第3話 ハト目ハト科カワラバト属
日曜日の昼過ぎ。テレビから流れる番組に対して優也は大して興味のあるものがなく、ただただ適当にリモコンのチャンネルボタンを押しっぱなしにしてザッピングする。
情報バラエティ、ドラマ再放送、プロ野球デイゲーム、政治バラエティ。
眼が滑る滑る。
生暖かい空気が滞留していた室内に、背中に吹きつけるエアコンの冷房が汗を乾かしていく。
結局テレビを点けている理由は見たい番組があるわけではなく、後輩女子の自宅キッチンダイニングにて一人ぽつんと静寂の只中に置かれることを嫌った結果の行動であった。
そう、一人ぼっちである。
優也は今まさに一人っきりであった。
その理由というのも。
後輩堀千尋は、先輩である小笠原優也を招いておきながらも、「すいませんちょっと汗が気持ち悪いんでシャワー浴びてきます」と言い放ったからである。
「はぁえ!?」
優也が意味のない奇声を上げるのも無理のないことだった。
「せんぱい、これでも私は女子ですよ? 汗臭いとか思われるのも嫌ですし、自分の家にいるのにいつまでも学生服とか嫌ですし」
普通じゃないですか。千尋は言う。
「確かに普通だと思うよ」
色恋沙汰ではないけれど曲がりなりにも男子を連れ込んでいる点から眼を背ければ。
「じゃああれじゃん。俺も先に家帰ってよかったじゃん。俺もシャワー浴びたいし着替えたかったし」
むしろ今からでも帰ってやろうか。そうした方がいいだろう。
千尋の家の住所は分かった。これならスマホの地図アプリに住所を入れれば一人で来れる。
「それならせんぱいも私の後にシャワー浴びたらいいじゃないですか」
「何言ってんの?」
先輩は後輩の正気を疑った。この家の何処かにインスマスの影が存在しているのだろうか。精神の平衡が保たれていない。
「冗談ですよ。着替える服がないですし、多分パパの服も先輩には丈が合わないと思いますし」
「二度手間ですし、シャワーの時間もそんなに掛けませんから待ってて下さいよ」
大丈夫、先輩は汗臭くないですよ。
そう言っておそらく自身の部屋だろう扉を開いて消えていく千尋の背中を見送って、優也はそういう問題ではないと頭を抱えた。
故の、テレビである。雑音である。
ファミリー向けマンションであるからして、防音は整っている。多分鉄筋コンクリート造りだろう。間違っても木造ではないし隣人トラブルが起こりにくい環境のはずだ。
だけれど何かしらの音を流しておかないと千尋がシャワーを浴びる音さえ聞こえてきそうで。そんなこと有り得るはずがないのだろうけど。
画面の中で喚声が起きて、それがやがてため息に変わった。五番バッターの打った大飛球はライトスタンド手前で失速して、ウォーニングゾーンで右翼手に捕球された。
結局画面はデイゲームに固定され、その場面は二回表の攻撃が終わるところだった。
三回裏ツーアウト二塁。外角のスライダーに倒れるバッターを死んだ魚のような目で見ていた優也は唐突に聞こえてきた唸る音に思わず身体をびくつかせた。
音の正体はおそらくドライヤー。
どういう構造になってはいるのか知らないが、まあ平々凡々の家と同じく洗面台が風呂場の手前にあるのだろう。そこからぶおおおんと髪を乾かしている音が少々漏れている。
やがて音が止んで、がちゃりと千尋がドアを開けて顔を出す。
「すいません、お待たせしました」
少しばかり上気した顔と艶やかに輝く髪。そして首に掛けたバスタオルとシルバーリムの眼鏡に、ジャージ。
幾許かの間を置いて、優也は言った。
「……北中のだっけ、それ」
東中出身、小笠原優也が指摘するのは、堀千尋が身に纏った中学校指定ジャージ。
優也自身も愛用する、卒業した中学のジャージを部屋着に転用したそれだった。
「お昼何食べますか?」
紺色のジャージを身に纏った、非常に
「簡単なのでいいよ」
作ってもらう立場の人間として優也は言う。
「なら納豆ごはんとかどうです」
「あ、うん。それでも別に」
「……」
千尋は当然ネタのつもりで言った。だというのに割りと素直に返されて言葉を失った。
「……焼きそばと、冷やし中華と、チャーハンあたりの具材ならあります」
何故か不貞腐れた。
声音を聞いて優也はそれに気付いた。だが何故。今のたった一回の言葉のキャッチボールで不機嫌になる要素はないだろうに。
「え、じゃあ、暑いし冷やし中華お願いできる?」
「最初から素直にそう言えばいいんですよせんぱい」
極めて素直なつもりだったのに。
唐突な理不尽に襲われた優也は、とりあえず何事もなく流すことが一番だと女
千切りのきゅうりに、ハム、錦糸卵、輪切りトマト。その中央に紅しょうが。それらが中華麺の上に乗せられた、極めてオーソドックスな「これでいいんだよ」という冷やし中華が二つ、テーブルの上に並べられる。
「どうぞ」
千尋は席に着くのと同時に、割り箸と冷やし中華のタレを優也に渡す。
「ありがとう」
ぱきんと箸を割って、タレの蓋を開けてとくとくと冷やし中華に掛けていく。
「いただきます」
麺と具材を箸でつまんで、ずるずると口に吸い込んでいく。
そんな優也を、彼の向かいに座った千尋が真顔でじっと見ている。
優也が気付く。
えっ、何。怖い。
銀縁眼鏡の中からじっと見据えるその眼に慄いた。
「……どうですか? せんぱい」
冷やし中華。
「ああ、うん。美味いよ」
普通に。
文字にしてその三文字をこそ口に出さず、優也は答えた。多くの言葉は時に円滑なコミュニケーションを阻害する。その処世術を彼は既に身に付けている。
千尋は納得のいく答えだったのか深く頷き、彼女もまた麺を音も立てず食べ始めた。
部屋である。
女子の部屋である。
昼を食べ終え、通された部屋はやはり、千尋の部屋である。
ピンクいものも可愛らしいぬいぐるみも大して置いてない、ぱっと見優也の部屋と大差ない、質実剛健とした千尋の部屋。唯一女子らしいところは本棚にある少女マンガと何処か甘い部屋の匂いくらいだろうか。
無感動。
無感動である。
部屋に通された優也は極めて無感動であった。
姉の部屋に比べれば随分乙女度数の少なめな部屋なので、なんら感慨を覚えぬ優也だった。
千尋はそんな優也の反応に気付くことなく、デスクトップPCを立ち上げてる。
「何から説明しましょうか」
慣れた手つきでパスワードを打ち込んで、読み込んでいる間の時間潰しをするべきく、千尋はパソコンデスク前の椅子の背もたれに体重を預ける。きぃ、と小さく椅子が軋んだ。
「あっ、どうぞ座ってください」
立ちぼうけだった優也に座るよう勧めたのは彼女のベッド。
優也は皺にならないようなるたけ静かにベッドに座り込んだ。
「とりあえず、定義的なのはいります?」
「いや、そこのところは大丈夫かな。大体ふんわり理解してるから」
「そうですか。……なら適当に話していきますね」
「せんぱいはYouTuberについてはどれくらい知っていますか?」
「そこそこ」
「そこそこ」
千尋は思案した。この先輩は何をもって、どんな杓子を用いて己が知識を「そこそこ」としているのか。
「……じゃあ、YouTuberにも企業所属とそうでない個人勢がいるっていうことは知ってますか?」
「あ、うん。知ってる」
「VTuberも同じで、個人で立ち絵や機材を調達して活動している個人勢と、企業に所属して活動している企業所属がいます」
「へぇー」
そーなのかー。
あまり気持ちの乗っていない感嘆が返礼品として千尋に届けられた。
「それで、有名なVTuberは結構な数が企業勢みたいですね」
「はぁー」
なるほどなー。
そこまで興味が強くなさそうな感心の声が欲しいものリスト外から千尋に送りつけられた。
「中でも企業と個人の区別なく登録者の多い人、人気のある人を人数でくくって、御三家とか四天王とか五大老とか第六天魔王とか七星とか八王子とか九州とか十日市と呼んでるらしいです」
「なに、戦でも起きてんの?」
「乱世なんじゃないでしょうか。VTuber業界も」
後半は地域名になっていたがどういうことか。優也はその業界のセンスに悩んだ。
「まず始まりの御三家」
「つよそう」
黎明期から活動していて人気もある人の括りです、と、千尋は説明する。
「バーチャルアイドル、
「それっぽい」
「バーチャルシンガー、
「……洒落?」
「バーチャル即身仏、
「……出落ちじゃなくて?」
人気なのか。ミイラが。黎明期から。
「含蓄ある言葉と落ち着いた耳通りのいい声の持ち主で、定期的に開催している人生相談に大層説得力があって人気だそうです」
「即身仏だからか」
やはり優也は業界のセンスに悩んだ。自身の感性が間違っているのかどうなのか。高校二年にして大変な問題を抱え込んでしまった。
「歌手四天王」
「結構まともそう」
「バーチャルドバト」
「待った」
優也は思わず腰を上げた。
「ドバトって、あのドバト?」
「あのドバトみたいですよ。見ます?」
千尋はブラウザを開いて「バーチャルドバト」と検索をする。
検索結果の一ページ目、一番上に燦然と輝く「バーチャルドバト」の文字。
千尋の肩口からPCモニタを覗き込む優也の瞳に、カーソルがその文字列をクリックする瞬間が反射した。
――バーチャルドバト。
バーチャルの世界で生息するハトです。よろしくお願いします。クルッポー。
現在地「上野公園」
528フォロー18万フォロワー。
「アイコン」
千尋が開き、優也が見たのは、バーチャルドバトの公式SNSトップページ。
「十姉妹じゃん」
「一応ハトらしいです」
バーカ!
そんな十姉妹の鳴き声を優也は聞いた気がした。
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