2章2話 呪詛

「先輩の中には、未だに悪魔が眠っています」

 随分と穏やかな顔でそんな物騒な事を言った譲原の視線は、俺の背中に向けられている。商店街から離れてかれこれ三十分。どうやらケロちゃん少年は寝てしまったらしい。


「消え去ったわけではないんです。お陰で、地縛霊を引き剥がすなんていう力技ができたんですけど」

「地縛霊が背後霊に変わってんじゃん」

 妙な寒気と肩の重み。どちらかといえば怖がりな俺からしてみれば実にゾッとする話なのだけども、それでも譲原の指示に大人しく従っているのは、彼女が浮かべる柔和な表情のせいだった。

 あぜ道を軽い足取りで進む譲原は灰色の空を仰ぎながら言う。


「だって、ひとりは可哀想じゃないですか」

 立ち止まって振り返り、俺を見据える。その双眸にいつもの刺々しさはなく、口許もどこか緩んでいるように見えた。ちょっとイイ感じ(漠然)なお店には行けなかったけども、ラーメンすらも食べられなかったけども、まあいいかと思えるくらいには穏やかで心地よい時間だった。


「譲原はひとりで寂しくないの?」

「……先輩は私を何だと思ってるんすか?」

 呆れたように、あるいは諭すように譲原は言う。


「え、何だろう」

 アニメのヒロインにしては人相がすこぶる悪いけども、少なくとも普通の高校生ではないだろう。だって普通の高校生は悪魔とは戦えないし、幽霊だって見えない。刀も持っていないし、ひとりで暮らしていたりはしない。


「私にも家族や友達はいますよ」

「え! いるの⁉」

「当たり前じゃないですか」

「便所飯してるのに⁉」

「あの日はたまたまですよ。だからこそ私は疑問だったんですけど――、いやまあそれは置いておいて」

「ん?」

「先輩が思っている程、私の人生は悲劇的ではないっすよ」

 譲原は再び歩き始める。目的地はこの先、視界に僅かに映り始めた石鳥居のその向こうなのだそうだ。


「だから先輩に心配されるよう――なッ!?」

 え、と思った。譲原の目つきがいつものように否、いつも以上に鋭く尖ったからだ。それと同時に何をどうやったのかわからない速度でバットケースが宙を舞い、鈍色の凶器を譲原が振りかざす。


 ん、と思った。譲原が容赦なくソレを俺に向かって振り抜いてきたからだ。辛うじて反応できたのは、譲原が言うように俺の中ではまだ悪魔が眠っているからなのだろうか。寸前のところで屈んで、その軌道から逃れる。しかし、俺の耳が捉えたのは酷く鈍い衝突音。何かが骨を砕くようなそんな音だった。


 あ、と俺の脳裏にケロちゃん少年の顔がよぎる。やっちゃったかもしれない。だって俺の背中には背後霊と化したケロちゃん少年がいて――……、


「先輩ッ!!」

 そんな俺の心配を吹き飛ばすような咆哮にも似た怒声。いや、怒声なのかどうなのかはわからないけども、譲原の形相から察するに、それに準ずる何かである事は確かだろう。それにしたってこんなに必死な譲原を見るのは初めてだった。

 悪魔と対峙したときでさえ、どこか余裕を醸しだしていたような譲原が、だ。理由はわからないけども、何かヤバイ事が起こっているのだろう。その何かが俺の背後にいるのだろう。

 それにしても随分と思考がよく回る。もしかしてこれって、死ぬ間際のアレなのでは? という俺の不安は、

「ぶへ!」

 右の頬に見舞われた譲原の蹴りによって霧散する。稲の切り株が残った田んぼへと転がり落ちる。え、もしかして俺に怒っただけ? と思った矢先、俺の眼球が捉えたのは、あぜ道で譲原と向かい合う黒い異形。影の集合体のようなソレは、炎のように揺らめく人型。幽霊とは違う。悪魔とも違う。もっと別の、おぞましく、そして恐ろしいナニカだ。

 見ただけで足と歯が震えて、それなのに体は硬直して動かない。思考がとめどなく溢れ出て、半ば混乱状態だ。


 ――声が聞こえる。雨の音が、耳の中に広がる。


そんな俺を譲原は一瞥したかと思えば、一足飛びで向かってくる。


「腹部に! 力を込めて下さい!」

 譲原にも余裕がない事は声色からも表情からも容易に察する事ができた。だから大人しく従ったのだけども、ほんの一瞬で距離を詰めてきた譲原は、どういう訳か俺のお腹に金属バットでフルスイングを浴びせてきたのだった。


「なんでぇ……!!」

 あ、これダメなヤツな気がする。内臓が壊れた気がする。口からよからぬモノが吐き出そうになるのをギリギリのところで堪えて、涙の溜まった瞳で譲原を見る。もちろん何か意図があったのだろう。でも、もう少し手加減は出来たのではないだろうか……。


「動けますね?」

「え、ちょっと無理なんだけど」

 無理と言ったのだけども、譲原は俺の手を引いて走り出す。しかし不思議と足は動くし、頭の中もさっぱりした。だからこそ理解できたのだけども、どういうわけか風景が変わっていた。

 足許から響く摩擦音。走りながら流れる景色は田園風景ではなく、よく見知ったモノ。どうしてだろうか。どうして俺たちは学校の廊下を走っているのだろう。


「すんません、先輩。私のミスです」

 振り向いて、アレを確認する。ソレは一歩もその場から動かずに、腕なのか何なのかわからないモノをこちらに向かって伸ばし続けている。うねりながら、波打ちながら、その黒いナニカは高速で迫ってきていた。


「ミスっていうか! そもそもアレはなに⁉ めちゃんこ怖いんだけど! あとお腹痛いし! なんでか学校だし!」

「アレは人を殺す為の呪詛の類です。あの少年に植え付けられていました。トラップにまんまと引っ掛かった感じですね」

「人を殺すの⁉」

 勇気を振り絞ってもう一度見返す。……うん、そりゃあ殺すよな。あの姿形で人に優しかったら逆に怖いけども。


「私はともかく、先輩は触れられただけで死にますね。あとあんまり直視しないで下さい。それだけで正気に戻れなくなりますよ」

「えぇ……なにそれぇ……やだぁ」

 譲原と行く予定だったラーメンかよってくらいにマシマシな殺意だった。


「倒せるの⁉」

「無理ですね。呪詛返しはちゃんとした手順と方法を用いないとダメです! しッ!!」

 言いながら、譲原は右手でバットを振るう。伸びてきていたソレは弾かれて、廊下の窓ガラスが飛び散った。


「一発祓うだけでこの通りっす」

 バットが廊下を転がる。グリップには大量の血。辿るように譲原の右手を見れば人差し指はあらぬ方向へと曲がり、五本の指全ての爪が剥がれてしまっていた。


「見るだけで痛いヤツじゃん! それ!」

 階段を半ば飛び降りるように下の階へと移動して、再び廊下を疾走する。足首と膝がジンと痛むけども、譲原の状態を思うと情けなくて言い出せなかったので、黙って動かし続ける。


「なので、先輩……。少しだけ、手を、貸して、もらえますか?」

 譲原の息が随分と荒い。そりゃあ指があんな事になっているのだから当然と言えば当然なのだけども、譲原のこんな姿を見るのは初めてだったから、どうしたって動揺してしまう。言葉をうまく吐き出せなかったので、三回首肯した。


「ありがとうございます」

「お前、目が」

「ああ……、右目も、やられたみたいですね」

 譲原の眼球から流れ出る血の涙にゾッとする。攻撃を食らったわけではないのに、こんなにもダメージを受けるモノなのだろうか。触れられただけで死ぬという譲原のセリフは、決して脅しや冗談の類ではないのだろう。


 譲原が立ち止まるのに合わせて、俺は転んだ。自分の実力以上のスピードで走っていたせいで足が思い通りに動かなかった。


「先輩が入院していた市立病院の八階に、私の姉がいます」

「譲原の姉ちゃん?」

「力を貸してくれる、かはわからないですけど、彼女の、ところに行って下さい」

 崩れるように廊下に座り込んで、譲原は俺を見上げる。


「ここは結界の中ですけど、まあ……先輩なら、今の私でも出してあげられます」

「出してあげられるってお前。今の譲原を置いてなんて行けねぇよ」

 右腕はボロボロで、片目も塞がっている。立つ事はおろか、喋る事さえも辛そうな状態だ。


「そういうのは、いいですから。先輩がいたところで、足手まといにしかならないんです。私を、助けたいと思ってくれるのなら、大人しく指示に従って下さい。それが、唯一の方法なんです。私ならとりあえず、大丈夫ですから」

 わかった、とは言えなかった。でも、拒否だってできない。だって、譲原はきっと正しい。今の譲原と俺を比べても尚、俺は足手まといにしかならない。さっきだって、譲原がバットでどうにかしてくれなかったら死んでいたのは俺だったはずだ。


「目を瞑って下さい」

 だから俺は言われた通り目を瞑る。耳元で譲原が何かを囁く。日本語でも英語でもない、まるで聞き取る事のない言語だった。そのすぐ後に、体が妙な浮遊感を覚えて、明確に辺りの匂いが変わった。

 目を開けると、そこはさっきまで二人で歩いてはずのあぜ道で、けれども譲原の姿はここにはなくて、夢だったのではないかとかそんな事を考えてしまうけども、俺の上着には、確かに譲原の血がついている。


 急がなければならない。譲原のお姉さんに会って、譲原を助ける方法を教えてもらわなければ。

 俺は疲労感を訴え続けるふくらはぎを叩いてから、走り出した。今度は俺が譲原を助けるんだ、という決意を胸に。

 

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