1章4話 祓い
飛び散ったガラス片が視界いっぱいを埋めるその光景を、奇麗だと思った。
その次の瞬間には意識を失って、人のうめき声でようやく目を覚ました。
誰かが泣いている。
誰かが助けを求めている。
雨が降っている。誰かの声が聞こえる。
――ここにいる人間が死んだっていい。だから、どうか。
それが夢だということに気がついたとき、俺は見知らぬ部屋の天井を見ていた。
体が重たいし、頭が痛い。
部屋の外から聞こえる小鳥の囀りがやけにはっきりと聞こえた。どうやら俺は生きているらしい。それも、どういうわけか五体満足の状態で。
起き上る。眉間に鈍痛が滲むように広がったが、それ以外に問題は見当たらなかった。いや、それどころか不思議と心が晴れやかだった。
こんなにも穏やかな気持ちになるのは、いつ以来だろうか。少なくとも記憶にはなかった。
まるで憑きものが落ちたかのような気分だ。
が――それは長くは続かなかった。部屋の襖を開けて、怪人金属バットが現れたからだ。
俺は跳ね起き、即座に臨戦態勢に入る。
力がまるで入らなかったが、大人しく寝ていられるほど、俺の肝は据わっていない。迷う事なく右の拳を彼女の額に叩き込んで、それはどういうわけかものの見事に決まった。
拳から腕に、腕から背骨に、その衝撃が伝播する。まさに会心の一撃だ。
試した事はないけども、そこらの岩ぐらいならば簡単に破壊できるはずの攻撃を、しかし譲原薫は額で泰然と受け止めて、ピクリとも動かなかった。
「気は済みましたか?」
その問いに、俺は唖然としたまま頷いてしまう。
「まだ理解できていないみたいですね」
それにも頷く。何がなんだかわからなかった。
どうして彼女が俺の攻撃を受けて立っていられるのか、どうして彼女がこの場に現れるのか、どうして俺がまだ生きているのか、何一つとして理解できていない。
「まあ、とりあえず。局部だけでも隠したらどうですか?」
「おっ、おうわ!?」
裸だった。
そんな事にも気づかないほど、俺は混乱していたらしい。
布団を拾い上げて、体を隠した。譲原薫はそんな俺に冷ややかな目を向けて鼻を鳴らした。
「あなたの悪魔と化していた部分を切除しました」
「――悪魔」
「そう、悪魔。殆ど自覚なんてなかったのかもしれないですけど、九割方、悪魔になっていたんですよ、あなたは」
いや、自覚はあった。そういう焦燥が常に胸の奥にあった。
自分が徐々に、しかし着実に侵食されていく。まるで背中で虫が這いまわるようなそんなおぞましい感覚が寝ても覚めても離れなかったのだ。
それが今は綺麗になくなっていた。だからか――こうもスッキリとした心地なのは。
「ありがとう」
怪人金属バットは。譲原薫は俺の敵ではなかったのだ。
そうとわかって感謝を告げざるを得なかった。
「止めて下さいよ。私は別にあなたに感謝されるようなことはしていないので」
素っ気ない態度で、それどころか本当に迷惑そうに、譲原薫は首を横に振った。
「じゃあとりあえず帰るわ。礼は今度するから」
叔父さんが心配しているはずだ。
どれだけ眠っていたのかは判然としないが、とにかくまずは一旦家に帰る必要がある。
「帰るってどこにですか?」
「どこって家だけど」
譲原なら俺の家庭事情くらいは知っていそうだから「叔父さんの家」と付け足した。
「そんな姿でですか?」
「お、おう……⁉」
忘れていた。ほんの数十秒で自分が全裸だという事を失念してしまった。
どうにもまだ頭が本調子ではないようだ。枕元に畳まれていたトランクスを穿いて、壁に掛けられていた制服に袖と足を通した。
これで問題はないはずである。
「じゃ――」
軽く手を挙げて、立ち去ろうとした俺の肩を譲原は強く掴んで引っ張った。
「だからどこに行くつもりなんですか、あなたは」
「だから叔父さんの家だよ。遅くなる時は連絡を入れるように厳しく言われてるんだよ。やべぇよ。いきなり無断外泊だよ」
叔父一家との関係は良好だった。恵まれていると思う。
「まだ事態を飲み込めていないようなので、鏡の前にきて下さい」
半ば強制的に、隣の部屋まで移動させられた。
そこは八畳程の和室で、恐らくは譲原薫本人の部屋なのだろう。
本棚や学習机にベッド、それから衣類が散乱した妙に生活感のある一室だった。そこにあった姿見の前に立たされる。
寝癖が酷いのかな? と後頭部の辺りを弄りながら鏡を一瞥した俺は、暫くの間呼吸も忘れて鏡を凝視し続けた。
鏡経由で背後にいるはずの譲原と目が合う。相も変わらず鋭い目つきだ。
うっかりしていると財布を差し出してしまうほどに強烈な眼光である。
「わかりましたか?」
「やべぇ……わからない」
瞼を擦る。鏡を撫でる、叩く。その場で跳んでみる。
「もしかしてこれ壊れてる?」
「壊れてないっすよ。つうか、鏡が壊れるって何ですか。割れていないのだから大丈夫ですよ」
「あれれー?」
うーん、うーん、と頭を抱えてその場に蹲った。
どうして俺は鏡に映っていないのだろう。
後ろの譲原は映っているのに、どうして俺だけ映らないのだろう。
着ているはずの制服もどういうわけか見当たらない。
「あっれぇ……俺、もしかして死んでる?」
頭の血管に冷水を流し込まれたかのように、鋭利な痛みに襲われる。目の前で起こっているその不可解な現象に、なんだか泣いてしまいそうだった。
「安心して下さい。生きてますよ」
「じゃあ、どうして?」
情けのないことに涙声で質問をする。
息が震えた。途轍もない不安に襲われた。
「だから言ったじゃないですか。あなたの悪魔と化していた部分を切り刻んだと。そしてあなたは九割方悪魔になっていたと。つまりは今のあなたはその残り滓でしかありません。普通の鏡はおろか、常人の目にも映りませんよ」
「え……それ死んでね? 半殺しの時点で大体は瀕死なのだから、九割殺しってなったらそれはもうやっぱり死んでるんじゃね?」
「だから生きていますよ」
「じゃあ俺はどうすればいいのさ? 教会にいってお祈りでも捧げるか?」
「だからあなたは生きてますってば」
「ちょっと待ってね、うん……ごめん、飲み込めない」
「あなたって悪魔補正がないとそんなに馬鹿だったんですか?」
間違いなく軽蔑しているとわかる視線が、鏡越しに俺を貫いた。
「あなたは悪魔に願い続けた。そしてその都度、人間から逸脱していった。いや、人間の部分を捨てていった。悪魔との契約というのはそういう類のものなんですよ」
――今度は何を捨てるんだい?
その声の意味がようやくわかったのだから、譲原が言うように俺は馬鹿なのだろう。
「身体能力、頭脳、あらゆるものを望んだその対価に、悪魔はあなたから人間の部分を奪っていったんです。この前、私は忠告しましたよね。その時既に、あなたは殆ど人間ではなかった。そしてその次の日の事故。それでほぼ悪魔に堕ちてしまっていたんです」
譲原薫が俺を睨みつける。
あの時感じた殺気。それに似たものが俺の喉を握り締める。
「でも、どうやら完全ではなかった。良心が辛うじて残されていたみたいですね」
「いやいや、俺の両親はとっくに死んでるけど」
「アホなんですか? 良心ですよ、良心。良い心と書いて良心」
「ああ、それな! つまり今の俺は良心の塊という事だな」
……うん、わからん。それでこの後どうすればいいのかわからん。
「透明、か」
「透明っすね」
「じゃあまずはちょっくらスーパー銭湯に行って落ち着いてくるわ」
「念仏唱えて強制的に成仏させますよ」
「ちょっ!? やめて!? つうか俺やっぱりそれ死んでるんじゃね!?」
振り返って譲原を見据える。あ、目を逸らしたぞ。
「ねぇ! やっぱり俺キミに殺されてんじゃん! ちょっとー! どうしてくれるの!?」
「まあ……、人によってはあなたを死んでいると答えるかもしれないですけど」
「死んでんじゃん。やべぇよやべぇよ、どうするんだよ……」
目の前が真っ暗だ。
幽霊は否定派だったのだけども、まさかこの俺自身が生き証人になるなんて――あ、俺死んでるんだったわ。
まったく笑えなかった。無理やり明るく振舞おうにも絶望的な状況だった。
「あれ? ちょっと待てよ」
「どうしました?」
「俺の肉体はどこにあるんだ? やめてよ? 既に墓の下とか言われても俺は受け入れられないからな!」
「……うぜぇ」
「ええ!?」
明らかに俺に聞こえるような音量で舌まで鳴らした譲原に俺は怖気づいた。
元々ヤンキーみたいな風貌な彼女のその態度に気圧されてしまう。
「悪魔補正のないあなたって凄くうざいですね」
「悪魔補正悪魔補正ってなんだよ。これが俺の素だよ! ありのままの俺だよ」
まるで苛立ちを鎮めるかのように譲原は大きく息を吐いた。
「あなたの体はちゃんとあります」
「どこに?」
「あなたの家に?」
「え? もしやお葬式の真っ最中とか?」
「違いますよ。普通に生活しています」
「え、待ってね。俺は俺だよな?」
記憶を辿る。問題はない。俺は匂坂ナルミ本人だ。
それならば家にいるという俺は?
「あなたの家で、何食わぬ顔で生活しているのは悪魔ですよ」
「はっはーん。ようやく繋がったぜ」
納得だった。随分と話が右往左往としてしまったがそういうことか。
俺に化けた悪魔から俺の肉体を奪い返せばいいのだろう。
「あなたの所為で時間がかかったんすけどね」
「でもそれなら早く奪い返さないとヤバイだろ。俺の評判が下がったら不味いぜ」
転校してから暫くは「なにあの転校生」だった周囲からの評価も、
その苦労や師岡の優しさを裏切るようなことはしたくない。
「ああ、大丈夫っすよ。あなたよりもうまく立ち回っていますから。かれこれ一か月ほど」
「うん、ちょっと待ってね。一か月?」
一か月。要するに三十日あるいは三十一日。その一か月の事だろうか。
それとも良心と両親で間違えたように、何か他の意味の言葉だろうか。
「あなたは一か月近く眠っていたんですよ」
ズボンのポケットに入っていたスマホを急いで確認した。電源が切れていた。
そんな俺を見て譲原がスマホを貸してくれたので、日付の部分を確認する。
「マジじゃん」
本当に一か月が経っていた。それどころか年が明けていた。
「え、というか誰も入れ替わったことに気づいてないの?」
「はい、恐らくは」
現実を受け止めきれずに、鏡と譲原薫から顔を反らした。
昼間だというのに、カーテンどころか雨戸の閉まった薄暗い和室を眺める。
女子の部屋に入った経験がないので何とも言えないが、何の変哲もない、些かだらしのない普通の部屋だ。
化け物を凌駕するその強さや、俺のことを見抜いていたその慧眼から抱いた想像とは違っていた。
何せ怪人金属バットである。
もっとおどろおどろしいものをイメージするのが普通だろう。
「……むしろ彼らは、今のあなたの方に違和感を覚えるんじゃないですかね」
ベッドの足許に落ちていた女性ものの下着を見ていた俺の視線を遮るように、譲原の三白眼が現れる。
「運動もできない、勉強もできない、何の取り柄もないスケベ野郎。それが今のあなたなのですから」
「そうは言われても俺の現状の正確なスペックがどんなかわからないんだけど」
テストの答えは全てがわかった。
やろうと思えば六法全書も暗記できたし、あらゆる言語を喋ることだって可能だった。
脚力は野生動物のそれすらも軽く上回り、膂力はまさしく化け物のそれだった。
そんな自分の能力に慣れていたせいか、今はいやに体が重たく感じる。
「まあ、凡人ですよね。スペックに関してもそうですけど、まず第一に性格が違ってしまっていると思うんです」
「確かに以前の俺は性欲とかまるでなかった気がする。何度か可愛い子に告白もされたんだけど普通に断ってたし――……、断ったのをなかった事に出来るかな?」
「いや、無理じゃないですか、普通に」
「普通に無理かぁ」
譲原に指摘されて改めて思い知った。あの頃の俺は、俺ではなかったのだと。
もちろん記憶はあるし自覚もあった。でも思い返してみると人格さえも悪魔のそれになっていたことがわかる。
そんな中でも師岡と一緒にいた時だけは、ほんの少しだけではあるけども自分を取り戻せていたような気もする。
「どうすればいいの?」
どうすれば元に戻れるのだろうか。
至極真面目に尋ねた俺に対して、譲原はその場であぐらを掻いて、向かいに座るように促してくる。
「体を返してもらいます」
「どうやって?」
「お願いして」
「そんなお願いを聞いてくれるようなヤツなの?」
お願いして返してくれるような、そんな話のわかる相手なのかは甚だ疑問である。
「悪魔と正面からやり合って勝てると思いますか?」
「譲原なら勝てるんじゃねぇの?」
少なくとも俺は赤子の手を捻るが如く簡単に敗北した。
それだけの戦闘力の持ち主だった。今ならば不良二十人を病院送りにという嘘みたいな話も信じられる。
「下手したら瞬殺っすね。次元が違います。だからお願いするしかないんですよ。我々は」
「返してくれなかったら?」
「別に私は困りませんからねぇ」
他人事だった。
まあ確かに譲原にとっては他人事でしかないのだけども、俺としては一大事も一大事である。
「まあ……あなたに居つかれても迷惑なんで、少し話を聞かせて下さい」
「話って? 恋バナとかは無理だぞ」
「誰があなたの恋バナを聞きたがるんですか。アホっすね。私は事故のことを、悪魔のことを聞かせて欲しいんですよ」
事故の話。そう言われても何から話せばいいのか、何を話せばいいのか俺にはわからない。体験談でも語ればいいのだろうか。
誰かの叫び声が聞こえたこと。
次の瞬間、窓ガラスが飛沫のように飛び散ってきたこと。
そこで意識を失ったこと。
目を覚ました時、目の前に誰かの上半身が垂れ下がっていたこと。
あの日の地獄のような光景は、今でも明瞭に覚えている。臭いが思い出せる程に。
「事故の詳細は一応調べてあります。乗員、乗客合わせて三十六名が亡くなり、生存者はあなただけだった。当時は奇跡の子って少しは騒がれたらしいですね」
長い間、病院に入院していたので、あの事故を世間がどういう風に扱っていたのかは知らなかったし、退院した後も調べようとはしなかった。
ただ警察の話では、バスは爆発して炎上したのだという。そのせいで大勢の人が亡くなった。
「爆発炎上した車内から、どういうわけか奇跡的に助かった少年。それがあなた――匂坂ナルミだった」
「――願ったんだ」
今にして思えば悪魔に。
「どのように願ったんですか?」
「みんなが死んでもいい。母さんが死んだっていい。だから俺だけは殺さないで下さいって、そんな感じかな」
出来るだけ軽い感じでそう答えた。
譲原は険しい顔で頷くだけで、俺を責めたりはしなかった。
師岡ならどうだろう。師岡なら叱ってくれるかもしれない。いっそそうしてくれた方が気が楽だった。
「悪魔があなたの願いを叶えるようになったのは、それからっすか?」
「ああ、うん。それを除けば最初に叶えてもらったのは次の年の運動会。徒競走の時だ」
少しでも祖父にいいところを見せたくて、神様に――いや結果的には悪魔にお願いしたのである。
その結果、ぶっちぎりの一位だった。担任教師が目を丸くしていたのを覚えている。
「それからも色々なものを願い続けたんですね」
「ああ、うん」
「事故は七年前ですっけ」
「七年前の十月だ」
今はもう一月なので正確には八年目に突入した。
「七年、ですか」
もう七年というのが個人的な感想だった。あっという間だった。
「はい、わかりました。では行きましょう」
「行くってどこに?」
「悪魔のところに」
立ち上がった譲原は、そう言って不敵な笑みを浮かべた。
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