかどうだろうか?」

「どうだろうか? じゃないわアホ。ウチはトイプードルか!」

「じゃあハムちゃん」

「ハムスター!!」

 妙に的確につっこんでくる悪魔ちゃんは苦虫を嚙み潰したような顔で続ける。

 

「それにウチは女じゃないが?」

「え、ちんこ生えてんの?」

「……おちんちんの事はどうでもいいと思うんだけど」

「やっぱり女じゃん」

「はァ? 確かに見た目は女かもしれないが違うぞ」

「いや、見た目どうこうじゃなくてさ」

「だったらどうして?」

「だって男はおちんちんって言わねぇもん。ちんこだろ普通」

「おちんちんはおちんちんじゃん!」

「おちんちんはおちんちんでも男にとっておちんちんはちんこなんだよ。体と心にちんこが生えてる人はおちんちんなんて言わないんですぅ!」

「心にちん――……ッ!! どうでもいいわボケ!」

「名前つけんのに性別は大切だろうが」

 中性的な名前のせいで小学生の時にからかわれた経験がある俺としては、そこは譲れなかった。咳払いをした初老の運転手にミラーを通して愛想笑いを浮かべてみせる。


「そもそも名前などいらん。そうやって縛り付けようとするのは、人間オマエらの悪い癖だ」

「縛り付けるとかそんなえっちな事する気はないんだけど」

「えっちな事を言ったつもりはないんだけど! オマエと話していると頭が痛くなってくる……」

 そんな風にため息を吐きながら、悪魔は俺を凝視する。


「名前っていうのは、ソイツの魂と結びついたモノなんよ。だから本名――つまりみ名というのを、昔の人間は隠して通り名を使っていた。忌み名を知られてしまうと、呪い殺されるかもしれないからね。それぐらい名前というのは大切なモノなんよ。例えばだけど、許嫁いいなずけという言葉の語源は忌み名付けという説もある。本来はそれぐらい近しい人間しか忌み名は知らないんよね」

「ほえ~」

 許嫁以外全く頭に入ってこなかったが、とにかくまあ大切なモノなのだろう。


「でもお前悪魔じゃん。呪い殺す側じゃん」

「ウチらにとっても名前というのは重要なんよ。知られてしまうと簡単に攻略されちゃうからね」

「攻略?」

「そう、攻略。例えば鬼に豆。悪魔に聖水。吸血鬼に銀の弾丸といった具合に、名前がある事で弱点を共有されてしまうんよ」

「でもお前悪魔じゃん。聖水が弱点じゃん。既にバレバレじゃん」

「悪魔の中でも対策方法は違うんよ。例えばかの魔神王アスモデウスは魚の内臓を香炉に入れて焚けばいい。もしくは姿を現しても怖がったりしないで、敬意を持って接すれば喜んで色々と親切にしてくれたりもする。こんな風にオマエら人間は弱いながらも弱点を共有する事で生きてきた。現にウチもあの金髪女に三叉路に誘き出されて敗北したしな」

「じゃあお前の弱点は割と馬鹿な所だな」

「アホ! ボケ! マヌケ! オマエには言われたくないんだけど! ウチがなんかこんな感じになっちゃったのはオマエのせいなんだからね! オマエが! ウチを刺すから! こんな体になっちゃったの! 脳みそがちっこくなったらアホにだってなるわボケ!」

「まあその話は置いといて」

「置いとくなッ!」

 今は譲原をどうやって助けるかを考えるべきだろう。正直な話、俺にはどうする事もできない。この小さな悪魔ちゃんだけが頼りな訳だ。紅潮した頬を膨らまして不貞腐れているその顔からは、譲原のような頼もしさは微塵も感じられない。


「そもそも。ウチにはムリだが?」

「無理って何が?」

「ウチがあの金髪女を助けられると思うか?」

「いや、思えないなぁってちょうど今考えてたところなんだけどね」

「でしょ? どう考えたってムリムリ。大体ウチは名前もない超低級の悪魔だからね。そんなんで祟り神に勝てる訳ないじゃん」

「えー、じゃあお前もう帰れよ」

「帰れるのなら帰りたいが!?」

 残念ながら目的地の高校に到着してしまったので今更帰す訳もなく、訝しむ視線を送り続けてくる運転手に料金を支払って、逃げるようにタクシーから降りるのだった。


 宵闇に聳え立つ我が母校は、静けさに包みこまれていた。校門の向こうに広がるグラウンド。その奥の校舎の中に、譲原はいるのだろうか。いや、譲原は結界と言っていた。だからここに譲原がいるとは限らない。


「――気味が悪いな、ここは」

 悪魔ちゃんが腕を組んだまま言う。


「人の母校を馬鹿にすんじゃねぇよ」

「…………」

 悪魔ちゃんは反論もなくジト目でこっちを流し見るだけ。俺は何だか居心地が悪くなって「なんだよ……」と呟いて目を逸らした。


「オマエはビックリするくらいに霊的な素養が皆無だな」

 霊的素養なんて微塵も欲しくはなかったが、なんだか馬鹿にされている気がしたので目を凝らして夜の校舎を見据える。とりあえずだけども明かりは見当たらないし、あの不気味な祟り神とやらの気配も感じられない。


「そんなンだから――」

 聞き終わる前に、俺の体が宙へと跳び上がる。否、上がる。人間の跳躍力なんてモノをまるで置き去りにしたその加速力に、意識がくらっとしたくらいだ。何よりも、右足から後頭部を貫いた激痛に視界が明滅する。


「オマエら一体何に手を出したん!?」

 後から追いかけるように飛んできた悪魔ちゃんは、責めるような厳しい顔つきで叫んでいる。そして涙で潤んだ俺の瞳が捉えたモノ。それは人をかたどった無数の紙片が、風に乗るようにしてこちらに向かってくるその光景。


「なにアレ!?」

形代かたしろだ!」

 風が頬を叩く。飛んだと思ったけど、当然ながら今度は落ちている。形代の数はざっと数百だろうか。いや、瞬時に数えられるような枚数ではないし、そもそもそんな余裕などなかった。地面が眼前に迫ってきている。


「アレの一枚一枚に、僅かではあるが神霊が宿っている!」 

「てかその前に死ぬんだけど!」

 頭からグラウンドに突っ込むかというその間際、どういう訳か先に降り立っていた悪魔ちゃんが俺をお姫様抱っこのようにしてキャッチした。相当な衝撃だったろうに、まるでなんともなかったかのように走り出す。

 信じられない膂力と脚力だ。その背丈からは到底想像する事もできない速さで、校庭を走り抜けていく。


「アレってやっぱりやばいの?」

 迫り来る形代を悪魔ちゃんの肩越しに確認しながら俺は質問する。


「形代は身代わり。本来は穢れや災いをアレに移して祓うモノ」

「だったら――」

「要するに! アレには穢れや災いが溜め込まれている。触れたら――いや、かすりでもしたら最後、呪われるぞ」

「ええ……」

 そんなのばっかじゃん……。見ただけで正気を失うとかそういうの。俺はもっとこう、格好よく立ち回って譲原を助ける自分を想像イメージしていたのだけども。現実は小さな女の子にお姫抱っこされているのであった。


「ぶち破るぞ!」

「何を⁉」

 目の前には閉ざされた昇降口。ガラス戸とはいえそう簡単に壊れるような強度ではないだろう。でもまあ、壊せちゃうんだろうなぁ……。そして抱きかかえられた俺がダメージを負うんだろうなぁ……。という予想は当然ながら正解で、思わず耳を塞ぎたくなるような炸裂音と頬をかすめるガラス片。そのまま下駄箱の方へと放り投げられた俺は、歯を食いしばりながら床を転げ回る。事故を思い出すくらいの、凄まじい衝撃だった。


 頬っぺたから流れ落ちる血液を手の甲で拭いながら顔を上げる。そこには俺を守るように仁王立ちした悪魔ちゃんがいて、そんな彼女に無数の形代が吸い込まれるかのように向かってきていた。


「逃げろよ!」

「逃げたいんだが! どういう訳か足が動かないんよ!」

 半べそをかきながら振り返る悪魔ちゃんに、俺は手を伸ばしながら走り出す。しかし、どう考えたって間に合わない。いや、間に合ったところでどうにか出来るとも思えないが、ここで悪魔ちゃんを失う訳にはいかなかった。下腹部の奥底で焦燥感が疼く。

 もうダメだ――そう思った瞬間だった。横合いから現れたのは、黒い塊と酷く不快な羽音の大群。反射的に耳の辺りを手で払おうとしてしまう。


「ひぎゃー!!」

 と叫んだのは悪魔ちゃんだったが、しかしそれは断末魔ではなかった。おぞましい羽音が形代を飲み込んだからだ。


「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」

 金縛りでも解けたかのように遁走を開始した悪魔ちゃんについていく為に、俺も反転して併走する。


「虫だよな⁉ 今の」

 まるで一匹の生き物であるかのように固まっていたから種類まではわからなかったけども、あの羽音は間違いなく虫だった。


「ムリムリムリムリムリ! アレはムリ!」

「オイ! 馬鹿野郎! 止ま――ッ!! いっっでェ――ッ!!」

 俺の脚力如きで悪魔ちゃんのスピードについていけるはずもなく、そして現在彼女と一心同体な俺は下手くそなテーブルクロス引きでもされかのように足を掬われて、後頭部を廊下に強打して悶絶。そのまま引きずられるのだった。


「止まれよ! 馬鹿!」

「なんなん⁉ ここ! お化け屋敷か!」

「とりあえず止まれ! ストップ!」

 どういう原理かはわからないけれど、悪魔ちゃんと三メートル程の距離を保つかのように引っ張り続けられている。我慢しがたいレベルの摩擦熱が生じるくらいの速度ではないのが不幸中の幸いだったが、頭を地面につけていると髪の毛が痛かったので腹筋を維持するような態勢で頑張り続けていた。そろそろ限界だし、何ならその前にこいつは階段を駆け上がりそうだった。


「もういない⁉」

「いないから! 大丈夫だから! 止――まるなよ!」

 急に止まるモノだから、悪魔ちゃんの足首に滑り込むようにして俺は股間を打ち付けた。


「焦ったわァ。マジでムリなンだけど」

「あの虫はなに? 味方?」

 偶然現れたとは考え難い。そもそもまるで意思でもあるかのようなそんな感じだった。俺は股間を抑えながら立ち上がり、昇降口の方へと視線を向けるが、ほぼ廊下の端のここからではさすがに見えない。

 そもそも窓から射し込む僅かばかりの月明かりがほぼ唯一の光源というこの状況では見えなくて当然だろう。


「いい知らせと悪い知らせ、どっちを先に聞きたい?」

「え? いい知らせだけ聞きたいんだけど」

「じゃあ、まずはいい知らせからね。あの病弱女は黒幕ではない――かどうかはまだわからないけど、とりあえず今のところはウチに協力をしてくれるみたい」

「そうなの?」

「あの虫は、端的に言ってしまえば病弱女が操っているモノだ。どうやら助けてくれたらしい。それで悪い話なんだけど」

「どっか怪我でもしたか? 俺は後頭部の髪の毛が心配なんだけど」

「ウチの弱点は虫だ」

「あ、そ」

 至極真面目な顔で告げられたけども、いい話だけを受け入れればよさそうだ。


「まあ何にせよ、窮地は脱したわけだ」

 言いながら俺は階段を見上げる。妙な気配は感じない。というか、感じられるような器官は持ち合わせてはいない。そんな俺が譲原を救うには、こいつの力が必要だ。俺は悪魔ちゃんの顔面を見据える。

 まるであの日の炎のような赤い双眸。たったひとつそれだけで、俺とは明確に乖離した存在だという事がわかる。人間のような容姿だけども、可愛らしい顔立ちだけども、その瞳は明らかに異形のソレだ。


「なんだ?」

 手を伸ばした俺に、悪魔ちゃんは小首を傾げる。揺れた黒い前髪と、注がれる視線。多分――これは単なる直感に過ぎないのだけども、これはだ。

 こいつは俺の中で眠らせたままにしておくべきだった。ずっとずっと疎ましくて、憎くて、恐ろしかったから言っている訳ではない。彼女の身体能力に脅威を覚えた訳でもない。

 ただ何となく。けれども、確信めいた妙な感覚。こいつは人間に悪意を持っている。それは悪魔なのだから当たり前なのかもしれない。でもきっと、そういう話ではない。


「今度こそ握手しようぜ」

「ウチは――」

 敵意を孕んで尖ったその視線を振り払うように、彼女の手を握る。小さくて、少しだけ冷たいその手のひらを強引に上下に振ったその瞬間、景色が切り替わった。


 それは悪夢のような現実で元凶。

 何度も何度も、夢でうなされたその光景。


 垂れ下がった赤い腕と、無数の呻き声。もしも地獄が存在するのなら、きっとこうなのだと思う。でも、いつもと違ったのは、その情景の中に俺がいた事だった。

 母さんの視界だと思った。しかし、それは間違いだった。母さんの苦痛に歪んだ顔も、その中に映っていたからだ。


 口から溢れ続ける血液が、致命傷だという事を物語っている。

 目に光はなく、顔中にガラス片が突き刺さっていた。俺が覚えているのとは違う。だって、俺が最後に見た母さんの顔は、死化粧を施された穏やかなモノだったから。


 ――生きたい?

 血を吐き出しながら苦しそうに、母さんが問いかける。

 

 ――こんな世界でも、生きていたい?

 今にして思えば、それは母の声だった。



 ――明日からいい子になりますから。

 声がする。それはあの日の俺の懇願で。


 ――もう二度と野良猫をイジメたりしませんから。

 朦朧とした意識の中で、迫り来る終わりに怯えたその声音。


 ――他の人たちがみんな死んでもいいですから。代わりにお母さんが死んでもいいですから。だから、僕だけは殺さないで下さい。

 その後何年も悔恨に苦しめ続けられる事も知らずに、愚かにも願ったのだ。


 母さんが小さく微笑んで、唇を開いた。そこで、引き戻される。


 瞬きをしていなかったのだろう。呼吸さえも忘れていたのだろう。眼球が痛くて、息が苦しくて、俺はその場に崩れるようにして膝をついた。


「どうした?」

 心なしか嬉しそうに、悪魔が俺の顔を覗き込んでくる。


「……フラッシュバックした」

 譲原に助けられて以来、久しく悪夢を見ていなかったからさすがに堪える。

 自分の醜さと愚かさに、苦笑しか浮かばない。清廉潔白である事なんて望まないけども、誰かの力になれるようなそんな人間になりたかった。でも、結局のところ俺は人間なんだ、と突きつけられているようで、嘲笑われているようで、どうしようもない感情の奔流に脳みそが追い付かない


「急いだほうがいいと思うけど。またいつ襲われるかもわからない」

「ああ……うん。そうだよな」

 目的地は決まっていた。多分、譲原は旧校舎の三階の外れにある女子トイレにいるはずだ。

 どうしようもない人間だけど。罪深い人間だけども。あるいはもしかしたら、逃げ出してしまうのかもしれないけれども。それでも俺は、譲原の手を掴みたい。きっとそうする事で、縋るだけだったあの日の自分の罪滅ぼしをしたいのだと思う。

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