雑木林
@kimijima7777
雑木林
ザーザー降りだ。
都会の雨だ。
『ドアが閉まります。ご注意下さい。』
人が多い。足の裏がぐじゅぐじゅして、指先が冷たくて落ち着かない。気持ち悪い。
帰ったら靴下を脱いで、洗濯して、風呂に入って、飯を食べてゆっくりしよう。
「……」
ため息の代わりに鼻で荒い呼吸をする。
ゆっくりなんて出来るわけない。なんでいつもこうなんだろう。いつもいいように扱われ、内心では不満を抱えながら、結局それを口に出す勇気すらない。おれはいつだって駄目なんだ。本当に休まる時間なんてないんだ、おれには。
鞄も濡れてしまった。書類は……良かった。大丈夫だ。クリアファイルに入れておいて良かった。
雨の音が激しい。
最近は雨が少し怖い。水面に映るおれの顔を見ると、迫り来るような、じっとりとした、嫌悪感がおれにつきまとう。
都会の道路に激しく打ち付けられる水溜まりに時々映り込んでいたビルが、まるでここから飛び降りろと言っているかのように感じてしまっている。パソコンのランダムに変わるローディング画面に映る美しく生い茂る雑木林でさえも、ここなら君が居なくなってもバレることは無いと囁いているように思えてくる。
『お前が好きだった。』
『嫌!行っちゃダメ!!』
『幸せになれよ。』
ふと、暗い部屋に点けられたテレビから、こんな台詞が聞こえてきた。このドラマももうこんなに進んでたのか。まだこんなに進んでなかった気がする…最後に観たのはいつだったか。
流れるキスシーン。ねっとりとした舌づかいを一番に凝視してしまう。そのディー
プな雰囲気は、ダークブラウンの家具が夜の暗さでさらに暗闇に溶け込んでいるこの部屋の空間とマッチしていた。一人用としては大きいカウチソファに寝転びながら、男は一人考える。
こんなに切なそうなカオしてもなお振られるんだもんな。不憫なもんだ。こんな彼女いたらなあ。一緒に美味しいものとか食いてえなあ。明日の昼どうしよう。たまにはコンビニ以外にしようかな。ああ、それ終わったら今日の企画の書類の続き作って、なんとか五時、いや四時半に提出できるか?
「……あぁ、」
思考が声にならない声で途切れた。
さっきの女優が着ていた、赤いドレス。強くて目を惹く真っ赤なドレス…
…どうして。
赤ってもっと、暖かいはずだろ。なのにどうしてこんなに冷たいんだ。どうして、こんなに、空っぽなんだ。
都会の道路に激しく打ち付けられる水溜まりのビルが無機的で、ネオンが幻覚のようで、雑木林が、雑木林が……
雨が上がり、再び日が差して、気温が一日の中で最も高くなった頃、訪れてしまったのは。武蔵野の雑木林だった。
ーーー小さい頃、お父さんとお母さんと麦茶の入った水筒と、麦わら帽子を被ってよくここに遊びに来ていたんだ。大して面白くはなかったけど、嫌いでもなかった。日陰が心地よかった。以来僕は何か思い立つといつもこの雑木林に来ていたんだ。この静寂に包まれるのが好きだったんだ。この世の一切の出来事との関わりを絶って、一人静寂に包まれるんだ。ここにいるときだけは、僕は良い思いができる。そうやって何度も何度も、何度も何度も僕は僕を押し殺してきたんだ。良い思いができたから、また次も頑張ろうって根拠のない自信と中身のないやる気で自分を保っていたんだ…。
もう一回あの静寂が欲しい。そう願うのに、静かな時間がほしいのに、あの五月蝿くて嫌でも目に入ってくる真っ赤なドレスが邪魔をするんだ。頭の中で何度引き裂いても、その赤は消えないんだ。赤、あか、君まで僕を困らせるのか。
「赤っつうのはね、いいか、よく聞くんだ。赤っつうのはね、鮮やかなんだ。見てみろ、ほら、どの色よりも目立ち、どの色よりも美しく、そして綺麗だろう。それにしなやかさもあって、とても可憐だ。」
年上の男の声がした。
「君にもよく似合っているよ。」
「…やめて下さい。僕は男だ。」
赤、僕が好きだった色。きらびやかで美しかったから。でも、その色は僕の雑木林とは全く正反対だった。僕の雑木林には何の介入もあってはならない。だから僕は、赤を捨てたんだ。
ふと視界が滲んだ。僕は声にならない塊を吐き出しながら、僕は男だと言い続けていた。
雑木林 @kimijima7777
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