第8話 おハーブ生える
ぱっぽー、ぱっぽー、ぱっぽー。
炎天下の青空に、歩行者用信号機が青に変わったと鳴り響く。
じわじわ蝉が鳴いて、アスファルトをみれば熱気に空間が揺れて見える。
このままどこか屋内に入ったら、なんだか視界がやたらと紫掛かって見えるだろうなと、日除けの帽子を被った女性が駅前広場のベンチに腰掛けた。
ぺりぺりとコンビニで買ったサイダー味の氷菓の封を開けて、さくりと音を立てて角を齧った。
「いやあ……」
駅前の電光掲示板を見る。今日の日時と、現在の気温がそこには記されていた。
「アツがナツいぜ」
八月初旬。三十五度。午後二時三十分。
大学生、宮前瑞希、十九歳。
この地方都市を訪れる後輩を、猛暑日の只中待つ出来た先輩の姿がそこにあった。
大学は七月の下旬の頃にはとっくのとうに長期休暇に入っている。
しかし後輩が通う、瑞希も通っていた女子高は八月一日からの一ヶ月間が夏休みである。こうして後輩と顔を付き合わせるためには、駄目大学生に相応しくモラトリアムを満喫している自身より、青春真っ盛りの後輩に合わせた方が優しいというものだ。
件の後輩は長期休暇に伴い一度実家に帰り、数日の間両親と過ごして、今日電車に乗って瑞希と樹理が住まうこの町にやってくる段取りとなっていた。
到着予定時刻は午後二時四十分。なんと十分前行動を果たした己を褒めてやりたい気分だった。
いっそ今食べているこのアイスもお高く、そして濃厚な奴を買えば良かったのかもしれないと瑞希は考える。頑張った自分へのご褒美である。事実として大して頑張ってもいないが、隙を見て軽率に自分を甘やかしていきたい。
「お」
アイスの木の棒から「あた」という文字が見えてきた。
「あたりじゃん」
たかだか一本百円そこそこのアイスだが、なんだか得した気分になってくる。
瑞希はじゃくじゃくと音を立てて残り噛み砕いて、木の棒だけになったそれをまじまじと眺める。
「こっちで正解だったなー」
――さよならお高いアイス。お前はお前で良い奴だったよ。でも今日はお前じゃなかったんだなぁ。みずき。
心の中で一節の詩を描いて、瑞希は前言を軽々しく撤回し自身の選択を讃える。
意気揚々とアイス棒を口に咥えたまま、そろそろ到着したであろう後輩を迎えに駅構内へと足を向ける。鼻歌混じりに。
スーツケースを引く。
ガラガラと音を立てて。
一人旅にしてはやたらとでかいそれをえっちらおっちら引っ張って、少女はホームの途中で腰を伸ばした。
改札を通り抜け、辺りを見回すと見知った顔が一人、木の棒を加えて上下にぴこぴこと動かしていた。
がらがらがらがらがら。
やたらとでかいキャスター音が駅中に響く。
「先輩、お待たせしましたか?」
「十分ちょいくらい? にしてもあんたそれうっさいわね。というかデカいわね。何日分持ってきてんのよ着替え」
「これでも三日分くらいですよ?」
「嘘付け押し込めば一週間分は入るでしょこれ」
先輩、宮前瑞希の言葉に少女は思わず絶句する。
「……先輩、普通の女子は嵩張るものなんです。先輩の身軽さが異常なんです」
そう言って少女は眼前の瑞希の姿を上から下までじろりと眺めて、嘆息した。
パンツ、シャツ、帽子、口に咥えたアイスの棒。
装備品は以上である。出発したての勇者の方がまだ整っていそうだ。ひのきの棒相当のものさえ持っていない。
「駅にあんた迎えに来るだけなのにそんな身嗜み整えてどうすんのよ」
「それをするのが女性というものだと思うんですけれど?」
「……そう?」
「はい」
言われて、瑞希は自分の姿を改めて見直す。
着飾ってはいないが、特におかしな点はない。シャツに食べ物が跳ねた染みもないし、鍵もスマホもポケットに入っている。
「……あんたそのでっかいのどうするの?」
何も問題はなかった。何も問題はないので、えらそうな後輩の話は流すことにする。
「……駅前のビジネスホテルに泊まる予定ですので、そこに一度置きます」
「何泊予定? 一日二日ならウチに泊めてもいいわよ? 気ままな学生一人暮らしだし」
「……何日までだったらお姉様にご迷惑掛からないと思いますか?」
「うーわ」
何日いるつもりだよこいつ。
瑞希はごく普通に限界ギリギリまで樹理の傍にいようと試みる姿に顔を顰めた。
「変わってないわねあんた」
「先輩たちが卒業していってまだ半年も経ってませんよ?」
成る程確かにたった四、五ヶ月で人が変わるなんて滅多になかろう。人生観を揺るがす大きな出来事などそうそうありはしない。
だが、それでこそだと瑞希は内心でほくそ笑む。
未だに樹理のことをお姉様と慕う眼前の少女、彼女が向かう先は敬愛すべき樹理の実家である。
そしてそれは同時に、少女が嫌というほどお姉様の口から聞かされてきた「お姉様の弟」も住む家ということになる。
愛すべきお姉様が愛を向ける弟くん対お姉様大好き後輩。
――ぜったいたのしい。
瑞希は確信する。
この三人が邂逅するその瞬間がもう少しでやってくるのだ。
樹理は同姓相手に恋愛感情は覚える人ではなく、弟くんも実の姉に欲情する人間ではない。
どうやっても想いが交わりあうことのない関係性だから、これ以上ない娯楽として瑞希は楽しめる。
「あの、先輩」
「なに?」
「なんで笑ってるんですか?」
「いや、なんでもない? なんでもないよ?」
いけないいけない。思わず顔に出てしまっていたようなので、瑞希は両手で自分の頬をぐにぐにと揉み解す。
「それじゃ、行きましょうか、由愛」
「はい」
宮前瑞希と小笠原樹理の後輩である彼女は、建前としては彼女がVTuber化する際の打ち合わせと称して、樹理との数ヶ月ぶりの接触を持つことに成功した。
「あっそうだ」
瑞希が足を止める。
「どうしたんですか?」
「これあげる」
「ゴミじゃないですか。いりませんよそんなの」
瑞希は口に突っ込んでいたアイスの棒を由愛に突き出す。
唾液まみれでデロデロ……にまではなっていないが、口の中に含まれていたものを目の前にやられて由愛は思わず顔を顰めた。
「いやいや、よく見てみなって。これ当たりよ?」
「はあ」
「これ上げるからコンビニで変えてきてもらいなよ。そしてお前はそのアイスを貪り喰らいながら私にこう言うんだ。こんなうめえもん食ったの初めてですわ! つってな」
「何度か食べたことありますけど。先輩は前々から私のことを一体なんだと思っているんですか?」
「こんなうめえもんがこの世にあるんだから不思議」
優也はクーラーがよく効いたリビングにて氷菓を噛み砕きながらだらだらと過ごしていた。
冬にこたつでアイスも良いが、やはり夏に食べるアイスがストロングスタイルで優勝する。
ソファに寝っ転がり、シャツから腹がはみ出てるのも気にせず、左手にアイス、右手にスマホで溶けていた。
「優也、だらしないわよ」
キッチンで洗い物をしている母から小言が飛ぶが、「んー」と返すだけで優也はそのまま液状化が止まらない。
母も母でだらけるのがそれで収まるとは考えていなかったので「まったく」と嘆息をして匙を投げた。
しばらくそのままごろごろ過ごしていると、不意にチャイムが鳴らされた。
「優也、ちょっと出てくれる?」
「んあー」
ずりずりと立ち上がり、食べ終わったアイスの棒(はずれ)をゴミ箱に放り捨てて、居間から扉を開けて玄関に向かう。
廊下はむわっと熱がこもっており、不快感があった。
もう一度鳴らされたチャイムに「はいはいちょっと待ってください」と独りごちながら玄関のサンダルを突っかけて鍵を外し、がちゃりとドアを開ける。
「はい、どちらさま?」
「やあ弟くん」
夏の熱気の中には女性二人が立っていた。
優也からすれば一人は一度見た人で、もう一人は多分初めましての方だった。
「あー、姉さんの友達の……」
「宮前瑞希だよ。一度あったよね。こっちは樹理の後輩の……」
「清水由愛」
「……だよ。よろしくね」
瑞希が何故か小鼻を膨らませて、声を震わせながら言う。
「はあ、よろしくお願いします。……姉さん呼んできますんで、ちょっと上がって待ってもらえますか」
「それじゃ、お邪魔します」
「お邪魔します」
とりあえずは二人を玄関に迎えいれて、優也は廊下から階段を登り姉の部屋へ向かう。
「挨拶くらいちゃんとしなさいよ」
「……気乗りしません」
そんな会話が後ろから小さく聞こえてきた。
――お姉ちゃんの部屋。ノックしてね。
最後にハートが描かれたドアプレート。
思えばこれがぶら下げられるようになったのは割りと最近のことだったと優也は述懐する。
それこそ、何時か自分が晩飯が出来たと伝えに来てからのような気がする。あの時姉は珍しく自分の言葉に「うぴゃい!」と奇声を発しながらびくんと肩を跳ね上げさせていた。
結局、VTuber雪那の配信に入り込んだその声は凡そ自分の声だった。九割九分、己の声だと優也は認めた。
夜、寝る前にベッドに潜り込んで、スマホにイヤホンを差し込み、掛け布団とタオルケットに包まって、再生数が伸びている「雪那」の雑談枠を幾つかタップしていく。
ありがたいことなのか、それとも優也からすれば迷惑なことなのか、コメント欄にはその都度見所のようなものタイトルとその時間指定を書いてくれている不特定多数の人がいた。
数度の動画再生で、優也が探していたシーンは容易に見つかる。見事にコメントにて時間帯を指定されており、誰もが容易に気軽に視聴可能という万全のありがた迷惑にて出迎えをされる。
恐る恐る、震える指先でその時間指定をタップして飛ばされたシーンの先にて。
「……」
事此処に至って、自身が日頃話していて骨伝導を通じて聞こえてくる自身の声と、空気の振動によって他者に聞こえる声は大分違うという逃げ道に進むのはいっそ無粋に思えて。
カラオケだとかムービーだとかを介して他人に聞こえている自分の声というものを十二分に理解している優也は潔く声の正体を認め、そっとアプリを落とし、イヤホンを抜き、寝た。
つまり姉を呼ぶ声が自分なのだから、自分に呼ばれている雪那は、そういうことである。
友人だとか人前で話すよそ行きの声でこそ決してないが、テンションの低い、身内の前で出す声がこれだ。
だからと言ってどうしようもない、どうすることも出来ない。ただ純然たる事実が白日の下に晒されただけのこと。
姉の盲愛は未だ健在であって、「雪那」という架空の存在を通して不特定多数に語ることにより、弟への直接的な求愛を制限するストレスのはけ口にしている現実は、否定も覆しようもないのである。
優也の立場からすれば、出来ることはただ一つ、沈黙を守ること。
現在の状況で歯車が上手く噛み合っているのだから、そこに石を、意思を挟み込ませる理由がない。
他にすべきことと言えば、樹理にバレない程度に今一度身を引き締めることだけだ。
息を一つ吐いて、扉をノックする。
「姉さん? 友達来てるよ?」
「あ、ありがとう。今出るね」
「あい」
少しの間待てば、姉が部屋から出てきて、一階で待つ友人たちの下へ向かう。
さて、全て世は事もなし。姉たちは姉の自室か居間のどちらかで過ごすのだろうし、単なる弟に過ぎない自分にとって彼女たちとはまるで関係のない間柄。姉が友人と遊んでいる間、己は自分の部屋で学校の課題でもなんでも消化しておこうと優也はそのまま自室に入った。
はずだった。
「紹介するね。この子が私の弟の優くん」
「あたしはもう一度会ってるよねぇ……」
「……」
「あんたはなんか喋りなさいよ後輩」
「……近い。お姉様から離れなさいよ
何故姉という存在は、自身の友人に弟を引き会わせたがるのだろうか。
この姉が特殊なのだろうか。
優也は姉の部屋にて答えの出ない問いを虚空に投げ掛けた。
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