2章3話 悪魔の子

 譲原の姉と聞いて、一番に連想するのはあの双眸。きっと家族なのだから、同じように鋭い目つきなのだろう。いや、お姉さんなのだから譲原のそれを凌駕するかもしれない。だとしたら、ちょっと怖いなぁという俺の心配は杞憂に終わった。


 市立病院の八階。不思議と誰ともすれ違わぬまま辿り着き、妙な静寂に支配された扉の前に俺は立っていた。名札もないのにどういうわけかここが譲原のお姉さんの病室だという事をしていた。


 引き戸を開く。その瞬間に漂ってきたのは、季節外れの金木犀の香り。それ以外に何の変哲もないその病室には、異様に髪の長い少女が窓際に置かれたベッドに腰かけていた。一歩踏み入ったその刹那、全身の産毛が逆立ったのがわかる。得体の知れないその感覚はきっと、俺の中で眠る悪魔が感じているもの。


「こんにちは」

 髪の長い彼女は花のように微笑んで、俺に向かって白く細い手を指し伸ばす。そこにいるのは手折る事さえできそうな華奢な少女で、譲原妹のような凄味は皆無だ。触れたら儚く散ってしまいそうなそんな危うささえ覚えるのに、どういうわけかもう一歩を踏み出せずにいた。


「譲原がピンチなんだ」

 なんでだろう。声が震える。どうしてだろう。泣きそうだ。悲しいのではない。譲原のような眼光はないけども、何が怖いのかはわからないのだけども、でも、それでも目の前のソレから感じるのは、根源的な畏怖だった。

 例えばそう、夜の海を見て抱くような。

 目つきどうこうに関する憂慮は無意味だったけども、そもそもそういう次元の話ではなかった。


「アレは紛いなりにも神様だから、金属バット一本の薫じゃあ厳しいよねぇ」

 まるで見てきたかのように彼女は言う。、説明は不要らしい。


「俺だけを外に出して、譲原は結界? に閉じ込められてるんだよ」

 くすり、と譲原姉は笑ったかと思えば、ただそれだけで壊れてしまいそうな程に激しく咳き込んで、俺を真っすぐに見据えてくる。


「あの子も馬鹿だよねぇ」

「馬鹿って?」

「キミを見捨てればいいだけなのに」

 これは直感だけども。たぶん、この人はだ。俺を見捨てれば、と言ったからではない。この人の背後で揺蕩たゆたうどす黒いナニカがそう訴えている。あの呪詛の異形によく似ているのは、気のせいだろうか。


「気のせいではないよ。アレと同じモノが私にも憑いているから」

「……どうして」

「薫を呪い殺そうとしたら、呪詛返しされたからだよ。お陰でわたしはもう、長くは生きられない。酷いよねぇ。たったひとりの肉親なのに」

 彼女は苦しそうに胸を抑えながら、骨のような色の顔を俺に向けて、小さく口端を歪める。


「そうだ、薫を困らせようかな。うん、それがいいと思う」

 唖然としてしまって言葉にならない。この人が頼みの綱だった。譲原を救えるのは、この人だけだ。俺がどうこうできる問題でもないし、警察にもどうする事はできない。悔しいけども、認めたくないけども、彼女に頼るしかない。


「いやだなぁ。わたしは薫を助けるよ」

「え? そうなの?」

「だって、そのほうが面白そうなんだもの」

 顔だけを見れば、譲原姉は美少女の類だ。年齢はわからないけども、可憐さと妖艶さを同居させている。

 それなのに不気味に映るのは、彼女の表情が能面を連想させるからだと思う。掴みどころがないのだ。笑っているはずなのに、怒っている風にも、悲しんでいるようにも見えてしまう。だから、気味が悪い。

 

 そんな俺の思考を覗き見たかのように、彼女は目元を緩ませた。


「こっちにおいで」

 まだ入り口から動けずにいた俺に、痣だらけの腕で手招きをする。震えそうになる足に力を込めた。退きそうになる感情を抑えつける。彼女の向こうで、クリーム色のカーテンが棚引くように大きく風に揺らめく。


「薫を助けるには、ソレの力が必要だよ」

 踏み出した足が、宙で止まる。ソレが何を指しているのかは明白だ。


「それでもキミはいいのかな?」

 異様に黒い瞳が、俺を捉える。強い引力でも持っているかのように、その瞳から目を逸らせなかった。否、少しでも逸らしたらその瞬間に首を刎ねられるかのような、そんな錯覚さえ抱かせる眼差しだったからだ。


「――いいに決まってんだろ」

 譲原を助けられるのなら、それでいい。後の事は後から考えればいいのだ。何せ俺は楽観的で、前向きな思考だけが今や唯一の長所ともいっても過言ではない人間だ。何よりも、譲原さえいればどうにかしてくれる――そんな絶大な信頼がある。


 啖呵を切った勢いで、彼女のベッドの脇に移動した。産毛がより明確に逆立って、それどころか襟足までぞわり、と重力を無視する。これは俺の反応ではない。俺の中の悪魔によるモノだ。


「おいで」

 譲原姉の骨のような手が、俺の胸を。痛――くはない。ただどうしようもない悪寒が腹の底で蠢き、反射的に目を瞑った次の瞬間、彼女の手が俺の中から引っ張り出したモノは、黒いおかっぱ頭の少女だった。


「うげぇ……」

 驚きよりもまずは、強い吐き気。自分の胸の中から子供サイズのソレが引っこ抜かれたのだ。今まで経験した事のない嘔気に襲われる。


「想定よりも、大きいね」

 譲原姉も、少しだけ目を丸くしていた。俺も、俺から出てきたソレに目を向ける。背丈は小学校低学年くらいだろうか。黒いつむぎを着た、悪魔というよりは、座敷童とかそんな感じの、瞳だけが燃えているかのように真っ赤な少女だった。


「もっと、こう……妖精サイズだと思っていたのだけど。まぁいいや。このほうが都合がいいし」

「――ウチを引きずり出すとはオマエ何者だ」

 語尾が上がったウチという一人称だった。ソレは俺を睨め付けてから、手刀による攻撃を仕掛けてこようとして――、


「言う事を聞きなさい」

 譲原姉の言葉で、地面に叩きつけられる。


「なんでェ⁉」

 悪魔少女はそんな声を上げて、殺虫剤を浴びたゴキブリのように足をじたばたとさせている。

 譲原姉からは悪意しか感じないけども、とりあえず守ってくれる気はあるらしい。


「薫はあんな性格だから、わたしみたいな人間から結構怨まれているんだよね」

「ウチも怨んでる! アイツ嫌い!」

 それは譲原自身も言っていた。だからその対策のひとつとして髪の毛を染めていると。


「人を呪う方法はいくつもあるんだけども、今薫を襲っているのは恐らく祟り神の類。かの有名な日本三大怨霊と同じね。だから薫でも対処しきれていないの」

「薬屋の前にいた地縛霊が突然変わったんだけど」

「ああ、うん。事故死した人間を依り代にしたんだろうねぇ」

「ウチもオマエをぶっ殺してやる!」

 ケッケッケと笑う悪魔ちゃんを気にも留めずに、譲原姉は続ける。


「仮にも神様だからその力は絶大。本来ならそれ相応の準備をする必要があるんだけど、生憎とそんな時間はないからコレの出番ってわけ」

 コレ事悪魔の少女を指さして、彼女は微苦笑を顔に貼り付ける。


「悪魔っていうのは、仏教なら邪神。キリスト教ならと呼ばれる事もある存在。まあ、端的に言ってしまうと神様に対する特攻装備みたいな感じだねぇ」

「これが?」

「うん、それが」

 床で仰向けのまま無様に暴れまわるその姿からは、あの日対峙したときに感じた威圧感はない。一人称だけ関西チックな女の子にしか見えなかった。


「ウチを馬鹿にしたら殺すぞ! オマエら! ウチは――ッ」

「少し黙っていてね」

「……ゥゥ!!」

 今度は口を抑えて頭を振り回す悪魔ちゃんだった。何をどうやっているのかは判然としないが、譲原姉の言葉には悪魔に対して強制力があるみたいだ。


「だから、ソレを連れて薫を助けに行ってね」

「お姉さんはきてくれないの?」

「そこまでの体力はないよ」

 それはわかっている。病弱とか虚弱とかそういう話ではない。死相とでもいうのだろうか。彼女のすぐ隣には、死が寄り添っているように思えた。でも、譲原がピンチなのだ。彼女にとってみれば実の妹が、だ。


「薄情だと思う? でも、さ」

 やっぱり読心の類だろう。今更それで驚きはしない。彼女がどれだけ奇怪な事をしたところで、受け入れられてしまう気さえする。そういうオーラを纏った人だった。


「わたしが黒幕かもしれないよ」

 俺には彼女の心が透けて見えたりはしないから、その真意は読み取れないけれども、その可能性は決してゼロではなく、それなりに高い数字である事は否めなかった。


「大丈夫。ソレはキミにも逆らえないから。今はまだ、ね」

 含みのある言い方だ。でも、これで譲原を助けられるのなら今はそれでいい。


「さあ、行っておいで」

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