第9話 誰が至強か
数ⅡBをやろう。
優也はそう考えた。
数ⅡBの夏季課題をやろうと考えた。
隣室では姉とその友人がよろしくやっているのだろうから、冷房でキンキンに冷えたリビングでだらけていると母から十中八九文句を言われるのに間違いない。
教科書と課題のプリントを引っ張り出し、机の上に店を広げて、抽斗の中からシャープペン。二回ノックして芯の長さを調整した。
さあめくるめく数字の世界にいざ征かん……としたところで。
「優也? ちょっといい?」
ノックもそこそこに母が優也の部屋のドアを開けた。
「何?」
「樹理にお菓子と飲み物持って行ってくれない?」
「……」
「分かった」
椅子に座ったまま振り向いて、母の顔を見ながら母が言った言葉を数瞬の間反芻するための間を要して、しかし優也はその言葉に頷いた。
手ぶらで部屋を訪れた母に対して、「俺の部屋来るくらいならそのまま姉ちゃんの部屋に持っていけばいいじゃん」という考えがないわけではなかった。
だけれどそれについて言及する時期は数年前に過ぎ去っていて、ここは素直に頷いてやり過ごした方が省エネで済むという一種の諦めを優也は学んでいた。
「下にあんの?」
「お盆に載せておいたからそれ持ってって」
そこまで準備してるなら母が自分で持っていけばいいじゃないという思考が加速するが、そんなことはおくびにも出さず、優也は再度頷いた。
一階に下りて、確かに盆に載せ用意されている菓子とジュースを持って姉の部屋に向かう。
――これは優也が食べていいから。
母から渡されたチョコレートとビスケットの組み合わせがニクい、チョコ部分に船が描かれたアイツを対価として提示され、不承不承個包装のそれをついでに盆に載せた。
とんとんと音を立て階段を上り、姉の部屋の扉をノックする。
「姉ちゃん、菓子と飲み物持ってきたんだけど」
部屋の扉が開かれ、姉がひょいと顔を出す。
「優くんありがとぉ」
ぬるりと樹理の手が伸びて、わっしと盆を掴まれた。
「ちょ、ちょ、ちょい」
アルフォーなアイツは俺の俺の。
「? どうしたの?」
「いや、それ」
チョコクッキーは、俺の。
そう答えるのは何か恥ずかしい。
ポテトチップスが俺のなら言える。
けれど、チョコクッキーが自分のだと姉に答えるのは何か恥ずかしい……!
「?」
盆を持ったまま姉が部屋に引き下がる。
――畜生ォ! 持って行かれた!
――アル! アルフォーなんとか! くそ! こんなことがあってたまるか!
――返せよ! たった一つの勉強のお供なんだ!
そんな問答が優也の内心で行われていたのかは定かではない。
「!」
だが何故かまごつく弟を見て、姉は途端に得心がいったかのように表情を明るくした。
樹理は盆を引き継いだまま一度広げたテーブルの上に戻し、再び扉の前の優也に向かい、ぬるりとその両手を伸ばしその二の腕に抱きついた。
「優くんも一緒に食べよう? ね? そうしよう? それがいいよぉ!」
ぐいと優也の身体を引き寄せる力が強い。
「いやっ、ちょっと、それはっ」
樹理の扉が閉ざされて。
優也は無事扉の向こうへ持っていかれた。
「んふふふふふふ」
瑞希は現状を眺めて押し殺した笑みを浮かべたつもりだったが押し殺しきれず怪鳥のような気色の悪い笑みを漏らした。
――
先人の言葉は何時だって正しくて何時だって素晴らしい。森羅万象その尽くが諺か四字熟語で補完されているのだろう。
傍らではお姉様ラヴの
――樹理は乳がでけェんだ! 窪んでねェんだ! パッドも寄せて上げても必要ねェんだ!
瑞希の心の中で兵士が叫んだ。
そんな乳に抱き寄せられるのは確かに羨ましいと思う。オギャりたいと瑞希も思う。
しかしどうだろう弟くんの死んだ顔。
感情というものを母の腹の中に忘れてきたのだろうかと問いたいほどに表情筋が死んでいる。
そもそも、何故この馬鹿は弟くんを連れ込んできたのか。
以前会話したときにあたしが「居心地悪かったら友達の家に避難する可能性がある」という提言を無視しているのか。
その言葉を忘れているのか、現時点で避難していないからオッケーサインが出たと考えているのか。どっちにしたって馬鹿野郎である。
樹理に対して弟くんの好感度がガンガン下がる音が聞こえる。科学の発展につきものの犠牲になってもこんなに下がる音聞こえないぞってくらい下がっている。
姉とほぼ面識ゼロのその友人二人に囲まれる。うーん想像しただけで居た堪れない。
そこまで理解した上で瑞希は弟くんを満面の笑みで受け入れた。好感度が下がるのは樹理だけである。あたしにとっては関係ねえやという黄金の精神の持ち主であった。
「改めて紹介するね。私の弟の優くん」
「知ってる」
「……すぞ」
横から小さく呪いの言葉が聞こえた。
「ンッフ」
瑞希は堪えきれず小さく噴き出した。
「……小笠原優也です。弟です」
小さくぺこりと頭を下げる優也。
ずっと小せえ挙動が続くな、と瑞希は内心で思いながらテーブルの上に置かれた盆の中からポテトチップスを一つ摘んで口に放り込んだ。
「三度目だけど宮前瑞希。大学一年」
手を上げて瑞希は元気よく応じる。そして足の爪先で横にいる後輩へ小さく蹴りを入れて促す。
「清水由愛。高三。私の方が年上だから」
「はあ」
「オッフ」
そこでマウントを取っていくのか。
由愛の謎マウントに瑞希は顔を背けて細かく震える表情を隠した。
「まあ座りたまえよ弟くん。我々はあまり気にせず何時ものように」
「そもそも姉の部屋に立ち入ることが何時ものことではないんですけどね」
言いながらキョロキョロと周囲を見渡して、結局優也は姉のベッドに腰掛けることにした。
流石にテーブルに入り込んで膝突き合わせるほどの勇気がなかったからそうしようとしたのだが、腰を下ろそうとしたところで。
「ア゛ア!?」
獣のような声がした。
「えっ」
「はい由愛、どうどう」
「もんぐー! ふんぐー!」
由愛が瑞希に後ろから羽交い絞めにされ口を押さえこまれた。
「え、何、なんですか今の」
「いんやあ? 何でもないよ気にしないで。多分コイツの尻の座りが悪かったんじゃないかなぁ?」
瑞希がそのまま由愛の首根っこを掴み、ずりずりと部屋の隅に引き摺る。グエーと悲鳴が由愛の口から漏れていた。
「ごっほ、げっほ。ちょっと先輩、何をするんですか。あいつお姉様の、あろうことかベッドに! ベッドに腰掛けようと!」
「ああ、あんたが大分アレなのは百も承知だけど、もう少し取り繕ってもらっていい?」
「大分アレ!? それはあの野郎の方でしょう!?」
「樹理の肉親やぞ」
声のボリュームを極限まで落として、部屋の隅でぼそぼそと言い合う二人を尻目に、優也は極めて手持ち無沙汰にしていた。
姉と話すこともない。姉の友人と話すこともない。ただ連れ込まれた哀れな子羊。本当に自室で宿題を消費していた方が有意義な時間である。
「優くん。お菓子食べないの? ……食べさせてあげよっか。あーん……」
「あっ、結構です」
チョコプレッツェルを突き出してこようとする姉を両手で制してノーサンクスの意を表する。
「オオ゛イ!?」
「うわやっぱり何!?」
「もうこれ解き放った方が面白いかもと思い始めてるあたしがいるよー」
ビビる優也に猛獣が跳び掛かって行かないよう、瑞希は由愛の首をキュっと絞めた。ゴエーと乙女が発してはいけない声が由愛の喉から鳴る。
「あの、すいません。先ほどから清水さんは一体何を……」
「そうだねー。よく分かんないよねー」
菩薩のような表情を浮かべた瑞希が由愛の首から手を離す。
「ケダモノが一匹紛れ込んでるって思ってもらっていいよー」
「ケダモノはあちらでしょう! ふしだらな!」
「そうだねーどっちかと言うと樹理もまたケダモノだねー」
「お姉様がケダモノであるはずなど!」
「ええと、ちょっとタイム。いいですか」
口角に泡立てる由愛を見て、優也は樹理と瑞希を交互に見やってから「すいません、宮前さんちょっといいですか」と廊下を指で示した。
樹理と瑞希、どちらがより話しが通じるかを優也が考えた結果、肉親である樹理よりもろくに会話さえしたことがない瑞希に軍配を上げた。
「ちょっと樹理、あたしは弟くんからのラブコールに答えなきゃならんからあんたがこのケダモノ宥めといて」
「決してラブコールではないから勘違いしないでね?」
人を二、三人殺したことのあるように思えてくる冷酷な視線を向けてさらっと言ってくる樹理を適当に流し、優也を伴い瑞希はドアを開けて廊下に出る。
由愛が「お姉様、二人っきりですね」と樹理に這っていくのをドアの隙間から瑞希は見た。
「さて、何のようだろう弟くん」
「……出会ってばかりの人にこう言うのも何なんですが、その、あの清水さんは一体どういうお方で?」
「クッフぅ」
至極妥当な質問にやはり瑞希は笑いを噛み殺した。出会って五秒で奇行。やべー奴なのかと疑うのに間違いはなく、事実やべー奴なのに間違いはなかった。
「うーん、まあ、見ての通り、あいつは樹理に懸想していてね?」
「懸想」
「ちょっと樹理のことに関するとブレーキってのが緩くなる」
言葉にこそ出さないが頭の螺子もだろう。あの有様は大分緩い。
「樹理が……その……ブラコン? だというのは由愛も知ってるんだろうけど、目の前でお姉様が弟くんを甘やかすのを見るとやはり熱暴走を起こすみたいだね」
「それはまた……」
優也はたっぷりと言葉を選んで。
「難儀ですね」
「ンッフフフフフ」
チョイスをした結果が瑞希のツボに入った。
難儀。難儀て。
難儀なのはどっちかというと意味もなく目を付けられている弟くんの方だろうし、言葉遣いも最大限の配慮してる感じが伝わってきてとてもイイ。
「ンフッフフフフフ……。……あまり気にしない方がいいよ。懸想と言っても女子高の寮っていう閉鎖空間で思春期に拗らせたもんだとあたしは考えてるし、そんな本格的にセクシャリティどうのこうのを考えるほど大層なもんじゃない。十年後にはどっかの男と恋に落ちて結婚して子供産んでるとあたしは思う」
「はあ、そうなんですか……」
「まああいつの戯れに愛想を尽かさず適当に流してくれたら有り難いね」
「なるほど」
分かりました?
了解に疑問符をつけて、一応の回答を優也は返す。
周囲に変わり者が一人増えたと考えることにしよう。
そう折り合いをつけて、優也は姉の部屋に戻ろうとドアを開けた。
「お姉様! お姉様! お久しぶりですお姉様!」
「そうね。卒業して以来ね、由愛ちゃん」
すんはー、すんはー。
清水由愛は樹理の下腹部にしがみつき。深呼吸しながら顔をぐりぐりと押し当てている。
「二人っきり! 久しぶりの二人っきりですお姉様!」
「そうね、二人っきりなのは何時以来かしら」
「百四十二日ぶりですお姉様ァァァァァ!」
――ッスゥー。
息を小さく吐いて、優也はゆっくりとドアを閉めた。
「……ごゆるりと」
優也の後ろでは、瑞希は腹を抱えて声も出さずにひきつけを起こし音もなく笑っていた。
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