第6話 ロボチガウ

「ただいま」

 その日優也が家に帰った時刻は午後四時を少しばかり過ぎたころだった。

 住宅街に立つ何の変哲もない一軒家の玄関ドアを開けると、そこには姉たる樹理がいる。日常である。優也にとって代わり映えのしない出来事に過ぎない。

「おかえり、優くん」

「……ただいま」

 優也が帰ってきた瞬間を何故分かるのか、毎日毎回弟の帰宅を出迎え続けるのは新婚ホヤホヤの夫婦でもやらないだろう。そういった細かいことはこの姉の前では些細な問題に過ぎない。

 樹理は言う。

「優くんが帰ってきたときに家の中の空気がなんか変わるの。それくらい分かるでしょ?」

 彼女の友人である宮前瑞希みやまえみずきはそれを受けて言った。

「分かるかそんなもん」

 樹理が全寮制の女子高に通っていた時代に友人と交わした言葉、青春の一ページであった。

「じゃあお姉ちゃんパワーだね。神通力の一種」

 樹理はのたまう。

「そうだねアハハ」

 瑞希は諦めた。

 花も恥らう天下の女子高生がする、女子トークであった。

 無論、優也はそんな会話が繰り広げられていることを知るよしもなく。

 しかし姉のこの行動が幼い頃からの常識であっても、やがて歳月を重ねて他の姉弟関係を知るうちに異常であると気付き、同時に言って聞く姉でもないことを重々承知していたので、早々に咎めることを諦めた。

 例えるなら、飼い犬である。

 優也が小学生の時分、犬を飼う友人の家を訪れたことがある。

 その犬は玄関を開けた時点で飼い主である友人を待っていた。尻尾を振り、はっはっと舌を出して、居間に続くガラスが嵌め込まれた引き戸に立ち上がって待っていた。

 友人はそれを見て「ちょい待ち」と優也を差し止める。何故かと問うと「嬉ションするんだあいつ」と応えた。

 犬のおしっこを引っ掛けられて喜ぶ趣味もない優也は成る程、とその犬が友人に連れられ隔離されるのをじっと待った記憶がある。 

 一々玄関にて己を待つ樹理はつまり、そういう類のものである。

 優也はいつしかそう考えることにして、深い詮索をしないことにした。

 それに、これでもムショ生活以前と比べてこの時の姉の言動もいくらかマシになっている。

 優也が小、中学生だった時は「おかえり」と「どこ行ってきたの? 寄り道はしてきた?」までがワンセットだった。

 これを家に帰るたび聞かれる。

 これは流石にたまらない。干渉が過ぎる。

 中学二年にもなると思春期と反抗期がピークを迎える。これ以上詮索されるようなことがあればいよいよもって姉を突き放そう。

 優也がそう思い至ったタイミングで、父が姉を封印することに成功した。

 振り上げた拳をそのまま振り下ろす機会を失って、優也は内心で安堵の息を漏らしていた。

 しかも寮生活から帰ってくると樹理にある程度の常識というか理性というものが宿ったのか、それまでの過干渉が減じていたのだ。

 ならば今現在の出迎え程度など痛痒にすらならない。可愛いものだ。

 帰宅の挨拶を返すことなど、家族なのだから当然だし。と、優也は現状においてそこそこの満足を得ていた。

「あ」

 だが、だがしかし。

 ここに至って姉に対する懸念事項が増えてきているのも事実。

 挨拶を交わしたことによって満足し、自室に戻ろうとする樹理を優也は呼び止めて。

「どうしたの、優くん? お姉ちゃんにお話?」

「姉さん、これを聞くのは俺も本当に心苦しいんだけどさ」

「何? なんでも言って? お姉ちゃんは優くんの言うことならなんでも聞くよ?」

「じゃあ聞くけど」

「うん」

「俺の部屋に盗聴器とか隠しカメラとか仕掛けてない?」

 優也は、もういっそ素直に問いただすことにした。

 盗聴器発見器を購入するのも高校生の財布には痛手だ。そもそも本当にあるかどうかさえ分からない。買って調べたはいいけれど空振りでした、では自身の思い込みと先走りでやらかしたこととなり、ダメージが計り知れない。

 それにこの姉ならやりかねない、とも思うが、それと同じくらい流石にこの姉でもそこまでは、という想いもある。

 ならばいっそこうして釘を刺した方が手っ取り早い。

「まさかね、やってはないと思うけど、そこまでしてたらいくら肉親でも本当に嫌うし、姉さんも俺が本気で嫌がることはしないって信じているから」

 それでも一応ね。

「……ヤッテナイヨ」

 間。

 それと、小声。

 そして、早口。

 なおかつ、樹理の視線が優也を向いていない。

「……本当に?」

「ウン、ホントウ」

「……分かった。信じる。ごめん、変なこと言って」

「アタリマエダヨ」

「流石に姉さんもそれをやったら俺が本気で怒って嫌いになるって分かってるだろうし、杞憂だったか」

「ソウソウ。……ソレジャア、オネエチャン、ヘヤニモドルネ」

「ん」

 樹理が二階への階段を登っていく。優也と樹理の部屋は、そちらだ。

 明らかに挙動がおかしい姉を見送って、優也は深く嘆息する。

 長年弟をやっていると分かる。あれは本当にやっていない。

 しかし、完全なる白でもない。

 あれは十中八九、「やろうとしてみて上手く行かなかったから断念した」時の表情だ。

「まあ……」

 ひとまずはこれで良いだろう。姉のブレーキには十分なっただろうし、万が一残りに十中二一で本当に仕掛けていても、これを機に取り外すだろう。

 その場合これまでの自室での行動が筒抜けであるというダメージを負うことになるが、そちらの可能性の方が低いから、優也は眼を背けることにした。

 往々にしてそれは現実逃避と呼ばれるのだろうけれども。




「……ねぇ、瑞希ちゃん?」

「お、戻ってきたなブラコン」

 自室に戻った樹理はしっかりと部屋の扉を閉め、通話状態にしたままだったスマホを持ち上げ、通話先の存在に語りかけた。

「……どうしよう、優くんの好感度下がってそうなんだけどぉ……」

「テンションひっく! さっきウッキウキで『優くん帰ってきたぁ!』ってスマホほっ放りだした人間と同じだとは思えんわ!」

 樹理の通話相手、宮前瑞希は友人のテンションの急降下ぶりにうろたえ、思わず突っ込んだ。

 宮前瑞希、女性、十九歳。

 小笠原樹理とは高校からの友人であり、今現在も同じ大学に通う級友である。

「なにあんた、ひょっとして『どっか寄り道した?』って尋ねでもした? 昔あんだけあたしが口酸っぱくそれはやめろ、ウザがられるだけって忠告したのに」

「気になったけどそれは聞いてないよ! 気になったけど! 何時もより二時間くらい帰ってくるの遅かったもの! 理由聞きたかった!」

 そして高校生活三年間を通じて、樹理にブレーキを仕込んだのも彼女であった。

 重度のブラコンである樹理の言動を今でこそ見世物感覚で楽しんでいる瑞希ではあるが、親しくなってその話を聞かされるようになっていた当初は、思う存分引いていたし、優也に同情もしていた。

 風呂に凸るな。

 誰かと遊んできたかとか付き合いに首を突っ込むな。

 パンツは盗むな。本気で引く。

 弟くんの歯ブラシを使うな。変態か貴様。

 半分以上は当時まだ会ったこともない弟くんの心の安寧の為に。

 もう半分は大変面白い題材なのに刺激というかエグみが凄いのでマイルドにして己が楽しみやすくするために。

 例えるなら、ブラックコーヒーは飲めないけど、砂糖とミルクを入れたら飲める。そうだ、このコーヒー、カフェオレにしよう。そういう思考。

 面白いのは結構だが、可哀想だとアレない、真顔でそうのたまうタイプの人間、それが宮前瑞希という人物だった。

「それじゃないとしたら何やらかしたのあんた」

「やらかしてもないよ! ただ盗撮とかしてない? って聞かれただけ!」

「それは、なにかを、やらかして、いないと、聞かれない」

 読点をたっぷりに、言い聞かせるよう瑞希は言う。

 いや、この友人はそれ以上に前科がありすぎてそもそもの信頼度がゼロなのもあるか。

「なんか心当たりは?」

「ないよ!」

「えぇー、本当にござるかぁ?」

「……」

「本当」

「間」

 いや間。今の言葉に詰まったか選ぶかしたかの間。

 明らかに心当たりのある間だっただろう。貴様は。

 瑞希がそれら十の感情を「間」の一文字に詰め込んだ。

「いや、その……未遂、って言うか」

「やろうとしてんじゃねえか」

 冷静な突っ込みが喉からするっと出てきた。

「違うんだよ? 聴診器を優くんの部屋側の壁に当てて『ひょっとしたら聞こえないかなー?』ってしただけで。実際聞こえなかったし、盗聴器をコンセントに仕掛けたり本格的なことはしてないよ?」

「発想が狂気」

 これは前もって「盗撮盗聴をしてはいけません」と教育すべきだったかと瑞希は天井を見上げるが、そんなもんそれ以前の問題だわと否定した。言われずともやるなよんなもん。

「つーかなんで聴診器なんて持ってんのあんた」

「子供の頃優くんとお医者さんごっこしたくてお年玉で買ったのが」

「エアでやれやエアで。何実物買っちゃってくれてんのよあんた」

「私って形から入るタイプなのかな?」

「知るかあんたの人格形成なぞ」

 思わず瑞希は米神を揉みほぐした。

 この弟馬鹿を少しばかり見誤っていたようだ。こいつはとてつもないド変態だと評価を下方修正する。

「で、弟くんにはなんて言って返したの」

「ヤッテナイヨって」

「ロボかな?」

 瑞希の通話相手が途端にメカメカしくなった。人であったはずなのに。

「明らかなんかやってる声音なんですが」

「だって、言えるわけないじゃない! 聴診器でチャレンジしてみたって!」

「そのブレーキをなんで実行する時に踏めないのかな?」

「……分かんない」

「そっかぁ……」

 分かんないかぁ……。

 瑞希は遠い目で天井の木目を見た。

 ならしょうがねえよなぁ……。

「じゃあもう諦めろ。弟くんからすればあんたの評価なぞ今更だ二十点でも十五点でも赤点なのは変わらない」

「そこまで低くはないでしょ?」

「正気かお前」

 樹理の自己評価の余りの高さに瑞希は目を剥く。

「あー……まあいいや」

 どうでも。

 投げやりなのを隠して話の転換だけの意味を持たせた言葉を吐く瑞希。

「弟くんはなんて?」

「信じてるって言ってくれた」

「弟くんっ……」

 健気さに瑞希は目尻を拭った。

「やってたら本気で怒るし嫌うとも言ってた」

「だろうよ」

 弟に常識を全て持っていかれたのだろうかこのじゅりは。

「……マジレスすると本当にやってないってもういっぺん言いに行くくらいしかないでしょ。聴診器云々はあんたも言いたくないだろうし弟くんも言われても困るわ」

「そうだね」

 しょんぼりと落ち込んだ声音が耳元から聞こえる。

 ああ、樹理でも落ち込むことあるんだなぁと今更ながらに思って、「あ、そういえば」と思い出す。

「弟くんに来週あたしと由愛ゆあが遊びに行くって伝えた?」

「あっ、まだ伝えてない」

「弁解ついでに伝えといてよ? 出来れば由愛と弟くんが鉢合わせしたとこ見たいけど無理強いできないし、居心地悪かったら友達の家に避難するかもしれないし」

「うん、分かった」

「それじゃ、今日はこのへんで。また今度ね」

「ん。バイバイ」

 通話終了。

「あー」

 瑞希は首と肩をこきりこきりと左右に回しながら呟いた。

「樹理の弟くん絡み面白いけど疲れるー」

 数十秒後、バーチャルの世界に生きる鬼が、似たようなことをSNS上にて呟いた。

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