1章3話 堕ちる
「それは
翌日、怪人金属バットとやらについて尋ねた俺に、師岡はそんな名前を出してきた。
「ユズリハラさん? え? なに? 誰?」
「
一年生の譲原薫。俺のから揚げを咀嚼する師岡を凝然と見ながら次の言葉を待った。昼休みの喧騒がどこか遠くに聞こえるのは、昨日の彼女――つまりは譲原薫とやらの言葉のせいだろう。
あれから逃げるように家に帰って、布団に潜りながらアレコレと思考を巡らせていた。
彼女の忠告の意味とか、彼女がナニモノなのかとか、色々と考えたのだけども、結局答えが見つかるはずもなくて、こうして師岡に質問をしているのだった。
「有名だよ?」
「怪人金属バット=譲原薫?」
「イエース」
師岡は再び俺の弁当箱に箸を伸ばして酢豚を口に運ぶ。
師岡と昼食を食べるのは初めてだったが、チビなのに食欲旺盛だという事がわかった。
「川の向こうに工業高校があるでしょう?」
「うん」
不良の巣窟と呼ばれる高校だ。鉄パイプを持ったそこの生徒を見かけた事がある。
「そこの不良と喧嘩して、二十人を病院送りにしたっていう伝説の持ち主なんだよ」
「いやいや、それはさすがに盛り過ぎだろ」
格闘技経験者でも二十人相手に立ち回れるとは思えない。
そんなのは現実的ではない。
「本当だよ? 彼女それで無期限の停学になったから。警察沙汰にもなったはずだし、そこから尾ひれがついて怪人金属バットは誕生したのですよ」
そういえば――と思い出す。言われてみれば彼女はうちの制服を着ていた気がする。上が紺色のカーディガンだったからあの時はわからなかったが、灰色のスカートは確かに、うちの学校の制服だった。
「え、じゃあ今もいるの?」
「いるんじゃない? 見に行く?」
「いや、大丈夫間に合ってます平気です」
出来る事ならば二度と遭遇したくなかった。そういう相手だった。
でもそれと同時に、彼女ならばどうにかしてくれるのではないだろうかという思いがあるのも確かだった。
始まりは、あの日の事故。
あの日、願い、生き長らえたその代償。
雨が降っている。その向こうで声がする。
――今度は何を捨てるんだい?
年齢も性別さえも判然としない、薄膜の掛かったその声が問いかけてくる。
その頻度は、日を追うごとに増えていった。
その声は、俺の願いを叶えてくれる。
俺の望みに応えてくれる。
例えばそう、今の身体能力もそうして手に入れたものだった。
最初は嬉しかった。
最初は神様だと思った。
不幸に見舞われた俺の為に、神様が願いを叶えてくれているのだと、そう思ったのだ。だって、そうじゃなければ理不尽だ。だからこれは、帳尻合わせの一環なんだと本気で考えていたのだから、救いようのない馬鹿だと思う。
誰よりも足が速くなった。
誰よりもテストの点が良くなった。
際限などなかった。
ただ一つを除いて、どんな願いでもソレは叶えてくれた。
途轍もない万能感。自分は選ばれた人間なのだと勘違いしていた。
――祖父が死ぬまでは。
その日、些細な事で祖父と喧嘩した。
切っ掛けなんて忘れてしまうくらいにどうでもいいことだった。
本心ではなかった。
それは本当だ。
でも、思ってしまったのだ。
祖父ちゃんなんて死ねばいいのに――と。
そうして、祖父が亡くなった。
俺はその訃報をカラオケ店で聞いた。
俺が殺したのだ。
また、俺が殺してしまったのである。
そこでようやく悟った。
この声は神様のモノじゃない、と。
でも、もう手遅れだった。
どんなに願っても、死んだ人間は生き返らない。
罪は償えない。
日増しに、声は大きくなっている。
今もずっと、その声は俺の願いを、望みを、待ち続けている。
最近ではふと思ったことでさえ、叶ってしまう始末。まるで悪質業者だった。
その都度、俺は人間から逸脱していく。浸食されていく。
「駄菓子屋に行こうぜ!」
目の前で師岡がウインクをしていた。
俺は師岡に救われたのだ。彼女のその微笑みに、俺は幾度も助けられた。
師岡がいなかったら、俺は今も荒れたままだっただろう。いや、あるいは。とっくに化け物になっていたかもしれない。
「百円までなら奢ってあげるよ」
ケチなのか太っ腹なのかわからない申し出だった。
「じゃあ俺は二百円まで奢ってやるよ」
「ケチだね、テンコーセーは」
「ええ!?」
靴に履き替える。その駄菓子屋は学校のはす向かいにある。
一応、校則違反ではあるのだけども、多くの生徒が昼休みに学校を抜け出しては駄菓子を買っている。
見回りの教師がいないことを確認して、正門を後にする。
まるでゲームのキャラクターのように、移動手段が徒歩ではなく小走りの師岡が道路に出た。
その刹那、クラクションが鳴り響く。心臓を鷲掴みにされたような心地だった。
俺は目を見開き、そして師岡を見た。彼女のすぐそばに、ワゴン車が迫っている。
ヤバイ、と思った。このままだと師岡は間違いなく轢かれる。
師岡の華奢な体は簡単に壊れてしまうだろう。横転したバスの車内の光景が蘇る。
ヤバイ、と思った。
もう次はないかもしれない。もしもまたこれで願ってしまったら。
もう人間には戻れないかもしれない。
もう二度と日常には帰ってこられないかもしれない。
俺は瞑目する。
天秤に掛けるまでもなかった。
その程度の代償で師岡の命が助かるのなら、安いものだろう。
俺は願うと同時に脚に力を込める。
バネをイメージして地面を蹴った。
風が頬を叩く。
髪を引っ張る。
全力で走るのは何年振りだろう。
軽く走っただけで世界記録を叩き出してしまうからいつも加減が難しかった。
そのリミッターを解除して、道路に飛び出した。
固まったまま動けずにいる師岡の
このまま突っ切れる――そんな思考を、眼前に迫った鉄の塊が嘲笑う。
衝突する。
激しいブレーキ音にビビりながら、俺は師岡を抱え込んだ。
瞼を強く閉じる。背中を強い衝撃が襲った。一つ息を吐いて、目を開ける。
ワゴン車は道路の真ん中で止まっていた。
フロント部分が凹んでいる。どうやら俺に衝突して、凹んだらしい。俺自身に怪我はない。脂汗で学ランの下のワイシャツがびっしょりと濡れてはいたが、かすり傷一つなさそうだった。
それは師岡も同じだった。意識こそ失っていたが、目だった外傷もない。
良かった。そう安堵したのもつかの間、頭上で悲鳴が聞こえた。
運転席の男はエアバックに埋もれるようにして意識をなくしていたが、助手席の男が、額から血を流しながら化け物に怯えるような目で俺を見ていた。
――殺さなければならない。
そんな考えが脳裏を過る。
殺さなければ、取り返しのつかないことになってしまう。
そんな焦燥が胸を叩いた。腕に力を込める。今の俺の腕力ならば人間を軽く引き千切れるだろう。指紋さえ残さなければ。目撃者さえいなければ。人間がやったとは思われないはずだ。
それならば。
男を鋭く睨んで立ち上がる。その時、腕の中で師岡が小さな声を漏らした。
「匂坂、くん」
それは空耳だったのかもしれない。
でもそう呼ばれた気がした。
俺は我に返り、そして途端に恐ろしくなった。
自分の思考に寒気がした。
俺は今、何をしようとした? その自問に、答えはすぐに返ってきた。俺は人を殺そうとしたのだ。
発狂しそうだった。
すぐにでも走り出してしまいたかった。俺は師岡を駄菓子屋のベンチに寝かせて、そのまま感情に従った。
道路を走る。自転車よりも速く、車よりも速く、電車よりも速く、駆け抜ける。
目的などなかった。
でも走らずにはいられなかった。
もはや化け物と化した自分に吐き気を覚える。
電柱の天辺まで一息で跳躍する。
町を見下ろした。馴染みなどはない。知らない場所ばかりだ。
山のほうに行こう。
山奥でひとりで暮らそう。
それなら誰にも迷惑は掛けないだろう。
「いやぁ、すげぇっすね。紛う事なき化け物じゃないですか」
声がする。でも、あの声ではない。
それは昨日、耳元で聞いた――怪人金属バットの声音だった。
軽蔑するような、あるいは見下すようなその語調。俺は振り返る。近場の電柱に、彼女が立っていた。
痛々しい黄色い髪の毛が風に揺れている。
右手には金属バット――ではない。日本刀のようなモノが握られていた。
「俺は……! 化け物なんかじゃない」
「化け物ですよ」
すぐさま彼女は断言する。
「だって普通の人間はこんな高さまでジャンプできませんもん。走り高跳びどころか、棒高跳びの世界記録じゃないですか、コレ?」
彼女は額に手を当てておどろけるように眼下を見渡した。
「それなら、そういうお前だって化け物じゃないか」
「ああ、私ですか? 私はこれ、頑張って登ってきたんで。一緒にしないで下さいよ」
俺は彼女を――譲原薫を睨み据えた。
日本刀を手に待ち伏せして、いったいどういうつもりなのか。
尋ねるまでもなかった。
彼女は俺を殺しにきたのだ。
「だから言ったじゃないですか、私は。まあ、まさか昨日の今日で、こんな状況に陥るとは思いませんでしたが。我ながらナイスタイミングですよね。ん、いや、遅かったかな」
覚悟を決める。
彼女は殺さなければならない。
今度は自分の意思でそう決めた。
俺は獣のように飛び掛かる。それは恐らくはほんの一瞬の、それこそ常人では反応などできるはずのない速さだったはずだ。
しかし譲原薫は俺の攻撃をひらりと避けて、あろう事か一太刀まで浴びせてきた。
地面に墜落する。
右肩から出血していた。痛いよりも熱い。
拍動に合わせるように、痛覚が疼く。いったいどういうことだろうか。
ワゴン車の衝突をものともしない俺の防御力を、彼女の一撃は容易く突き破ってきた。
過呼吸気味に混乱する。状況を飲み込めない。
視界が明滅しているようなそんな感覚に気分が悪くなってくる。
目の前に譲原薫が降りてきた。俺はもう一度、彼女の手の中の獲物を見た。
薄氷のような刀身の、鍔のない白い刀だ。
長さはせいぜい脇差程度だろうか。
とてもじゃないがそれだけの攻撃力を持っているようには見えない。
普通であれば俺の体ではなく、刀身のほうが折れていたはずだ。
「いやぁ、体の使い方を覚える前で助かりました。今ならまだ私でもあなたを殺せますね」
鷹のような双眸が俺を穿つ。殺気――たぶんこれが殺気というものなのだろう。
ぞわり、と首筋に刃物をあてがわれるかのような錯覚。自分の首から噴水のように血が噴き出す、その最期を否が応でも連想させる禍々しい気配。
体が動かなくなる。
死ぬよりも一足先に体が冷たくなる。
昨日は本能が彼女を回避した。でも今日は本能が諦めている。
どう足掻いても自分は殺されると知ってしまったかのように。
そうして俺は。
彼女に全身を切り刻まれて、意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます