1章5話 雪花

 息が白く濁って中空に溶けていく。

 一か月前から既に厳しい寒さではあったが、そこから更にもう一段階気温が下がったように感じられた。


 電柱の陰から我が家を覗く。

 今はちょうど冬休み真っ只中で、俺の生活パターンを考慮すれば家にいるだろうということで、こうしてかれこれ二時間、三叉路の電柱脇で張り込んでいた。


「ん」


 肉まんをくわえた譲原が、そんな反応を示したので俺も身を乗り出した。


「お、あの超絶イケメンはもしかして――」

「え? 何処っすか? イケメンは」

「…………」


 しかし不思議な気分だった。

 こうも客観的に自分を眺める機会なんてこの先二度と訪れないだろう。

 鏡や写真で自分を見るのとは大違いだった。

 正直な話、他人としか思えないが、玄関から出てきたあの男は間違いなく俺である。



「……本当に入れ替わってるんだな」


 今更ながら実感して気分が悪くなる。


「きましたね」


 匂坂ナルミもとい悪魔が迫ってくる。

 俺たちに気づいているのだろう。その顔には意地の悪そうな笑顔が張り付いている。


「やっぱりお前か」


 悪魔が立ち止まる。心臓が早鐘を打つ。

 自分の顔のはずなのに、自分の双眸のはずなのに、恐怖を覚えてしまう。

 否、自分のモノだからこそ余計に怖いのかもしれない。不気味に思うのかもしれない。


 産毛が粟立ったのがわかる。

 背筋をいやな汗が流れたのがわかる。出来る事ならば逃げ出したかった。



「まさか自分から現れるとは思いもしなかったぞ」


 俺を見据える悪魔。それを遮るように譲原が体をねじ込んだ。


「この人の体から出て行って頂けませんかね」


 譲原の発言に、悪魔は目を丸くする。そして笑い声を上げた。

 その声に俺は震え上がってしまう。しかし譲原は泰然とそこに仁王立ちしていた。


「出て行く理由はない。俺は今まで散々、そいつの願いを叶えてやったのだ。当然の見返りだろう?」

「全部返したじゃないですか」

「ああ、そうだな」


 悪魔は自分の体を――俺の体を見下ろして首肯した。


「お陰でお前たちなど造作なく殺せる」


「やっぱり無理か」


 譲原が小さくそう漏らして、俺は動揺せざるを得なかった。

 譲原は言っていた。悪魔には勝てないと。瞬殺されるかもしれないと。

 そして今ならばわかる。目の前のそれが、そう評価されるに値する怪物であることを。


 それならどうなる? 悪魔は俺に成り代わろうとしている。

 それはつまり俺は不要ということだ。邪魔ということだ。となると悪魔は俺を殺すだろう。


 その結論に至った時、譲原が俺の肩を掴んでいた。

 端的に言って俺の背後に回って俺を盾にしていた。


「ええっ!?」


 譲原が矢面に立ってくれるのかと思いきや、彼女は俺を身代わりにするつもりだ。

 もっとも譲原には俺を助ける義理などないのかもしれないが、しかしその突然の裏切りに思わず間抜け面を晒してしまう。


 その間抜け面で俺は見る。悪魔が腕を振り上げたところを。


 ――殺される。


 反射的に腕で頭を庇って目を瞑った。

 避けようとか、反撃に転じようとか、そんな気概は持てなかった。


 己の死の瞬間をただただ待ち続ける。しかし、待てども待てども衝撃は襲ってこない。


 俺は薄目で様子を確認した。そこには依然として悪魔が立っていて、けれどもその顔は驚愕に歪んでいた。

 何が起こったのだろうか。何だかんだで譲原が助けてくれたのだろうか。


 頭への防御を保ったまま完全に目を開ける。目の前に腕が伸びていた。


 それは俺の腕だ。その腕は俺の顔へと伸びて、俺の頬を撫でている。

 愛おしそうに。壊れ物を扱うかのように。


 その温もりを俺は知っていた。無論、俺のモノではない。

 その手を、その指先の温かを俺は知っている。






 ――お世辞にも、褒められた母親ではなかった。





 家庭を顧みない仕事人間で、一人の社会人としては優れていたのかもしれないけど、一人の親としては落第点のような、そんな人だった。

 母さんとの想い出なんて殆どないにも等しかった。


 そんな母さんが、何の気紛れか遊園地に行こうと言い出した。

 恐らくは自分が行きたかったのだろう。思春期の真っ只中で、渋い顔をする俺を半ば強引に家から連れ出して――そして事故に遭った。


 結局、それで終わりだ。


 でも、それでも。頬を撫でるその温もりだけは覚えていた。

 夜遅くに仕事から帰ってきて、ベッドで眠る俺の頬を撫でるその姿は、夢現に覚えている。


 最期だって、そうだった。



 悪魔が飛び退いた。

 俺との距離を取って、今度こそ俺を殺そうと尖らせたその手を繰り出してくる。


 でも、やっぱりそれは眼前で止まった。


「やっぱりそうっすよね」


 肩越しにその声を確認する。

 今の今まで俺の背後に隠れていた譲原が、肩からひょっこりと顔を出してそんな事を言い始める。


「おい、俺を盾にしただろ」

「おかしいとは思っていたんですよ」


 俺の苦情を華麗にスルーして、譲原薫は続ける。

 俺の目を見ようともしなかった。


「どうして肉体を奪う為だけに七年もの歳月をかけたのかわからなかったんです。だってそうでしょう? それだけの力があるのなら強引に奪ってしまえばいいのに」


 確かに妙ではあった。

 俺の体を奪うのが目的なら、俺に成り代わるのが目的ならば、もっと楽な方法があったのではないだろうか。


「そもそも前提が間違っていたんですよ」

「前提?」

「そう、前提。事の始まり。発端にして元凶。あなたは多くの命を犠牲にして生き長らえた」


 血と臓腑と軽油の臭いが充満した車内には、まだ呻き声があった。

 まだ生きている人がいたのだ。あるいは殆どの人がその時はまだ生きていたのかもしれない。


「ああ、そうだよ。俺だけが生き残ったんだ。俺が願ったから。俺がそういう風に祈ったから!」

「違うんですよ」

「違わない」

「違うんです、違うんですよ匂坂さん。あなたは確かに願ったのかもしれない。祈ったのかもしれない。醜く懇願したのかもしれない」

「そうだよ!」


 俺は、俺だけが生き残ればそれでよかった。それ程までに死にたくなかった。

 怖かったのだ。当たり前のように目の前に横たわっていた死が――。今まで無関係だったはずの終わりが、目前に広がっていて、それを意識した時、途轍もない恐怖にかられた。歯が震えて、頭が冷たくなって、眼球が熱くなって、どうしようもなかった。

 今だってそうだ。思い出すだけで、思い出そうとするだけで、鼓動が速くなる。指先が冷たくなって、視界が狭まる。意識せず声を荒げてしまったのも、そのせいだった。


「でも、それは


 俺は無言のまま首を横に振った。そんなはずはない。

 だって、届いたから俺はこうして今も生きている。


「いや、あるいは。ただ一人には届いていたのかもしれませんが」

「一人……?」

「あなたの母親ですよ。あなたの母親には届いていたのかもしれません。もちろんこれに関しては単なる憶測に過ぎないので、とっくに息絶えていた可能性もありますが」


 もしも母さんに俺の声が届いていたのなら――そんなのはあまりに残酷だ。


「あなたのその願いを聞いたからなのか、どうなのかはわかりません。でもどちらにせよ、よ。あなたが死なないように。あなただけでも助かるように。。自分の魂と引き換えに。他の乗客の命も巻き込んで。悪魔に、そう願ったんです」

「――嘘だ」

「だからあなたは助かったんです。だから悪魔はあなたに手を出す事が出来なかった。だってそういう契約だから。だって彼女はあなたの幸福な未来を望んだから」

「嘘だ!」

「あくまで憶測ですが、嘘ではありません。そうでなければ辻褄が合わないんですよ。そうでなければあなたはとっくに死んでいるんです。こんなに面倒な手順を――幸福な未来を望まれたあなたにわざわざ成り代わるなんていう手順を踏む必要がなかったんです」


 思考がショートする。頭の中で火花が散ったように、あの日の光景が蘇る。他の人のことなんてどうでもよかった。

 俺だけがその地獄から助かればそれでよかった。でも――生き残った先に待っていたのは地獄のような罪悪感に苛まれる日々だった。


「俺はどうすればいいんだろう」


 何も考えられなかった。

 何もやる気が起きなかった。そんな俺を救ってくれたのは祖父だった。


 その祖父も俺が殺してしまった。

 それなのに俺は今もこうしてのうのうと生き続けている。


「これを貸してあげます」


 譲原は俺に一本の刀を握らせてくる。

 それは薄氷のような刀身の、白い刀だ。俺を切り刻んだ刃物である。


「妖刀――雪花せっか。これで目の前の悪魔を殺して下さい。それで全てが終わります」


 苦鳴を漏らして悪魔が逃げ出そうとする。

 しかしその背中は、凍ったように動かない。


「ねぇ、知っていますか? 悪魔さん。三叉路には魔除けの効果があるって。いや、正確にはこれは魔物の性質を利用したトラップなんですけどね」


「トラ……ップ?」


 悪魔が怯えた様子で振り返る。完全に形勢は逆転していた。


「なんでも。魔物っていうのは直進する性質があるそうなんですよ。だから三叉路の突き当りには魔物の侵入を防ぐ目的で、石敢當いしがんとうなる石標を置いてあったりするんですよね」


 振り返ると、どや顔の譲原の肩の向こうにそれらしき石碑があった。


「まあ匂坂さんを騙っていたこの一か月は、限りなく人間に近い状態だったから問題はなかったようですけど、私たちに攻撃をしようとして、ついつい本性を現してしまいましたもんね。だからあなたは今、直進しかできません。逃げることはできないのですよ、悪魔さん」


「だったら――!! 殺すまでだッ!」


 ひょいっと俺の陰に隠れる譲原。たったそれだけで悪魔の拳が宙で止まってしまう。


「アホですねぇ。この人の体に入ってるからアホが移るんですよ」


 この期に及んで俺を馬鹿にすることを忘れない。

 しかしそんな譲原のお蔭で気分も幾分か落ち着いてきていた。


「さあ、匂坂さん。悪魔を殺して下さい」


 俺は雪花を握り締めた。手のひらが痛む程に強く、強く。

 息を吐く。一歩、踏み出す。悪魔の表情が恐怖に染まる。


 涙を流して、鼻水を垂らして、懇願する。まるであの日の俺のように、命乞いをする。


 一歩、また一歩と悪魔に歩み寄った。

 もう目と鼻の先だ。悪魔はそんな俺から逃げるように後ろに下がろうとして、しかし体がそれを許さずに尻餅をついてしまう。


 その喉元に、俺は雪花の切っ先を突きつけた――その瞬間である。


 悪魔の顔が歪み、変化する。見覚えのあるその顔に。

 母の顔に変わる。もう忘れてしまっていた母の声で「殺さないで」と叫び続ける。


 手が震えた。顔が俺のままだったら、どれだけ楽に殺せていただろう。でも、目の前にあるのは母さんの顔だ。母さんの声だ。


「匂坂さん!」


 そんな俺をせかすように譲原が声を荒げる。

 否が応でも、あの日の惨劇が頭を過る。頬を撫でる母さんの姿が脳裏をかすめる。


「……殺せない」


 声を振り絞った。

 二度も母さんを見殺しに出来るはずがない。


 哄笑が三叉路に響く。それすらも母さんの声だった。譲原が嘆息を吐き出したのが聞こえた。悪魔が刃のように手を尖らせたのが見えた。


 攻撃は当たらない――はずだった。




 しかしその一撃は俺の胸を貫き、そして俺の中へと入りこんでくる。




「時間を稼ぐつもりっすね」


 悪魔の体が、完全に目の前から霧散して、頭の中で悪魔の声が響いた。

 雨音の向こうで、悪魔は笑う。


「……殺せない」


 呆れた様子の譲原。もしかしたら彼女にはわかっているのかもしれない。


「だから。今度こそ一緒に死のう」


 笑い声が止んだ。

 静寂が淀む。

 目を瞑る。

 柄を再び強く握り締めて、そして――俺は自らの胸に雪花を突き立てた。


 激痛と悪魔の断末魔が、全身を駆け巡る。

 とても意識を保っていられなかった。


 意識を手放すその刹那、赤い腕が見えた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る